第3話 失ったもの

「伯父さん?」

小声で声を掛け、恐る恐る開いたままの伯父のアトリエに足を踏み入れる。

すぐ正面で、伯父はベッドの方を向いて、キャンバスに筆を走らせていた。

「僕だよ。暫く振りだね。」

何だか一回りほど小さくなった伯父の背中に、僕はそう声を掛けて、キャンバスを覗き込んだ。

「ずっと来たかったんだけど、どうしてもオヤジがうるさくて、さ。それ、誰描いてるの?」

僕の憶えている限り、伯父は人物画など描いた事は無かった。

いつも大抵海を描いているか、そうでなければそこらの草っぱらなんかを描いていた。

だが、その時伯父のキャンバスに描かれていたのは、ベッドの上に座っている髪の長い女の子だった。

「モデルがそこにいるだろう。」

「え?」

もう一度、僕はベッドに目を向けた。

日が射し込む窓際には、水の半分ほど入った薄汚れたガラスのコップに、一本のクローバーが差してあった。

だが、ベッドの上には、誰もいなかった。

少なくとも、僕には、誰も見えなかった。

「・・・・伯父さん?」

「なんだ、お前も見えなくなっちまったのか。」

チラッと僕に視線を向け、伯父は深いため息を吐いて筆を置く。

「そこらへんの、普通の人間になっちまったんだなぁ、お前も。」

なんだか、哀れまれているような目だった。

「だから、誰が・・・」

「帰れ。もう来るな。」

「伯父さん?」

「二度は言わない。もう帰れ。そして、もうここへは来るな。」

伯父は再び筆を取り、僕に背を向けるようにしてキャンバスに向かった。

完全に、僕を拒絶している背中だった。

無性に哀しかった。

もう、ここへは来られない。伯父に、会えない。

それも理由の1つ。

その他に多分、もう1つ。

何かを失くしてしまった自分が、無性に哀しかった。

暫く無言で伯父の背中を見つめていたものの、その背中は微動だにしない。

僕は、重い足で敷居を跨いだ。

【だいじょうぶ。きっとだいじょうぶ。】

声が、聞こえたような気がした。

それは、伯父と2人で、空から降ってきた人を助けた時に聞こえた声。

【だいじょうぶ。わたしがあなたを、迎えに行くから】

振り返って見たベッドの上には、やはり誰もいない。

それでも僕は、その方向に頭を下げて、伯父のアトリエを後にした。


僕が狂ったように絵を描き始めたのは、それからだった。

両親は猛反対した。

僕が伯父のようになっては困ると思ったのだろう。

絵で食って行こうとは思わない。だから描かせて欲しい。

そう懇願したり、時には大喧嘩をしてまでも、僕は絵を描く事を辞めなかった。

最初は、近所の公園の絵。

それから、伯父と2人でよく通った海。

そして。

あの、空から降ってきた、天使の絵。

だが、何を描いても、どれだけ描いても、僕の心は満たされなかった。

昔に見た、記憶にある光景とは、何かが違う。

何かが、足りない。

僕の中の、失ってしまった何か。

それを、どうしても取り戻したくて。

取り戻して、伯父に会いに行きたくて。

僕は、必死だった。

何枚も何枚も、似たような絵を描き続けて、確かに技術は身に付いた。

でも、それだけだった。

僕が心から欲したものは、僕の中に戻っては来なかった。

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