第7話 見るな(2)

 外崎宗孝は自分の部屋で机に向かって「善きサマリア人の法と不真正不作為犯」という書物を読んでいた。彼はすでに大手企業に内定しており、卒論もほぼ終わっている。来春からいわゆる上流階級に入ることが決まっている勝ち組である。それも当然本人の努力あってこそのものである。まあ、それを良しとする土壌があったことも当然理由の内に入るが。


 彼はこのゲームに参加することとなったとき、不運だと思った。しかし、自分の部屋で落ち着いたところで不運だと嘆き続けるよりも、時間を有効に使おうと考えた。要は、他の人よりも50日、本来平等に有限であるはずの時間を手に入れることができたと考えたのである。


 何かを作って持ち出すことはできないが、ニニィによるとゲームが終わっても記憶は残る。環境も申し分ない。快適で、家事の必要もなく、欲しい文献はほとんど何でも入手できる。


 (知識を蓄えれば、時間を有効に使うことができる)

 外崎は文字を目で追いながら頭の中で自分に言い聞かせた。建設的かつ合理的に思われるこの考えは、何もそれだけが目的ではない。


 (怖い)

 ページをめくる外崎の手は小刻みに震えていた。この恐怖から一時でも逃れるために、彼は頭を小さく横に振ると、目の前のタブレットに集中し始める。幸いにも彼にとってその内容はすでに知っていることから始まっている。


 『善きサマリア人の法とは、窮地の人を救うための無償で善意の行為には、誠意をもって最善を尽くしたなら仮に失敗しても免責が認められるというものである』


 (無償で善意の行為……、例えば車をダメにすることになっても……仮に失敗した場合、免責が認められるためにはその補償を受けることができないのだろうか。さらには、助けたからと言って金一封が送られることも、表彰されることも、後々に容態が急変して亡くなった場合、『償』に該当するのだろうか)

 外崎は自分がバイスタンダー、偶然居合わせてしまった状況を想像する。日本では、バイスタンダーの処置による結果の責任を法的に問われる可能性は低い。つまり、絶対に0ではない。


 (何も評価されない。訴えられる可能性はある。弁護士が優秀なら黒にもなる。それに……コスト……、時間を、そのときの時間を失ってしまう)

 外崎は踏んだり蹴ったりな自分の姿を想像する。助けようとして失敗し、災害から逃げ遅れ、遺族から訴えられ、それが上級国民で、圧力がかかり、誰も自分のしたことを表立って正しいと言わない。親しかった人物が離れていく……。ネガティブに考えてしまうのはやはり、このゲームの影響だろう。とはいえ決してないとは言い切れない。


 (それでも……、何か、得るものは必ずある。……そう、僕の大事な人たちがそうなったときの練習、そう思えば、多分……)

 外崎はメリットをあれこれ想像する。タブレットから目が離れ、洒落た模様の壁紙が視界に入る。その一端から辿っていくうちに恐怖が頭を支配する。


 「怖い……、何が?」


 (誰かを選ぶこと? 選んだ人が犠牲者になること? 犠牲者が死ぬシーンを見せられること? それとも、自分と父が理不尽に死ぬこと? 死ぬ前の痛み?)


 外崎は文字に集中しようとページを一気にめくり、また読み始めた。


 『不真正不作為犯は、一般に次の要件を満たす場合に成立すると考えられる。1.法的な作為義務。2.作為の可能性・容易性。3.作為犯との同価値性。4.因果関係――』


 (作為の可能性・容易性……。できるのに何もしない……どこからができることになる? 曖昧だ。両極端は分かる……、容易性……、男だから、知っているから、1回講習を受けたから、お前なら簡単に決まっている。だから、やらなければ有罪。やっても、助からなければ有罪。それなら、必ず助けられるようにしておく? 無理だ。それならやはり、自分の能力を隠す方が絶対にいい。いつも大勢のいるところにいて、その他大勢、誰でもない、取るに足りない誰かになった方が安全だ。そうすれば、誰か、やるべき人間が選ばれる)

 外崎は壁紙の模様を目でなぞっていた。それは他の線と交差する前に途切れていた。


 やがて外崎はタブレットを机の上に残すと、「カードキー」を使って広間へと向かった。「透明な殺人鬼ゲーム」に参加して生き残り、何かの糧にするために。





 朝食を食べ終えて気合を入れた須貝が広間に入ったとき、そこにはすでに数人がいた。普段と違い、その全員が中央の白いブロック近くに集合している。不思議に思った須貝は、その人だかりを構成する中に子供と老人が混ざっているのを確認してから静かに近付いた。


 「これは……本当か?」

 「全然そんな感じに見えなかったし……」

 彼らはブロックの上に置かれた何かを見ている。声の調子からして決して良いものではないと須貝には分かったが、それが何かを当てることはできない。


 「あの、おはようございます」

 須貝がそっとその中の誰かに声をかけると、全員が大なり小なり驚いた反応をした。


 「ぁ、ぉはようございます」

 「おはよう」

 彼らの反応は日常からすれば少し不愛想に見える。しかし、このゲームの参加者はお互いを犠牲にする。具体的に誰が誰をと決まっていなくても、お互いに対する警戒心と後ろめたさはぬぐえない。


 「あ、どうかしたんですか?」

 それでも露骨に敵対しないのは、やはり生来の人間性と、そう振る舞うことがターゲットにされない最も大切なことであると分かっているのだろう。


 「あ、これなんですけど……」

 学生服を着た親切そうな男子、小野優太が少し下がって右にずれて場所を譲った。その隙間に須貝は入った。


 そこには、1枚のタブレットがスタンドと共に置かれていた。その画面には何かの動画が映し出されている。音声はないがこの広間を映したものであり、そこに仁多見と加藤の姿があることから、恐らく昨日の様子であると須貝は推測した。


 映像は編集されたものとは思えず、ただ何も起こることなく、強いて言えば松葉や福本が画面を横切ったくらいである。須貝の頭に疑問が湧いたが、すぐに解決した。


 (これ、近藤、さんが高橋さんを襲う前の映像だ)

 この後に起こったことを須貝は人伝手に聞いていた。突然錯乱した近藤が高橋を襲い、近くにいた宮本が庇って、替わりに殺される――そういうことであった。


 (なら、どうして集まっているの? 見たいから?)

 人が殺されるところをわざわざ見たいと思う人はいないというのが須貝の意見である。最も、すでにここにいる人たちは何度かその光景を目にしているが、決して自発的に見たわけではない。


 「この後……」

 後ろにいる小野の独り言が聞こえた。2度目の須貝の疑問もすぐにではないが、解決した。


 近藤が画面の右から現れた。その一歩ずつ進む先にはスマホを見ている高橋の姿がある。両者の距離が人一人分ほどになると、近藤がナイフを持った右腕を高くかざした。宮本はほんの少し前に立ち上がっていた。そして、ハッとした表情を取ると、高橋を押した。ナイフが宮本のシャツの裾を赤く染める。近藤が再びナイフを構えて、顔の向きが変わった。その目は血走り、むき出しになった歯は食いしばっている。そして、近藤のナイフが――。


 須貝がギュッと目をつぶるのと隣にいた妹尾が「やっぱりそうですね」と言うのは同時であった。恐る恐る目を開けた須貝は周りが一層硬い表情をしていることに気が付いた。


 「ほら、ここから……」

 妹尾がシークバーを触って少し前に巻き戻す。近藤の表情が映って、宮本が立ち上がろうとしている。近藤を押さえつけようとするにも逃げようとするにも見えるその動作は十分に間に合いそうであったが、刃は宮本の首を切り裂いた。何故ならば――。


 「高橋さん……」

 高橋が両腕で宮本の胸倉を掴み、その場に、つまり高橋と近藤の間にとどめていたからであった。


 その間に他の人たちも広間にやって来て、人だかりの方に集まっていた。須貝はその中の一人、田渕に場所を譲るとすぐにスマホを取り出した。そして「7SUP」を起動すると水鳥を選んだ。


 (でも、どうしよう?)

 不文律として、水鳥と個人的に余計な連絡を取ることは認められていない。見つかれば自分の身に危険が及ぶことは明らかである。


 (私、そんな頭よくないし……。どうせ後でみんな来るし……。究君も覚えておいて、って言ってたけど、連絡して、って言ってたか……分からないよ……)

 須貝がどうしようかと迷っていると、同じく誰かに場所を譲って集団から離れた北舛の姿が見えた。


 (あ、優香ちゃんだ。良かった。大学行ってるもんね。頭いいよね)

 須貝は北舛に責任を委ねることにして、そっと近づくと、北舛もまた須貝に気が付いた。両者は隣に聞こえないくらいの小声で話すために顔を近づけ合う。

 「ねえ、優香ちゃん、どうすればいいの? 究君に言う?」


 「え、分かんないよ。だって私、年下だよ?」

 北舛もまたどうするべきか判断に困っていた。正確に言えば、その手前の考えるということを行っていない。


 「え、だって、優香ちゃん大学行って、頭いいでしょ? 私、馬鹿だよ。ねえ、前の方に座っていたでしょ。究君がなんて言ってたか覚えてないの?」

 それとなく須貝は責任を押し付けだした。全く予想さえもできないのである。


 「でも、私だって、まだ働いてないし……」

 北舛の声が一層小さくなり出した。須貝はその目が充血して潤み、眉を寄せていることに気が付いた。


 (え? そんなキツかった? でも、私には分からないし……、どうしよう……)

 須貝は頭の中が真っ白になっていくのを感じた。北舛の微かなしゃくり声が大きくなり始めたら、何かトラブルを起こしているとみなされて、終わりだ。さらに水鳥を含む他のメンバーまでもいもづる式に選ばれていくか、あるいは切り離されるか……、後者の方がありうるだろう。


 「優香ちゃん、ごめんね。誰か来たら聞こ。私たちが勝手に決めちゃダメだもんね。ね?」

 須貝の下した判断は人任せにすることだった。自分にも分からないし北舛も頼りにならない、それなら今までそうやって生きてきたように、どうしようかとあわてふためいて、あるいはその振りをして、何もしないことに決めたのであった。


 「うん、ごめんね。そうだね。聞こう?」

 北舛もその考えに乗っかった。何故ならそうすれば自分は何もしなくてよいからである。


 2人は近くのブロックに腰掛けると、傍から見たら映像を見てショックを受けたような格好をして、ゲームが始まるのを待った。2人にとっては幸運なことに、少し後に水鳥本人が現れて颯爽とそこの人の輪に入っていった。

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