第9話 目立つな(1)
翌朝、柘植がスマホのアラームを切るとそのすぐ後に、ではなく数分後、柘植の着替えが終わって一息ついた辺りで、瑞葉から入室申請が届いた。
(オートで『承諾』にしておくこともできるが、そこまで信用するのは……)
柘植はその機能を見つけたときのことを思い出した。そのときも一緒にいた瑞葉はすぐに自分のスマホを操作して、柘植が自由に自分の部屋に入ることができるようにした。それから、『つげさんがいいって言うまで入りません』とこちらの考えを、つまり、一方がそうしているのだからもう一方もそうするべきとではないか、しかし……、という考えを読み取ったかのように見せたのであった。
柘植が承諾するとすぐさま居間に瑞葉が嬉しそうにして現れた。そして、ハーモニカを吹いて「プー」と音を出した。
「ああ、おはよう」
柘植の返事に瑞葉は満足するとキッチンまで真っすぐ歩いていき、そこにある座面を高くした椅子に座った。
「朝食は同じでいいかな?」
瑞葉はコクコクと頷いた。
「昨日はペレットにしたから今日は普通にしようか。2人前、ご飯、みそ汁、目玉焼き、サケの切り身――」
柘植は「ににぉろふ」を起動して朝食のメニューを並べ始めた。最後に箸とコーヒー1人分、オレンジジュース1人分を出してから柘植たちは朝食を食べ始めた。
(やはり、美味しい。それに、どうして私が今アサリのみそ汁を飲みたいと分かったのだろうか? 無意識のうちに思っていたのか、それとも出てきたから飲みたいと思っていたと錯覚したのか……)
柘植がみそ汁と一口飲むと、その味噌は柘植好みのものであった。何味噌が何割でどういう味とあまり考えない柘植であったが、彼の求めていた味がそのまま出てきたのである。
(瑞葉にとっても美味しいと思う味付けになっているのだろうか?)
その疑問の元、瑞葉は今のところほとんど柘植と同じものを何の不満も示さずに飲食している。
「瑞葉。昨日はよく眠れた? 大丈夫?」
柘植の問いかけに瑞葉は笑うことで答えた。背筋を伸ばしてきちんと箸を持っている。
「そうか。良かった。私もだよ」
柘植がそう答えたのは、瑞葉が箸を置いてメモ帳を開き、あらかじめ書いてある『つげさんはどうですか』のページを開いて、メモ帳を閉じて箸を持つことを知っているからである。彼女にとっては面倒だろう。
(瑞葉は、ハーモニカの演奏の仕方を知らないし、覚える気がないな。音が出れば何でもよかったのだろう。朝の挨拶くらいか、使っているのは)
柘植はサケの切り身をご飯に乗せながら考える。ちらりと瑞葉を見ると、瑞葉もまた真似をしている。
(それから、話せなくなったのはごくごく最近のことだろう。手話を知らない。大きな傷もなかったから……心因性の何かだろうか?)
柘植が昨日、瑞葉の髪をかき上げたとき、その首周りには手術痕もアザもなく、普通の子供と変わらない白い肌だった。
(分からない。ニニィはある程度の病気は治ると言っていたから、重度の何かだったのだろうか。それで記憶障害も現れたのだろうか)
柘植は、今の瑞葉ではない瑞葉が現れることを憂慮している。新しい人格とこの慎重さを要するゲームを上手くやっていけるとは限らない。今が上手くいきすぎている分余計に困りそうだ、と柘植は思っている。
(出身は……言葉遣いは標準語、方言を使うのを見たことがない……。平仮名の「そ」は一画、流石にそれはそうか、後は……味の好みや物の呼び方で絞ることができるが……)
そこまでする必要があるのかと柘植は自分に問いかける。その答えは出ない。目玉焼きを口に入れる。
(まずは生き残ることだ)
柘植は考えるのを一旦保留して素直に朝食を味わうことにした。目を閉じながら食べればそこが老舗の温泉宿であるかのような気にさえしてくれる味である。一つ一つが格別に美味しいのに全体で調和がとれてもいる。1つずつ順番に出していって、いつ止めるかも分からないのだから、実に不思議なことであるが、それを気にするなら幾多の前提の方も気にするべきであろう。不思議に思うことだけで高層ビルが建てられそうだ。
柘植が最後の一口を終えて食後のコーヒーに手を伸ばすと、瑞葉もきれいに食べ終えていて、オレンジジュースを飲むところだった。皮も骨も米の一粒も残さず、食器の上には何も残っていなかった。――貝殻さえも。
(ああ、元々入っていなかったのか)
柘植はそう思った。
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