第5話 守るな(2)

 依藤千明は普段大型ショッピングモールの一画にあるジュエリーショップで販売業を行っている、痩せ気味の女性である。彼女は自分の部屋で3歳の息子が描いてくれた家族の絵を見ながら自分を鼓舞していた。


 (佑都……あなた……)

 絵の中の家族の顔、それはお世辞にも上手いとはとても言えないが、依藤にとっては何物にも代えがたい大切なものである。


 (あの子……今頃泣いているかも。心配だわ。早く帰らないと。あの子、大丈夫かしら。彼も有休なんそんなにとれないし、うちは遠いし、お義母さんも腰を痛めているから、無理させちゃ悪いし……)

 依藤はぼんやり頭の中で連想していたが、その考えが現実味を帯びていったことに気づくと、フフッと小さく笑った。

 (って、何考えているのかしら。ニニィが言っていたじゃない。ここの外は時間が止まっているって。生き残ったら元の時間に戻るって。だから、佑都もあなたも大丈夫よね。そうよね……)


 (そうよね。あの子と彼が心配なんじゃなくて、私が会いたいのよね。生きて、会いたい。早く、会いたい。だって……、もう、あんなに大事な2人の顔が、思い浮かばないときがあるの……)

 依藤は始め、家族の写真を手元に出そうと「ににぉろふ」に呼びかけた。しかし、何度試しても1枚も、実物としても、データとしても、取り出すことができなかった。だから、今まではほとんど毎日見ていた夫や息子の顔が、突然もやがかかったように、一瞬だけ、出てこなくなってしまったことが信じられなかった。


 (佑都……お母さん頑張るからね……、あなた……私頑張るね……)

 依藤は子供が描いた絵を寝室のテーブルの上に丁寧に置くと、スマホの「カードキー」を使い、広間へ向かおうとしたところで、ふと考えた。


 (本当に……、本当に、吉野さんを信じていいの?)





 ブレザー姿の女子中学生、田辺陽菜は身長が伸びないのが悩みの中学生である。その悩みも今となってはもはや全くどうでもいい話であり、ベッドに寝転がってぼんやりと天井を眺めていた。


 (お父さん……、お母さん……、会いたいよ……。わがまま言ってごめんなさい……)

 田辺はここに来る直前の記憶、門限が友達よりも少し早いと言った些細なことで両親と言い争ったことをもう何度目かわからないほど思い出し、目の横を涙がつーっと流れていくのを感じた。


 (そうだよね……。2人は私を心配してくれてたんだもん。拉致とか……、誘拐とか……。大事にされてたんだよね……。酷いこと言ってごめんなさい……。どうしよう……、もう会えなかったらどうしよう……)


 田辺は部屋にいる間はずっとこうしてベッドに仰向けになって、時々思い出したようにペレットと水を取り、風呂に入って少し気持ちが落ち着いて、また寝るまで同じことを考えていた。家族のこと、友達のこと、学校のこと……。


 (お父さん、最近、お腹出てきてたよね……。一緒にジョギングしたいな……。お母さんの作ってくれるご飯、いつも美味しかったな……。恥ずかしがらずに言えばよかった……)


 (来月、みっちゃんの誕生日だ……。プレゼント、何がいいかな……。ゆきちゃんに桃井センパイの気になっている子のこと、教えてあげればよかった……)


 (次の数学のテスト、範囲どこまでだっけ……。ボランティア委員会、立候補すればよかった……、手、挙げればよかった……)


 部屋の中は不気味なほど静かである。田辺自身がしゃくりあげる音とその合間に聞こえる心臓が動く音、時たまシーツと学生服がこすれる音のほかに、何も聞こえない。換気扇の音も、冷蔵庫の音も、外から入ってくる音も、ない。


 (誰か……、ここから出してよ……、会いたいよ……)


 動くものも、田辺以外、ない。虫一匹いない。何かの振動でハンガーが揺れることもない。何かの影が窓から入ることもない。



 田辺はその恰好のまま、意識を手放しつつあったが、スマホのアラームが鳴るとその音に驚いてベッドから落ちそうになり、何とかとどまった。ドキドキしたままアラームを止めると、今日の話し合いの時間がいつの間にか迫っていた。


 (怖いよ……、今日……、この部屋に戻ってこれるの……?)

 それでも田辺は自分と、自分の一番大事な人が生きるために、部屋を出て広間に行く決意をすることができた。田辺は洗面所へ向かい、涙の跡を落とし、目の充血を抑えて、そうやって自分が目立たないようにしてから、つまり、嫌々仕方なくの中にも、自分が生きるための、つまり、他の誰かを犠牲にするための工作をしてから、「カードキー」を使った。

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