井戸端推理
「ごっゆくりどうぞ」
常連のアジアは今日ものそのそとフロア中央の階段へ吸い込まれるように消えていった。
莉奈の時と同じく「あいつはアジア芸術祭実行委員長なんだよ」とラブに大嘘を付かれたオガが「そう言われればなんか芸術家って感じしますね」と真面目に答えていたことをもちろんアジア本人は知る由もない。
横を見ると大西さんが連絡ノートを読んでいた。
「それに書いてあるからもう知ってると思いますけど、この間大西さんが噂してたパンクロッカーが不審な動きをしていたらしいですね。真鍋が休憩中にブースをノックされて、ドアを開けると慌てながら帰ったとか」
「ああ、みたいね」
てっきり自分の推理の正当性が高まったことを知り得意気になるかのと思いきや、大西さんの反応は予想外に薄かった。
「大西さん、あいつが犯人の大本命って言ってなかったでしたっけ?」
そう続けると大西さんは妙なトーンで答えた。
「あのパンクロッカーも真鍋の件を考慮すると確かに怪しいとは思う。でもさ慎君、俺たちは最初から盗難は常連の誰かの仕業に違いないと思い込んでいたよな?」
「はあ。まあそうですね。実際その確率が一番高そうですし」
「もしかしたらそうとは限らないのかもしれない」
大西さんの妙なトーンはまだ終わらない。
「どういうことですか?」
僕が尋ねると大西さんは小声で言った。
「実は俺、ちょっと前に星君が客のいるブースを覗き見ようとしているところを目撃しちゃったんだよね」
思わぬ人物の名前が挙がって驚きの色を隠すことができなかった。
「ええ?つまり星君が犯人ってことですか?さすがにそれはないんじゃないですかね」
「いや俺ももちろんそう決めつけたわけじゃないよ?誤解しないでくれ。ただね、昨日俺が偶然見かけた場面はちょっと普通じゃない気がしたんだよ」
このやりとりは高田馬場店に行った時に加納さんとしたものと酷似していて妙な気分になった。大西さんは周りを気にしながら続ける。
「昨日の七時くらいかな?俺がドリンクバーの片付けをしに三階に行ったら、おそらくリクライニングチェアの上に立ってたと思うんだけど、隣のブースをこっそり見下ろしてる星君を見たんだよ。見てはいけないものを見た気がして、とりあえずそのままUターンして戻ってきたんだけどさ」
「うーん、そこの客が長期滞在していてそれを確認するために上から覗き見たっていう可能性はどうですかね?実際僕たちもやる手段の一つですし」
大西さんは首を横に振りながら答える。
「いやその時のそこの客はまだ一時間くらいしかいなかったはずだよ。星君に直接訊こうかとも思ったんだけどなんか気まずくてさ。星君と仲の良い慎君には少なくとも伝えた方がいいんじゃないかと思って」
そこで今まで黙っていた莉奈も口を開き始めた。
「実は莉奈も星君のことでは気になることがあるんです」わずかな逡巡を見せた後、莉奈は続けた。
「これは盗難騒ぎとは関係ないんでしょうけど、だいぶ前に更衣室にあった星君のバッグを落としちゃって、その時に中の物がいろいろ出てきちゃったことがあったんです」
もしかしたら「盗難されてきた物が出てきた」という決定的な言葉が続くのではないかとあまり聞きたくなかったがそうではなかった。
「催涙スプレーが出てきたんですよ。あの浴びると目が開けられなくなるやつ。最初は大きめのデオドラントスプレーか何かかなって思ったんですけど。やけに小さかったので何だろうと思ってよく見たら」
催涙スプレー。これも僕がイメージする星君には随分と似合わないものだった。
「本当に?見間違いとかじゃなくて?」
「女ならまだしも、男だと催涙スプレーってまあ持ち歩かないよなあ」
大西さんも驚いた表情を見せる。
「うん、だから莉奈びっくりして」
「そもそもよく催涙スプレーって分かったな。僕は催涙スプレーなんか実際には見たことないぞ」
「前、お芝居の小道具で使ったんです。女子高生がレタス農家に復讐する役で。もちろん中身はただの水を使いましたけど」
内心どういう芝居なんだと思ったがそこは口には出さなかった。
「それで見た瞬間気付いたんです、レタス農家を倒したやつだって。もちろんすぐにバッグの中に仕舞いました。そう言えばお芝居の稽古中にお調子者の役者の人が『催涙スプレーがどれくらいの威力が俺が身を持って試してやる』とか言って実際に喰らって見せたんですけど、あれ、すごいですね。屋外でちょっと浴びただけで、その人、その日稽古できませんでしたから」
二人の口から僕の知らない星君が語られ気が動転していたのか、ずいぶんと単純なことを見落としていたのに気付いた。
「いやいや、催涙スプレーは分かんないけど、よく考えたら星君が犯人のわけはありませんよ」
「なんで?」大西さんが目を丸くした。
「だって過去の盗難騒ぎが起きた時、星君がシフトに入っていたことってほとんどないんじゃないですか?確か一連の事件って今までに四件くらい起きてましたよね。その内星君のいた時に起きた事件は確か一、二件のはずですよ。なんでこんな簡単なこと忘れてたんだろ」
「そう言えばそうだな…」
大西さんが星君が犯人でなくて良かったような、自分の推理が外れてしまい残念なような妙な表情で答えた。
「でも催涙スプレーっていうのはなんなんだろうね?男で催涙スプレーを持ち歩いているなんてちょっと普通じゃないよな」
「うん、それは確かに」
「慎さん、大西さん、これ絶対誰にも言わないで下さいよー」
「分かってるよ。それにしても昨日大西さんが見たという星君の不審な動きって言うのも気になる点ではありますよね。盗難騒ぎに関係ないにしても」
大西さんが無言で頷いた。
「慎さん、星君に訊くっていうのは?先週も東口に二人で飲みに行ったらしいじゃないですか」
「いや、それはちょっとな。少なくとも盗難事件の犯人ではないんだからさあ。それに僕が見たわけじゃないんだし」
「そうですよね」
星君が一連の盗難事件の犯人ではないことは、過去の盗難事件の発生時に彼が必ずしもシフトに入っていたわけではないことを考えると明白である。そして加納さんと話をした時には気付かなかったが、倉柳さんも同様の理由から犯人であることはあり得ない。現に先日起きた陸奥宗光似のサラリーマンが被害に遭った件では倉柳さんは盗難事件発生時にここにはいなかったはずだ。
しかし大西さんが見たという星君の不審な動き、そして莉奈が目撃した星君の催涙スプレー。この二つの事実に共通項はあるのか。僕の知る星君の像が少し揺らぎ始めている。
改めて先日の盗難事件の様子を少し思い出してみる。被害者のサラリーマンが十七時頃に入店後、盗まれたことに気付き受付にやってきたのが十八時頃。沈んだ顔で「あのう財布がなくて、多分盗まれたと思うんですが…」と僕の横で星君も一緒にサラリーマンの説明を聞いていた。思い出す限りでは星君に特に変わった様子はなく、サラリーマンが退店後「十万円盗まれたってマジで悲惨ですね」と顔を歪めていたことを覚えている。
「もしかしたらこの盗難事件は一人によるものじゃなかったりして」
莉奈が何気なく言ったその一言は、加納さんが偶然聞いた倉柳さんの発言を思い出させた。
『大丈夫、ばれやしないって。何のために俺がここにいるんだよ』
一体倉柳さんは誰とどんな会話をしていたのだろう?
倉柳さんと星君の顔が順に浮かんで、すぐに消えた。
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