盗難事件

エレベーターから出ると、有線が珍しくジャズということにすぐに気付いた。おそらく関さんが選んだに違いない。関さんはこの店の最年長で、最近は頭髪にもちらほら白いものが目立ってきた。かつて離婚して娘がいるということを匂わす発言をかつてしたらしいのだが、こっちからは非常に訊き辛いこともあり、その話題には触れられぬままとなっている。また関さんはかなりの音楽通であり、バンドマンのラブをして「ピーター・バラカンと話をしているみたいだった」とまで言わせた人物だ。以前が関さんが「森永さん、ジャズ聴かなきゃ音楽好きとは言えませんよ」と一度も音楽好きを公言したことのない僕にジャズとは何たるかを長々と話しかけてきたこともある。かつて川島さんが音大のピアノ科出身ということを知った時も、意気揚々とジャズピアノについて語ろうとしたのだがその時は「ごめんなさい、私クラシックしか聴かないので」と一蹴されていた。先日はなんとかデーブスとかいうアーティストの凄さを“先進性”という言葉を何度も使って僕に説いていたのは記憶に新しい。関さん曰く、なんとかデーブスの歴史はジャズの歴史といっても決して過言ではないとか。しかし関さんには申し訳ないが僕はなんとかデーブスが何の楽器を演奏しているかも忘れてしまった。

「森永さんおはよう」

「おはようございます、これ関さんですよね」天井を指差しながら尋ねた。

「ふふ、よくわかったね。J-POPも悪くないけど、それだけじゃ飽きちゃうから」

 関さんが微笑んだ。なんと返していいかすぐに出てこなかったので少し笑って「関さんJ-POP嫌いかと思ってました」と返しておいた。

「J-POP、おおいに歓迎ですよ。時折偏屈な輩がね、日本のポップスを小馬鹿にして語っているの。でもそれは完全にナンセンス。日本のポップスには日本のポップスのよいところがあるんですよ。洋楽にはない独自の文化。それを訳知り顔で批判なんかしちゃった日にはもうね。どこかのラッパーがリリックで『もう一度ジェームス・ブラウンから聴け』とディスっていたけども、僕だってそういう奴らには言いたいです。もう一度山下達郎から聴けとね」

 どうやら関さんを刺激してしまったようだ。

「ただね、J-POPだけに捕らわれるっていうのも、それはやっぱりよろしくありません。世界にはいろいろな音楽がありますからね。クラシック、ジャズ、ラテン、テクノ他にも数えきれないほど音楽があります」

「なるほど」

「僕が思うに音楽っていうのは日進月歩でどんどん新しくなってきているんです。ただそれと同時に色褪せてきているものもありますがね」

「なんでしょう?」

「今の音楽シーンっていうのはさ、音質はそれこそコンピューターだとかデジタル処理だかなんだかでずいぶんと小綺麗になっちゃいました。ただね、その分人間が演奏している暖かみだとか空気感、いわゆるグルーブっていうのが少なくなっちゃって。もちろん最近のデジタルミュージックとかを否定しているわけではありませんよ。テクノとかハウスも素晴らしい音楽だと思います。ただ今の若い人にももっと昔の音楽を聴いてもらいたい。温故知新ってやつですね。愛沢さんなんかはバンドをやっているからいろんな音楽をしっかり聴いていますよ」

 関さんが熱弁していると、滞在中の客がブランケットを受付に借りにきた。その隙に逃げるように更衣室へと向かった。


「森永さん、今度僕のおすすめのCDまた持って来てあげますよ。アナログもあるけどターンテーブル持ってないですよね?」と帰り際まで関さんは音楽談義を止めようとしなかった。関さんを見送った後、一緒にシフトに入っている莉奈と受付で談笑していると、エレベーターが止まりドアが開いた。

 ヘッドフォンを頭からはずしながらやってきたのは店長の倉柳さんだった。真っ赤なマウンテンパーカーに、黒のタイトジーンズという目を引く出で立ちだが、センスがよいのか品が悪く見えない。

「おはよう。今何人くらい?」

「そうですね。えっと、三十四人ですね」

 倉柳さんは特に表情を変えることなく「もうちょいだなあ」と呟いた。

「何かトラブルとかは?大西さんは入金?」

「そうです。トラブルは盗難の件以外は特にないですね。」

「そっか。盗難の件も知ってることでいいから後で教えてよ。じゃあ俺は上にいるからなんかあったら連絡して」

 そう言ってトランシーバーを片手に階段を上がっていった。

「倉柳さん来るとはね」

 倉柳さんの姿が消えた後、たっぷり時間を待って言った。

「莉奈、一瞬この人誰?って思っちゃいましたー」

「坊主にしたからね」

「ねえ、びっくりです。前のツーブロック似合ってと思うんですけどねー」

 倉柳さんのトレードマークであったツーブロックを刈ったのはおよそ二週間前。真鍋

の話では彼女と別れたからだとか。案外女々しいところがある。

「そういえばまた盗難あったみたいですね。しかも今回は大金が入ってたって」

「そうなんだよね。昨日も警察とか呼んで大変だったらしいよ」

「絶対常連の奴ですよねえ」

 受付の右手にある雑誌を整理しながら、莉奈の問いに

「たぶんね」

 と軽く返事をする。内心では「間違いなく」と思うが。


 ほーむ新宿店で盗難事件が相次いで起きるようになったのはおよそ三ヶ月前のこと。僕の記憶が正しければ、飲み潰れて終電を逃してしまった付けまつ毛と仰々しいアイメイクが嫌でも目に付く若い女性がこの一連の事件で最初の被害者だ。その日は僕が早番に入っていた日で、ルイヴィトンの大きなバッグ抱え、その目立つ瞼をぱちくりさせながら「つーか、まじあり得ないんですけど」と連呼し続けた彼女の様子をよく覚えている。八時間パックで入店し、ぐっすり眠ってさあ帰ろうという時に初めて財布が無くなったことに気付いたらしい。入店時にパック料金で入っているわけだから最初から文無しで来店したということはあり得ない。以前も盗難騒ぎが起きたことはあったらしいが、僕がそういった事態に対応することは初めてだったのであの時は慌てなかったと言えば嘘になる。とりあえず警察に電話をして、面倒くさそうな表情を隠さない警察官二人に事情を説明した後は名前や住所、電話番号を尋ね後は警察に任せた。ちなみに「いやまじあり得ないっしょ」と帰り際も繰り返していた彼女が、歌舞伎町のキャバ嬢二十四人から成るアイドルグループ“KBK24”のメンバーだと僕たちが知るのは後日の話だった。

 それから平均して三週に一度は盗難事件が起きている。注意を促す張り紙を貼ったり、ダミーの監視カメラを付けたりと我がほーむ新宿店も策を講じているのだが、なかなか効果は現われない。ある時には被害に遭った強面の客が「今いる客の所持品全部調べろ!」と川島さんに凄まじい剣幕で迫り、いつも表情を崩さない彼女も表情を強張らせたという。腹立たしい気持ちは分かるがそんなことは無理に決まっているのに。

 そしてまた昨日およそ一ヶ月ぶりに盗難事件が発生したのだった。昨夜十八時時頃、基本料金で入ったサラリーマンらしき若者が一時間ほど滞在した後、帰ろうと受付まで来た時に初めて財布を無くしてしまったのに気付いたらしい。最初はここに来る前にどこかで失くしたのかもしれないと考えたそうだが、入店中に鞄の中に財布があるのをしっかり確認したという。彼の考えでは一度財布を持たずにトイレに行ったので、その時に盗まれたのではということだった。しかも不幸なことに財布の中には十万円以上の現金が入っていたらしく、彼の消沈していた様は他人ながらひどく気の毒だったとラブは語っていた。


「慎さん、誰か怪しい奴知ってます?莉奈、“焼き鳥”とか怪しいと思うなあ」

 焼き鳥はここの常連の一人で十二時間以上は平気し、数多くの常連の中でも恒常的に長期滞在を繰り返す者のみ与えられる称号“住人”を持っている一人だ。汚いぼさぼさの髪を後ろで束ね、頬のニキビ跡が目立つ中年の男で、半年前くらいから週に三、四日は来るようになり、今ではほぼ毎日来店するようになった。夜の六時頃から九時頃に来て、朝の六時頃から九時頃に帰ることが多く、彼が帰るとよく発泡酒の缶、パチンコ系の雑誌そして焼き鳥の串がマットの上に散乱していることから“焼き鳥”というあだ名が付いた。アジアと比べると不名誉なあだ名の由来である。また焼き鳥は非常に体臭がきついため、焼き鳥の清掃は僕も含めたスタッフ全員が嫌がっている。莉奈の中では“ほーむ新宿店常連              抱かれたなくない男第一位”らしい。

「あと二、三ヶ月前くらいから来てる二十九番をいつも指定してくるカップルも。あの男の方がひどくだらしない人たち」

 次いで莉奈が言ったカップルとは今年の夏からここに“住み始めた”常連だ。彼女の方は途中で退店して、彼氏らしき男がその帰りをブースでおとなしく待っている、いわゆる“主夫”である。もちろん家事、炊事、育児をする必要はないが。男の方は丸三日くらい店を出ないこともしばしばで、一週間以上二十九番を占拠している時もあった。いつも彼女の方がパックの切り替えの時に受付に来て律儀に会計を済ませていくのだが、男の方はめったに受付に顔を見せない。僕が知っている限りでは一度関さんが有線のつまみを間違えて、三階をクラブのような大音量にしてしまった時に苦情を言いに来た時くらいだ。その時の髪と髭が伸びっぱなしの風貌と、常に彼女の帰りをマットの上で待っているところからラブが「ジョン・レノンみたいな奴ですね」と見事な例えをしていた。もちろん愛と平和について語り合っているとは決して思えないが。

「焼き鳥は確かに怪しいねえ。あいつ一体いつ働いてるんだ?って感じだもん。まさか焼き鳥屋で働いてるわけはないだろうし。あと真鍋から聞いたんだけど、昼パチンコだかパチスロに行ってるみたいだよ。東南口の方で偶然見たって言ってた。でもあいつ、パチプロとは思えないしなあ」

「えー!それ、本当に引きますね。夜はネカフェ、昼はパチンコ。最悪」

「なかなかどうしようもないよね。あのカップルも…なんなんだろう。犯人かどうか分からないけど、男の方はヒモだろうね」

「ですよねー!莉奈もあの二十九番の男はそうなんじゃないかなって思ってました!ヒモとか男としてどうしようもないです」

「女の人が風俗とかキャバクラとかで頑張ってお金を稼いでんのかなあ。恋愛の形は人それぞれと言えばそれまでなんだけど」

「うんうん。あともちろん“逃亡犯”も!」

 莉奈が声を上げ言及したのは、よくヤクルトスワローズのキャップを目深にかぶり来店する中年の男。その風貌が醸し出すあまりの怪しさから、逃亡犯というあだ名が名付けられたのも当然と言える。

「なんか莉奈がね、清掃してたらブースの上から覗き見てるんですよー。それで莉奈と目があったら急にブースの中に頭を引っ込めて。怪し過ぎますよ、あいつも」

「それ莉奈のことが単に気になってるんじゃない?女子として」

「ちょっと慎さん、あんまり怖いこと言わないで!」

 莉奈とほーむ新宿店の怪しき常連たちの話に花を咲かせていると、ATMに昨日の売り上げを入金してきた大西さんが加わった。

「焼き鳥、確かに俺も怪しいとは思う。ただし他にも怪しい奴がたくさんいるからなんとも言えないね」

 大西さんが橙の生地に青いポップなフォントで「ほーむ新宿店」と書いてあるスタッフジャンパーを脱ぎ、畳みながら言った。これはいつ見ても格好悪い。

「例えば喫煙リクライニングを指定してくるパンクロッカーっぽい男知らない?」

「パンク…何時頃来ますか?」

「夕方来て三時間パック使って帰るのが多いけど、泊まってくこともたまにあるね」

「ああ、あのひょろっとした背の高い奴ですか?」

「そうそう」

「莉奈も分かりますー」

 周りを軽く見て、客がいないのを確認してから大西さんが言った。

「あいつ、たまに三階をうろうろしているんだよ」

「え、ほんとですかー?」

 莉奈がややオーバー気味にリアクションをとった。大西さんという人物をよく分かっている。

「まじまじ」ちょっと気を良くした大西さんは続ける。

「俺が三階清掃してる時、ドリンクバー付近にあいつがいて、俺と目が合ったらそそくさとどっか行ったんだよ」

「それ、怪しいー」

「俺の中では本命だな」

 そんな話をしていると、おそらくさっきまで眠っていたと思われる大学生らしき集団が退店したので、大西さんと莉奈を残して五階へ清掃に向かった。

 階段を上る途中で「そう考えるとこの店の常連、怪しい奴ばかりだな」と妙に愉快な気分になった。

 飲食店や小売店その他様々な業種と違って、ネットカフェでは客が常連となっても店員と親しくなることはあまりない。そのためほぼ毎日顔を会わせ同じ屋根の下で暮らしているにも関わらず、相手の名前すら知らないというのは少し考えると不思議な気がする。身なりや話し方、来店する時間帯などから客がどういった人物なのかを想像したり、他のスタッフと推測をしたりすることはよくあるが、結局憶測の域を出ることはない。しかし稀にそのモザイクで覆われたプロフィールが見えることがある。

 最近は見掛けなくなったが、半年ほど前によくサックスを持って来店するミュージシャンらしき常連がいた。どの様な態度だったかはあまり覚えていないが、そのサックスを持った姿とワイルドな髭が印象に残っていた客の一人だ。ある日莉奈が仕事の打ち上げの二次会で新宿御苑のダーツバーに行くと、バーテンとしてカクテルをシェイクしているそのミュージシャンに会ったらしい。特にお互い話しかけることはなかったらしいが、なんとも気まずい空気が流れたと莉奈は言っていた。

 またこんな話もある。ある日早番を終えた僕が新宿三丁目の方へ向かうと、見慣れた後ろ姿を発見した。先ほどの話にも登場した怪しげな常連、逃亡犯である。店以外で常連を見ることは初めてであったため「ちょっとこれは面白そうだぞ」と思い軽く尾行をすることを決め、探偵もしくは刑事になった気分で逃亡犯の背中を追って行った。「電車乗るまでは尾けていってやる!」意気込んでいたのだが、僕の熱意を裏切るようにすぐにこの尾行は終わることになる。逃亡犯が吸い込まれていったのは大手古本チェーン店。ほーむ新宿店とその距離わずかは三百メートル。偶然目にした常連の日常の一幕だった。

 しかしこういった例は当然ながらほとんどない。スタッフもそうだが、客同士にしたって長ければ十二時間以上も、薄い合板の板一枚隔てた隣の人間がどんな顔で何をしているか知らずに過ごしている。常連同士ともなると一週間で何十時間と同じ空気を吸っていることもある。それにも関わらずただの一言の挨拶も交わすことはない。都会の人間は他人に興味がないというが、その究極たるものがここネットカフェなのかもしれない。

 ぼんやりと眠気を誘う様に設定された薄暗い照明の中、ブースの床に落ちていたレシートを拾い、グラスを一つ、二つと重ねながらそんなことを思った。

 

 受付に戻ると、漫画が大量に届いたらしく大西さんと莉奈がコミックの側面に“ほーむ新宿店”という判子を押し、透明なコミックカバーをだらだらと付けていた。

「今いっぱい届いたんだよ」

 大西さんは面倒くさそうに言った。

「あ、新刊来てるじゃん!後で読もー」

 莉奈は休憩時に読む漫画を見つけたらしい。確か今流行りの少女漫画だ。

 去年映画化された青春群像劇の作品も全巻届いてる。それに話題のサイコサスペンスの新刊もある。

「こんだけ届くと棚を移動させなきゃ駄目だよな。慎君どうする?」

 現在ほーむ新宿店には少年漫画からレディースコミックまで全て合わせておよそ二万冊の漫画がある。ただ店舗のホームページでは“地域最大級二万五千冊!!”と鯖を読んでいる。とはいえラインナップも誰でも知っている様な漫画から、誰も知らないようなものまで多種多様だ。基本的には雑誌ごとに作者のあいうえお順で棚に並んでいるのだが、受付に近い棚には“新着コミック”“スタッフおすすめコミック”“メディア化コミック”などのコーナーが設けられている。

 漫画は基本的に棚に隙間なく詰めて並んでいるが一、二冊のスペースを作るのなら無理やり押し込めばなんとかなる。ただ十冊くらいにもなると、空いているスペースを少しずつ移動させて並べる隙間を作るしかない。これがなかなか手間なのだ。以前遅番が五十巻にもなる長編の漫画のスペースを作るのが面倒だということで、作者の頭文字が“お”にも関わらず、一番最後の“わ行”の後に並べたことが倉柳さんにばれて怒られるということがあった。

「まあ中番にやらせるという手もなくはないですが、やるしかないということでしょう。倉柳さんに訊いてもやれと言われるだけでしょうから」

「だよなあ。でもこんなにたくさんいるかね?なんかただ単に新しいもの買ってるんじゃ、それこそ経費の無駄だと思うんだけどね、俺は。もっと需要のあるものに絞って選ぶべきだって、絶対」

 大西さんが面倒くさそうに判子を押した。

「莉奈もたまにこんなの誰も読まないんじゃない?って思う漫画ありますよ。それにあの同人誌だって‥‥」

 莉奈が苦い顔で言及した同人誌というのは十八歳未満貸し出し禁止の、ほーむ系列店でも新宿店のみが取り扱っている特別な漫画である。十八歳未満貸し出し禁止のため、通常の漫画、雑誌とは違ってラミネートされた表紙のコピーだけがコミックコーナーに並べてあり、それを受付に持ってくると僕たちスタッフが現物を渡すという仕組みになっている。タイトルは卑猥という言葉では済まされないレベルのものが多く、その表紙だけでも有害図書指定を免れないものがほとんどだ。表紙のコピーをラミネートしながら「これを借りるのは罰ゲームに近いな」「持ってこられても笑わずに渡せるか不安だ」などと話していたが、実際貸し出しが始まってみると僕たちの予想とは違って、同人誌を借りる客の多くが堂々した態度で受付に来るのは驚きだった。ある日には「義母シリーズってこれだけですか?」とまるでドリンクのことのように同人誌の在庫を尋ねてくる客もいて、受付に居た川島さんはか細い声で「はい」と答えるのが精一杯だった。

「確かに。でもどういうものが求められているかわかんないからね。需要を知るにはアンケートでもやらなきゃいけないだろうから」

「でも」

 大西さんは仕事が急に増えたのがおもしろくないのか、表情を曇らせたまま「それにしたってちょっと今回は多すぎだろ」と吐き捨てた。

 僕も莉奈もそのことについては特に何も返さなかった。


 六十番で休憩を終え四階に戻ると、ドリンクバーのコーラが切れていたのに気付いた。タンクを交換していると受付から「すみません」とややイントネーションがおかしい日本語が聞こえて来た。“モハメド”だなと思い顔を向けると、案の定、髭面の中東系の男「モハメド」がぬっと立っていた。

「すみませんお待たせしました。お時間は通常料金でよろしいでしょうか?」

「はい」

 ネットカフェを利用する外国人は決して珍しくない。観光で新宿に寄り、ネットで何かを調べるために来店する白人や、歌舞伎町辺りで働いていて休憩時に利用していると思われる韓国人、中国人など、ここで外国人を目にする機会は多い。日本語を流暢に話せる客から、「コンニチワ」しか知らなそうな客まで様々だ。しかし中東系の常連は今のところ僕はモハメドしか知らない。だいたい通常料金で入店し、一時間から二時間程度で帰っていく。来店頻度はみんなの話を聞いてると、少なくとも一週間に一度は来ているようだ。売り上げへの貢献度は高い方ではないが、その容貌からスタッフの記憶に残り“中東系だから”ということで安易に“モハメド”と名付けられた。

 一体モハメドは普段何の仕事をしているのだろうと考えたことがあるが、彼の生活もなかなか想像が付かない。おそらく三十半ばなので留学生という可能性は低いだろうし、いつもシャツにスラックスといった服装からカレー屋のコックという感じもしない。来店する時間は夜が多く、必ず四十四番から四十六番のいずれかを指定してくる。ブースの壁に手ぬぐいやマフラーを掛ける特徴があり、フロアに居ても僕たちには彼がどこに居るか一目瞭然である。彼のプロフィールもモザイクに覆われたままで、ネットカフェの匿名性を象徴している。

 「モハメド来たねえ」と清掃から戻って来た大西さんと話をしていると、ドリンクバーの前の客がコーラを一口飲んで、怪訝そうな表情をしているのが目に入った。しまった、コーラのタンク交換が途中だったことを忘れていた。


 倉柳さんからトランシーバーで五階の店長室に来るように言われたのは十五時五十五分。早番の定時十七時のおよそ一時間前で、中番に対してなるべく仕事を残さないために早番がテキパキと働き始める時間だ。店長室に呼ばれていい話があった試しはほとんどないが断るわけにもいかない。清掃と受付を二人に任せて僕は五階へと向かう。

「失礼します」

「悪いねー忙しい時間に」

「いや、大丈夫です」

 店長室とは五階のドリンクバーの奥に位置する四帖くらいの小さな部屋だ。机にオフィスチェア、スチール製のユニットシェルフ、そして洗濯機がある。スタッフがここに来る用事といえば、シャワー室のバスマットを洗濯するために洗濯機を使う時くらいだ。ドアを開けると倉柳さんのメッセンジャーバッグからチラリとバイク雑誌が覗いた。どうやらさっきまでこれを読んでいたらしい。

「訊きたいのはもちろん昨日の夜に起きた盗難のことなんだ」

 倉柳さんは座りながらオフィスチェアの座面をくるりと僕の方へ向けた。

「俺も簡単には説明されたけど、慎君が知ってることでいいから教えてよ」

 案の定予想していた質問だ。

「僕が関さんから聞いたのは基本料金で入ったお客さんが退店の時、カウンターで初めてなくなったことに気付いたらしいですね。途中で財布を見たらしいから店に入る前から持ってなかったってことは絶対にないらしいですよ」

「そっかあ。お客さんはどんな人だったって?」

「遅番が言うには若いサラリーマンらしいですよ」

「若いリーマンねえ。他に身分証とかは持ってなかったって?」

「いやそこまでは聞いてないんですね」

「あとは何か聞いてる?

 朝のラブとの会話の記憶を遡ってみる。

「あとはそうですね、ラブが言ってたどうでもいいことですけど、そのサラリーマン、陸奥宗光に似てたって」

「ムツムネミツ?」

「そう、明治とか大正の歴史の人。いやすみません、本当にどうでもいいんです」

 倉柳さんは陸奥宗光を知らないのか「本当にどうでもいいね」と少し笑って座ったまま体をぐっと伸ばし、真面目な顔に戻した後言った。僕も本当にどうでもいいことだったなと少し恥ずかしくなった。

「なかなかこれも続くとさ、上からやっぱなんとかしろっていう風になってくるわけよ。あまり警察が来るっていうのも印象よくないしね」

 短いため息をついてさらに続ける。

「こういう小さな悪い評判が客足を遠ざけていくと俺は思うんだよね。むしろ売り上げをもう少し伸ばせって言われているのにさあ。やっぱりなんか強い対策打たないといけんかねえ。慎君、どう思う?」

 僕に訊くのかよと思いつつも自分の意見を述べる。

「うーん、張り紙もダミーカメラもやったし、こうなると本物の防犯カメラですかね?」

「いや残念ながらそれは予算的に多分NG」

 あっけなく僕の意見は切り伏せられたものの、もし採用されたら冗談じゃなかったので少し安心した。さらに倉柳さんは続けた。

「軽くフロアを見回りでもしてみよう」

「また仕事が増えるなあ」これは口には出さず、心の中でつぶやいた。

 

 受付に戻ると大西さんがさっそく尋ねてきた。

「倉柳さんなんて?」

「なんか見回りでもしてみようかって」

 大西さんが露骨に嫌そうな顔をした。

「まじで?そんなのやっても意味ないって。そもそも清掃が立派な見回りの役目を果たしてるって。いまさら意味ないって」

「まあ俺もそう思うんですけど‥‥あ、倉柳さんですよ」

 階段から倉柳さんが降りて来た。

「さっき慎君には言ったんだけど、お手隙な時に軽くフロアを見回ってもらいたいと思ってるんだ。もちろんまた盗難事件が起きることを未然に防ぐためにね」

「今慎君とも話していて、清掃の時に結果としてフロアを見回ってることになるからあまり意味はないんじゃないかなって。いやもちろん全く効果なしってことはないと思うんですけどね」

 いちいち僕と話していたと前置きを付けるのがこの人らしい。勘弁してほしい。

 倉柳さんはちらりと僕を一瞥してから自分の考えを続けた。

「確かに俺もその意見も一理あるとは思うよ。でもやらないよりかやった方がいいでしょ?すごいシンプルな話」

「まあ、そりゃそうですね」

「でしょ!じゃあ連絡ノートには俺が直接書いておくよ」

 そう言うと連絡ノートを開き、いそいそと何かを書き始めたのを僕と大西さんは黙って見つめていた。


 その日から僕たちの仕事内容に“暇な時はフロアを見回ること”が追加された。でも僕が覚えている限りでも“暇な時は漫画、雑誌の陳列をすること”“暇な時はブースの徹底清掃をすること”がある。ただ残念ながら僕たちが暇な時に一番している事といったら“他のスタッフと雑談をすること”になるだろう。連絡ノートを見た中番の面々は「面倒くさい」や「意味ない」だの口々に文句を垂れていた。

 それでも倉柳さんの気持ちを汲んで翌日から十四時過ぎにほんの二十分くらい見回りをしてみた。大西さんは「意味ないって」と言っていたが、全く何もやらないのではわざわざ連絡ノートにまで書いて倉柳さんがさすがに不憫だ。当然特に不審な動きをしている客を目撃するという事はなかったが、三階の通路で二十九番を住処にしているジョン・レノンと目が合ってしまい少し気まずい思いをした。

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