第8話 見ろ(1)

 谷本和世は自分の部屋に戻ると「フゥ」と声に出して言った。そして自宅に置いてあるのと同じ柔らかい椅子に腰をかけると「ににぉろふ」を立ち上げ、「水」と言った。そして、一口水を飲んで緊張でカラカラになった喉を潤すと、椅子の背を倒し、目を閉じてもたれかかった。皺だらけの痩せた手の甲が全く動いていない。落ちくぼんだ目も、額のいぼも、皮のたるんだ首元も動いていない。死んでいるかに思えるこの姿勢のまま、谷本は途切れ途切れに考える。


 (酷いこと、酷いことをしたねぇ……、あんなに痛そうにして……可哀想に……。あの子もこれからいっぱい楽しいことをしたかったろうに……。うちの祥子ちゃんと同い年くらいだったのに……)

 谷本は高橋に自分の孫の姿を重ね、高橋にもまた祖母がいるであろうことを考える。そして、その顔も名前も知らない祖母が悲しんでいることを思い、体が一層重くなった。


 (でもねぇ……、どうって言ったって……)

 ただ、自分が意見をして高橋を庇おうとはしなかったわけである。つまり、見殺しにしたのである。自分が楽になるためか高橋を助けるためか、ともかく、何もやろうとしなかったのである。しかし、谷本はそのことを考え付きもしない。仮にそうしたところでそれなら他の誰が、の問いには答えることができない。


 「もう……」

 もう何なのか、谷本は言葉にできない気持ちを声に出す。そして、目を開けるのも億劫にして、手探りでペットボトルを掴むと蓋を開けて中の水をまた少し飲み、元の場所に戻した。


 (でも……、ワタシは、ワタシはいいけれども……、良子が無事で良かった……)

 自分の一番大切な人、一人娘が無事。それが谷本にとっての救いであった。つまり、そういうことだ。

 (同じよね、だって限られているから……。ここも、生きて出られるのは50人まで、バーゲンの服だって現品限り、半額のお肉だって早い者勝ち、電車の椅子も……、昔は食べ物だって……)

 事実、その通りである。谷本は世界の諸々が限られた資源の取り合いだということを小さい規模ながらとうの昔に気付いているのである。


 (なら……あの子のやったことは……、だって、死にたくないよね……、でも……)

 谷本の考えは途切れた。そのおかげで、自分のしていることはあの映像と本質の部分は変わらないということに辿り着かずに済んだ。自分と、自分の一番大事な人が生き残るために他の誰かを犠牲にする。あれほど明け透けになっていないだけで、あれほど責任転嫁をしていないだけで、同じである。それは、このゲームに限った話ではない。


 谷本はそのままもう一度水を飲もうと手を伸ばした。指先はペットボトルをかすめて、そのまま落とした。谷本が目を開けると、水が床に広がっていた。蓋を閉めていなかった。


 (いいでしょ……。勝手にきれいになるんだから……)

 急いで拭かないと、と日常のように考えたのは少しの間で、何もしなくても知らない間に片付けられていることを思い出した谷本は、水を飲みたかったことを忘れて、吉野からの連絡が回ってくるまでそのまま椅子の上から動かなかった。





 柘植の部屋、寝室には柘植と瑞葉がいて、夕食のペレットを食べながらベッド裏のホワイトボードを見ていた。そこには顔写真の入ったマグネットが整理されて貼り付けられており、4人分が端に寄せられている。死んだ高橋の顔写真が入っているマグネットは赤でバツ印をつけられて、水鳥と複数の女性たちの塊の一段下に置かれている。


 「瑞葉」

 柘植が呼ぶと瑞葉は嬉しそうにキョトンと柘植を見た。

 「今日、割と危なかったのは分かるか?」


 瑞葉はコクコクと頷くと、メモ帳の上にさらさらとペンを走らせる。

 『情報が回ってくるのが遅かったからです』


 「そうだ」

 柘植が言うと瑞葉は満面の笑みを浮かべた。それから柘植は自分の考えをまとめるために瑞葉に続きを説明した。

 「今日の高橋の動画の件、今回『ににぅらぐ』に質問が現れたから分かったが、それがなかったら、まず、知らずに広間に行き、高橋に絡まれる可能性があった。そのまま話し合いまで持ち込まれたら助かる見込みはなかったと思う。後は、気の狂った高橋が襲ってこないとも限らなかった」

 柘植の話を瑞葉は聞いているが、そこにあるメモ帳に書き込む気配はない。柘植はそうしなくても彼女は覚えているということを知っている。


 「それから、知らずに広間に行くこと自体が危険だった。誰からも連絡を受けていない、つまりグループに所属していないと周囲に知らせるようなものだ。グループ間の潰し合いが始まるまでは極力目立たないようにしなくてはならない」

 柘植は水を一口飲むと瑞葉がどう解釈しているのかと視線を送った。水を口に含んでいた瑞葉は急いで飲みこむと小さく頷いた。


 「それで、この件から2つ、懸念していることがあるが……分かる?」

 柘植の質問に、瑞葉はすでにそう聞かれることを知っていたかのようにスルスルと読みやすい字を書いていく。

 『広間に何か置かれることと、知らないまま話し合いが始まることです』


 「当たり」

 本人は自覚していないが、柘植は先ほどよりも優しい声で言った。瑞葉は照れくさそうに前髪を触っている。


 「今回のは本物の動画だっただろうが、そういう振る舞いだった、とにかく、朝一番に誰かが私たちの名前を壁に書いたとする。『柘植は犯罪者』など、悪印象を与えられれば何でもいい。そうすれば他の人から私は、悪人、周囲が悪人として扱っている人間、自分も悪人として扱っても間違いにならない人間、つまり票が集まるのだから選んでも良い人間ということになる。事実か嘘かは問題にならない」

 瑞葉の目つきが険しくなっているのが柘植には分かったが、気にしないことにした。自身を例えの中でけなすことでも瑞葉は気に入らないのか、と柘植は思う。


 「ただ、これはあまり現実的ではない。明日からは、広間が開いてすぐに数人が入室するだろう。自分、あるいはメンバーを吊し上げる誰かがいないかと。おかげで監視に行く必要はない」

 柘植は話しながらも抜けがないかと瑞葉の顔を見ながら確認する。元の子供の顔つきに戻っている。


 「もう一つ、今回、話し合いが始まったときにはすでに全員が知っている前提になっていた。もしこれが私たちを陥れようとする話だったら手遅れだ。そのときに釈明しても、心の内ではすでに決まっているのだから、よほどのことがなければ考えを変える者はいない。多少が変えても結果は変わらない」

 苦々しげに柘植は口にする。


 「瑞葉。残念ながら、私たちはこれに当たる可能性が高い。どうしても難しい。今日、はっきりと分かった。噂や思い込みが誰かの中に積み重なって、それが別の誰かと一致すれば、それは事実というレッテルを貼られて方々に回る。だから……、だから、自分たちから先んじて注目を集める。話し合いの場が初めての場になるように、タイミングを計って。これは決して分の良い賭けではない。しかし、やっておかないままだとその先が厳しい」

 話しながら、柘植はもし瑞葉がいなかったらどうだっただろうかと考える。


 (この立ち回りをしなくてもよかっただろう。ただ、考えの客観性と妥当性を評価して、確信することはできなかった。仮定の話を考えても前に進まない……、その猶予はない)


 「今から説明する。やらない方がいいと思ったら教えてくれ」


 『やります』

 瑞葉の返事は早い。柘植はその文字と彼女のキラキラと輝く目と胸元に光るハーモニカを見て、生き残るために策の説明を始めた。

 「まず初めに――」

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