アイナ 16

 北区にある喫茶店で、私は、入店時に頼んだコーヒーが運ばれてくるのを、のんびりと待っていた。

 すでに、かなりの時間が経過している。何度かそれとなく厨房を確認してみたのだが、特に動きはないように見えた。店奥にある棚の飾りを直している唯一の女性店員も、客が私一人しかいないということで、ずっと背を向けていた。きっと、わざとなのだろうけど。

 ただ、今日は特に急いでいる用もなく、むしろ人を待っている状況でもあったので、わざわざ彼女に声をかけ、コーヒーはまだかと訊ねる気も起きなかった。いつもならそうしていたかもしれないけど、たまには、このゆるりとした時間を過ごすのも悪くはないな、と感じていたからだ。

 窓の外に視線をやり、空を眺める。青く澄み渡った綺麗な空を。

 ——あの事件から、半年ほど経った。

 事件とはもちろん、エミルのことだ。それは、王都の城の深部にある王宮の中で、決着がついた。

 事件の真相を知るのは、私と、兄さんと、ヘクターだけ。の、はずだ。直前までレイラもその場にいた気がするけれど、おそらく、核心に迫る部分までは把握していない。彼女からしてみると「興味がない」だろうから。

 ただ、あの後どうなったのか、よく覚えていない。私たちは話し合い、エミルのことは伏せておくことにした。のだと思う。

 いや、うまく思い出せないというのが本当だ。王宮魔術師として王宮に仕えていたエミルが、突如として王様を裏切り、殺した。そして、ユウトという名の少年に王様殺しの罪を着せ、指名手配する。すべては、その昔、生き別れてしまった彼に再会したいがために。

 だが、ユウトはそれを拒んだ。そしてどういうわけか、エミルとユウトは共に死んだ。王宮に二人して、安らかに眠っていた。

 知らないうちに始まっていた事件は、私たちの目の前で、突然、終わりを迎えたのだ。

 おとぎ話のようで奇妙な出来事だが、これが事件の全貌だった。何か大切なことを忘れているような気もするが、最近は気のせいなのかもと思い始めていた。この違和感についてはヘクターや兄さんも同じにようにあって、やはり、よくわからないらしい。あの時の記憶はどういうわけか、みんな曖昧に終わっているのだ。

 王都に住む人たちの間では、レグルス騎士団が、機械生命体たちの侵略から王都を守ってくれたという噂でもちきりだった。

 元騎士団長であり、私の父である——ジーク・エレクストレアが死んだという衝撃が走って以来、レグルス騎士団は再びその信頼を失いかけていた。彼がいなくて大丈夫なのか。新しい体制はどういったものなのかと。特に目立った活動もしておらず、そのうち王様殺しの事件が起きたので、人々に猜疑心を植え付けるだけの存在となりかけていたのだ。

 しかし、手際いい避難指示や、住宅街まで攻め込んできた機械生命体から、人々を守るべく戦った姿に、感動した見直したと称える声も多くあがった。後からそのことを聞き、私は腹の底がくすぐったくなった。褒められるというのも悪くはないな、と。おかげで、レグルス騎士団の名誉も回復の兆しが見えていた。

 すべては丸く収まったのだ――と、思いたかった。

 もしかすると、私たちの気づいていないところで、また何か、世界を揺るがすような事件は発生しているのかもしれないけれど、それでも、今はこの平穏な日々を楽しみたくあった。

 ――あの後、騎士団を辞めた私にとっては、もう関係のないことなんだ、と割り切ってしまってもいいんじゃないか。そう思った。

 そして今まで感じられなかった分、日常の中にある小さな悦びを、たとえば、天気がいいだとか、ご飯が美味しいだとか、そういったことをしっかりと味わうつもりでいた。いつかコーヒーが出来上がるのを待つ時間だって、やがてここに来るはずの彼らを待つ時間だって大切にしたかった。

 遅いな、と人知れず言いかけたちょうどそ時、店の扉が、勢いよく開いた。少し驚き、すぐに視線をやる。息を切らし、入店してきたのはヘクターだった。

「ごめん、遅れちゃって」

 私の姿を見つけると、頭の後ろを掻きながら彼は席についた。ささっと近寄ってきた店員に、「ココアを」と注文する。

 私と二人きりの時はこちらの席に近づこうとすらせず、まるで反応を見せなかった彼女が、やけに俊敏に動いたので、私はもしや、と思い顔を上げた。あ、やっぱりか。

 私がコーヒー注文した時には、まるで楽しくなさそうな素っ気ない態度を取っていた彼女だったのだが、ヘクターの魅力的な容姿に気づいたようで、すぐに表情を変え、愛嬌たっぷりの笑みを振り撒きながら、かしこまりました、と快活に返事をすると、駆け足で厨房へと消えていった。

 まったく相変わらず罪作りな男だな、と私は呆れ半分、面白半分で息を吐いた。

 ヘクターの頼んだココアの方が先に届いたことは言うまでもないが、私のコーヒーも続けて運ばれてきたので特に思うこともなかった。ただし、どちらもあの店員が、きっとわざとなのだろうが、二回に分けて持ってきたことや、後のコーヒーを持ってきた時さえ私には目もくれず、ヘクターのことを恋する乙女のような目で見つめていたことには、少しむっとした。

 そのやけに肩や脚が露出されている制服も、彼を誘惑するために用意したものだろう、と難癖をつけてしまいそうになる始末だ。

 しかし、そんな彼女の様子に気づくことなく、今度、士官学校に教官として行くことになったんだと呑気に笑うヘクターの鈍感さには、うんざりさえした。これはこれで、彼らしいと言えばらしいけど。

「あれ、そういえば、アイナちゃんだけ?」

 ヘクターが、四人掛けの席の空いた二つを指して言う。

 私は頷いた。三人で待ち合わせをしていたので、本当ならこの場に、もう一人いるはずだった。

「あの子、まだ来てないのよ。もしかして迷ってるのかしら?」

 窓の外を、見やる。

「この場所を知らないとか」

 それはないだろうなあ、と思った。

「前に一度、一緒に来たことがあるわ」

「なら、大丈夫か」

「ええ、たぶん」

 私が言った時、また店の扉が開いた。

 すっと、少女が入店してきた。きょろり、と店内を見回すも、客が私たちだけしかいないので、彼女の視線は泳ぎ回ることなく、すぐに止まる。

「遅れてしまって、すみません」

「気にしなくていいわよ、アイリス」

 そそくさと、アイリスは私の正面の席に座った。

「元気そうで何よりね」

「はい、おかげさまで」

 ふふ、とアイリスは微笑む。久しぶりに会えたことを、喜んでくれているようだった。そんな彼女を見ていると、私も何だか嬉しくなった。たぶん、頬が緩んでいた。

 人間味のない白い肌。その中にも感じる生命の儚さ。両手で包み込んであげたくなるか弱さ。その愛くるしさだけは変わっていなかった。


 ——あれから、多くのことが変わった。

 私は騎士団を辞め、宿泊させてもらっている宿屋の仕事を手伝うようになったし、ヘクターは、兄さんが団長を務めることになり長い間、不在のままだった副団長に就いた。

 そして、アイリスは、故郷の街へと帰っていった。

 というのも、騎士団を辞めたわけではなく、遠征としう形で拠点をアークへ置き、そこで活動することにしたそうだ。兄さんも色々と協力してくれたらしい。

 アークの街の復興、そして王都との交流を図るための架け橋になるのだと、アイリスは張り切っていた。

 万象が目まぐるしく変わりゆくこの世界の中で、それでも、変わらない確かなものもある。そんなことを私は、この半年間でずっと考えていた。

 店内には、ちらほらと客の姿が見え始める。

 もう昼時だ。話に夢中になって、それだけの時が流れていたことに気がつかなかった。

 ああ、きっとこれなんだな、と思う。私が望んでいたものは。

 友達や家族と共に笑いながら過ごす日々。昔から、何も変わっていない。誰もが笑顔でいられるそんな平和な世界を、私はずっと望んでいたのだ。

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