第7話 見るな(1)

 「痛ああああ! ああああ! よくも、よくも殺してくれたな!」

 「お前が、お前がのうのうと生きているな! 死ね! 死ね!」

 「助けてくれ……助けてくれ……」

 「どうして、どうして俺なんだああ!」

 亡者が、このゲームの犠牲者が、追いかけてくる、必死に走っても足は普段のように動かない、水の中を、泥の中を走っているように進まない。部活で鍛え上げた自慢の足が全く思い通りにならない。血塗られて反り返った指が服の裾にかかる――。


 「っあぁ!」

 袴田蘭は跳び起きて、それが夢だと気づいた一瞬、安堵が押し寄せてきたが、目の前の光景は数日前から寝泊まりしている場所であった。このゲームに参加していること自体は決して夢ではなかった。


 「はぁー、はぁー……」

 袴田は胸に手を当てて深く、ゆっくりと呼吸する。

 (さっきのは夢。夢、夢だ)

 そうやって自分に暗示をかけて、時々息を飲み、ようやく落ち着いたところで袴田は汗をかいていることに気が付いた。


 下着の首元を少し引っ張ってその汗が思っている以上だと分かった袴田は、ベッドからゆっくり下りるとスマホを持って寝室を出た。


 (あ……、ジャージ……)

 ベッドサイドに畳んでおいた赤茶色のジャージは袴田がここに来たときに身に着けていたものである。袴田はそれを取りに戻ろうかと振り返ったが、意識は元来た道に向かわなかった。


 (どうせ、脱衣所に出てくるし)

 袴田は台所まで行くと冷蔵庫からペットボトルに入った水を取りだし、その半分ほどを一気に飲んだ。それから洗面所に向かい、下着を脱いで籠の中にポイ、ポイと入れ、風呂場の扉を開けた。袴田が「お湯」と書かれたボタンを押すと一瞬のうちにバスタブに湯が張られた。


 (あー……)

 袴田はその波打つことなくふわふわと湯気を放つ水面を勿体なさそうにちらりと見たが、シャワーのボタンを押して頭から少し温めのお湯を浴び始めた。しなやかなで均整の取れた肢体に水滴がその小麦色の表面を滑るように進み、あるものははじかれ、汗を連れ立っていくと、袴田は恐怖やあの夢も一緒に溶かされていくように感じた。


 一旦シャワーを止めた袴田は片手をアメニティの置かれている棚に伸ばした。そこには数に限りこそあれ見るからに最高級のアメニティが陳列されている。しかし、袴田は、以前「ににぉろふ」で呼び出していた自宅で使っていたシャンプーに手を伸ばすと、数回そのヘッドを押した。



 袴田が風呂場を出ると、足元にはいつの間にか柔らかい足ふきマットが敷かれていた。初めの日は驚いて転びそうになった袴田も、もう気にすることなく足を乗せて、ふかふかのバスタオルを手に取り、髪を拭き始めた。スマホの隣にはいつの間にかジャージや下着一式が丁寧に畳まれて用意されていた。



 ドライヤーで入念に、とは言えいつもに比べればずっと短時間で髪を乾かしてからようやく洗面所を出た袴田は、朝食のペレットと水をそれぞれ戸棚と冷蔵庫から出すとリビングへ向かい、備え付けの椅子に座った。そして、味気のない食事を始めた。


 (あまり美味しくないけれど……)

 ペレットは決してまずいわけではない。噛みごたえもフレーバーも栄養も申し分ないのである。しかし、ずっと同じ食感、同じ味というのに袴田はどうしても飽きを感じてしまう。もちろん他の料理を取り寄せれば良い話ではあるのだが、自分の立てる献立に自信がなく、いくつものペレットを取り出して少しずつ摘むことも気が乗らない。


 袴田は食事を終えると袋とペットボトルをゴミ箱に入れて、洗面所に向かい歯を磨き始めた。鏡にはひどくよどんだ顔をした袴田が歯ブラシを咥えて機械的に手を動かしていた。眠れないわけではない。心地よいベッド、静かな部屋、リラックスできる風呂……。食事の栄養バランスも申し分ないし、映画も本も音楽も、好きなものを楽しむことができる。強いて言えば体を存分に動かせる広い場所がないのと、後は日常のほとんど全て、特に人間関係から切り離されているだけである。身体的に、文化的に健康になろうと思えばいくらでもなることができる。


 それでも精神的に健康を保つことは、難しい。それは、このゲームで生き残るために極めて重要なことである。冷静な判断力、標的にされない自然な振る舞い、万が一の状況に陥ったときの説得力……。しかし、人が目の前で死ぬのを連日目の当たりにして全くの平然であることは、善いことなのだろうか。


 昨日までは、音と臭いをシャットアウトされて非現実的なやり方だった分、何かがマシだったのだろう。アングラな動画が巨大なスクリーンに映されている、そう思いこめば、まだ日常から離れずに済む。しかし、もう不可能だ。一度意識させられてしまったら誤魔化すことなどできない。


 袴田は口をゆすいでからリビングに行くと、先ほどの椅子に座ってスマホを操作し始めた。やがて、彼女は意を決すると、広間へ向かうのに「カードキー」を使った。自分たちが生き残るために、誰かに投票するために、つまり、誰かを犠牲にするために。

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