第148話 過酷な遠泳

「さて、お主にとっての難関がやってきたぞ」


「うわぁ。まさかこれって全部消化液?」


 しばらく走り続けたカイとテュポーンがやってきたのは目の前に広がる海とも言うべき広大な消化液であった。


 この空間では精神のみなので魔法は使えない。

 つまりはこの消化液の海を泳いで渡らなければいけないということだ。

 それが意味するのは―――


「嫌でも俺の精神を削りに来てるじゃん......」


「ここはワームの胃袋にあたる部分じゃな。

 お主がワシを助けたいならここを渡ってもらうしか方法はない。

 ついでに言うとワシは泳げぬ故にお主に向こう岸まで渡るのを任せるぞ」


「マジですかい......」


 カイは思わず嫌そうな顔をしながらその消化液を見つめる。

 しかし、いつまでもここで立ち止まっていても埒が明かないので仕方なく行動を始めた。


 まずカイがこの海を渡ろうと考えた方法はイカダ作戦である。

 ワームの肉壁を抉ってそれを海に浮かべて遠くに見える岸に渡ろう―――と考えたまでは良かったが、そもそもどうやっても精神体で物理的に干渉できなかった。


 その肉壁に触れようとすると自分がまるでゴーストにでもなったかのように通り抜けていくのだ。

 仮に顔を突っ込んでみれば見えるのは一面の肉の壁。

 それにテュポーンの最短ルートからも外れているためにその道に行くわけにはいかない。


「魔法が使えなくて物理的にも触れれない。ふむ、やっぱり泳いでいくしかない系か? これ」


「物理的に干渉したければ妾の本体にいって魔力を受け取らなければいけないの」


「ん? あれ? テュポーンのその姿って本体じゃなかったっけ?」


「これはただの分身体じゃよ。お主を妾の精神体の本体に連れていくための。

 でなければ、こうして道草を食っておらんだろう」


「うーむ、確かに」


 「ちゃんとした説明は今初めてされたような」と思いつつも、その思考を自分の老いによる忘れっぽさと捉えると話を進めることにした。


「ともかく、俺はここを泳ぐしかないってことか」


「泳ぐ? ふむ、それはちと違うな。お主は魔法というのはどのように発現すると思う?」


「え、そりゃ、スキル的な魔法の名前を叫んで―――」


「それはお主がもとの世界のゲームに触れ過ぎじゃからじゃ。

 それがどうやって発現するかというのを予め知っておるからの発言。

 じゃが、もし知らなければ? その魔法はこういう形で発現するという説明文しかなかったら?

 当然、その魔法を具体的に脳内でイメージする他ない」


「つまりテュポーンが言いたいことは俺がこうして立っていること自体自分の立っていることが当たり前のイメージで出来てるってことか?」


「そう言うことじゃ。お主が自分自身の形をしているのも、お主が立っているここも全てはお主がそれが当然とイメージしてる故に起きていることじゃ」


 テュポーンの言い分はこの空間は自身のイメージによって左右するということを示唆していた。

 つまりカイ自身のイメージ次第でこの海も海ではなくなるということ。


「それじゃ、さっきの肉塊も触れようと思えば触れれるってことか?」


「いや、さっきも言ったが精神体に物理的干渉は無理じゃ。

 じゃが、空間的干渉なら出来なくもない。とはいえ、それなりに難しいがの」


「具体的には?」


「お主はこの消化液の上を陸路じゃと思って歩けるか? 

 渡り切るまで微塵も疑いもなく日常的な光景のように」


「......なるほど」


 カイはテュポーンの言っていることを理解した。

 だからこそ、その難しさも同時に理解してしまった。

 当たり前の常識を崩すことは簡単のようで難しい。

 それも理解するよりも先に無理だとわかることなら。


 例えば、海面を歩いたり、空を飛んだり。そんなことは子供でも出来ないことは知っている。そう固定概念に縛られている。


 そう思っている時点では例え精神体だとしてもそのようには動かないということだ。

 魔法も何もなく自分が海を歩く、空を飛ぶということが当然で誰でも出来る当たり前のことと思わなければ。


 そう思うことは簡単だ。しかし、自分自身を騙すように一切の疑いもなくそういう行動が出来るかと問われれば全く別だろう。


 それは子供の頃に仮面〇イダーに憧れて自分もそうなると信じて一回も疑わないような子がやっと出来るかもしれない可能性だ。


 この世界がいくらカイの常識を壊したとはいえ決して壊されていない常識もまたある。

 少なからず、疑り深いカイにはその方法は不可能だった。


「テュポーン、俺は泳いでいくことにするよ」


「ほう、そうか。お主が考えて決めた決断ならとやかく言うまい。

 しかし、その方法は一番手っ取り早いとはいえとてつもなく過酷な道じゃぞ?」


「わかってる。それでも俺がここで自分の常識破壊に挑戦するよりは遥かに時間がかからないしな」


「妾の事情を汲み取ってくれて助かるぞ。安心せい、もし何かあったら助けてやる。

 ふむ、それにしてもやっぱりいい男じゃの。なぁ、お主―――」


「その件はもういいから」


「まだ何も言っとらんのじゃが。あ~あ、もし本気だったら後悔するぞ?」


「それはそれで余計に困るやつ」


 カイとテュポーンの話に終わりが付くと彼女を背に乗せて、そっと足をその消化液の中に入れていく。


「痛っ!」


 その瞬間、感じるは全身を打ち付けられるような激痛。

 精神体が消化液によって犯され始めてる証拠だ。

 また、それはどんどんと沈めていく度に強くなっていく。

 それを耐えるために歯を食いしばるカイの額にもいくつも血管が浮かび上がった。


「大丈夫か?」


「あぁ、なんとかな。気が確かなうちに行くとするよ」


 さすがに心配そうな顔をするテュポーンがカイに言葉をかけるもカイはあくまで気丈を振舞った。

 自分はこうなることを覚悟してこの選択を取ったのだ、と。


 そして、カイの体が胴体まで消化液に浸かると壁を蹴って泳ぎ始めた。

 その光景はさながら竜宮城に連れていく亀と浦島太郎である。


 ギンギンとカイの体に痛みが走り回る。まるで傷口に塩を塗りこまれ、その上からさらに傷を広げられるように攻撃されているかのような。


 それが消化液に浸かっている部分に容赦なく襲い掛かってくる。

 今にも血反吐を吐いてジタバタと暴れまわりたい気分のカイであるが意地で前に進んでいく。


 そんなカイのことが気になったテュポーンは話しかけた。


「お主よ、妾と話そうじゃないか。こう広大な海を泳いでいると何かと暇でな。というわけで、おしゃべりな妾に付き合ってくれ」


 そして、テュポーンは他愛もない会話を始めた。

 それに対し、カイは答えられる余裕がある範囲で答えていく。


 なぜテュポーンは泳ぐだけでも神経を使うこの状況で話しかけたのか。それはカイの意識を痛みから外すためだ。


 テュポーンは何も悪ふざけでこんなことをしているわけではない。

 自分の暇な時間を潰すためという口実でそのようなことをしているだけだ。


 カイもそれに気づいている。故に、答えられる範囲でテュポーンの話に付き合っている。

 しかし、痛みは慣れることはなく慢性化したようにずっと同じ痛みを感じる。

 それはまさに生き地獄のようであった。


 カイの意識も次第に痛みに乗っ取られ始める。

 自分がどうして手を動かしているかもわからずに、ただひたすらに痛みだけが脳内を駆け巡った。


 今どれくらいの時間が経過しただろうか。十分? 三十分? 一時間? それとも一時間以上?


「―――というわけで、妾はこう提案してやったのじゃ......ってお主、大丈夫か!? だんだん沈んでおるぞ!?」


 カイはわからなくなっていた。自分がここにいる理由を。そもそも何のためにここに来たのだろうか、と。


 それはカイが消化液によって精神が食われてる証拠だ。

 ふとカイが手先を見ればいつの間にか右手は消失していて、左手も指がない。


 しかし、カイは泳ぎ続けている。それが使命かのように。

 されど本人にはなぜここを泳いでいるのか分からない。

 ここはどこなのか? なんでこんな所にいるのか?

 何か目的があったはずだったがそれが思い出せない。


 誰かとここに来たことは覚えている。四人いたはず......あれ? 三人だったか? 確か外はもっと広くてこんな場所じゃなかったような......気のせいだっけ?


「おい、聞こえてるか? 返事をせいニイガミ=カイ!」


 テュポーンは必死に声をかける。しかし、カイに返事はない。だが、ひたすらに泳ぎ続けている。


 精神破壊の第二段階なぞとっくに通過して自分の記憶すらも破壊され始めているとういうのに。


 体だけはその使命だけは決して忘れないように動き続けている。

 精神体である肉体が消化液によって欠損しようとも「それがどうした」と言わんばかりで。


 しかし、その体の動きも次第に鈍くなっていく。第三段階―――存在の消失が始まったからだ。


「お主、向こう岸が見えてきたぞ! あと少しじゃ! 頑張って意識を保つのじゃ!」


 そんな言葉もカイに届いているのかどうかわからない。

 カイの眼はただ虚ろでどこに何を見ているのだろうか。


 だんだんと体も動かなくなっていく。

 時間をかけるほどに先ほどよりも手足の動きが無くなっていった。


 存在の消失―――それは情報の塊である精神体が消化液によって記憶を消されていき、それがついにカイのもとの世界での記憶にまで到達したのだ。


 カイが暮らした家族との思い出。警察を目指した理由。万理との出会い。忘れたいような絶望的な日常。


 それらはカイが異世界に渡った理由の根幹的な部分だ。そこを掘り下げていけばよりその理由の想いは強くなる。


 そこの記憶が消えて行けばカイはいよいよ精神を消失した廃人となってしまう。

 故に、一刻も早くこの海から抜け出さなければいけないが、ついにはカイの体は動かなくなって全身が沈み始めた。


「ここまでか。なら、次は妾の番じゃな。泳ぎは苦手な故に着くまで持ってくれよ!」


 テュポーンはカイから降りるとカイの小さくなった体を引っ張りとにかく手足と尻尾をバタバタさせながら泳いでいった。


 もう目と鼻の先に岸が見える。幸いというかなんというべきか、カイの体の手足が無くなって運びやすくなったおかげで思ったよりも移動スピードが速い。

 しかし、それは同時にカイの状態が危ないということでもある。


「よっこらせっと。着いた! 着いたぞ!」


 テュポーンは岸に上がるとカイを引っ張り上げた。

 もはや辛うじて胴体と頭が残ってる状態であった。

 普通ならすでに死んでいるだろう。

 しかし、精神体ならこれでも生きている。


「お主、聞こえるか? 妾の声が聞こえるか?」


「......あ、あぁ、聞こえる」


「自分の名前を言うてみよ。お主は何者じゃ?」


「俺の......名前は......戒だ。新神戒」


「よし、理解しておるな。今、妾の少ない精神体の情報をわけてやるから大事に使うのじゃぞ」


 そして、テュポーンはカイに触れるとそこにこれまで見て話してきたカイという人物の情報を流していく。

 すると、カイの欠損した手足は芽が成長していくように再生し始めた。


 全身が再生するとカイは起き上がり自分の手を見つめる。

 そして、動かして違和感がないことをテュポーンに感謝を告げた。


「ありがとう。一人だったら終わってた」


「ふふん、妾に感謝せい......と言いたい所じゃが、あそこまでの頑張りはお主の信念があったからじゃ。

 妾としては当然のことをしたまで。さてと、少し休憩したら行くぞ。もう妾の本体は近い」

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