夜を超えて、新しい世界へ。

ユウト 14

「——と、いうことなんだよ」

 急に振り返り、大きな声でアイシャが言う。彼女は今、子供の姿だ。甲高い声がラボ内に響いた。

 俺は顔をしかめて、それから、口を開けた。

「つまり、俺は死んでたってことなの……?」

 自分の顔面から、さっと血の気が引いたのがわかった。出した声も、うわずっていた。ごくりと唾を飲み込む。アイシャの返答はわかりきっていたけれど、それでも緊張感があった。

「そう、今から二年前にね。だからマーベラスは君の魂を持っていた。そして、地下牢にいた、ユーリという名の少年の体を器にして、ユウトの魂を入れた。すると、今の君——『ユウト』が誕生したんだ」

 アイシャの大袈裟な手振りをじっと見ながら、それでも俺の意識は彼方に彷徨っていた。

 ここよりずっと遠く——つまり、過去の記憶の中だ。

 死んだ。らしい。

 俺が?

 いつ?どこで?

 俺は、どうやって死んだんだ?

 どれだけ記憶の洞窟を掘り進めてみても、目当てのものは見つからない。それどころか、どんどん深みにハマっていく。宝のない岩穴に迷い込んだか、いや、底のない沼に落ちてしまった、そんな焦燥感さえ湧いてきた。

「俺は、自分がいつどうやって死んだのか覚えてない……というか、死んだっていう記憶がないんだけど」

「だろうね。そもそも記憶というものは、魂に書き込まれるものでね。魂が記憶の辞典と言ってもいい。そんなイメージだ。記憶は、魂にぴたりとくっついているんだよ。だから人間が死に、魂が抜けるとその人間の体からは記憶も抜ける。たまに体に少しだけ刻まれるケースもあるみたいだけど、とにかく、記憶は魂と密接に結びついているんだよ。機械生命体でいうコアのようにね」と言って、アイシャは、テーブルの上にあるコアを指した。

「それは、私の身をもって実験済みだ。ああ、そういえば君もいたな。この幼体に、私の魂を入れる時さ」

「そんなこともあったね」

 ちょうどアークでコアを回収し、ここに運び届けた時だった。

「私はエミルに殺されたわけだが、こうしてマーベラスの力で蘇った後も、死の前後の記憶は曖昧なんだよ。君をコユグの木の前で見送った後、どこでどうやって彼女に殺されたのか、覚えていないし」

「エミル?」

 慌てて口を挟む。聞き捨てならない言葉が、聞こえた。

「ああ、現王宮魔術師のことだ。二年前、突然、王宮に姿を現したんだ。そして――あれ、もしかして知らないのか」

「……何を?」

「彼女は、王様殺しの真犯人でもある。君を指名手配したのも彼女。二年前にユグド村を滅ぼしたのも、おそらく彼女だ。エミルは、君にとても会いたがっている。地下牢にいた少年の体に君の魂を入れ、『ユウト』を蘇らせることを企んでいたほどだからね」

 私に協力を持ち掛けてきたんだ、そして、口封じのために私を殺した、とアイシャは続けて言った。

「エミルが、そんなことを……?」

 信じられなかった。俺の知っているエミルは、人殺しだなんて、そんなことはしない。村を滅ぼすだなんて、そんな度胸はない。

 いつも穏やかな雰囲気で振る舞い、笑った顔は手塩に掛けて育てた花のように愛嬌があって美しく、心は晴天のように澄んでいて、時にお節介で、でも根は優しい、とてもいい子なんだ。その温厚な態度の内に、残虐性を秘めているというのがまったく想像できないくらいに。あり得ないことなんだ。

 ただ、俺は今まで、あり得ないことばかり見てきたのも事実だった。

 ユグド村の中の世界しか知らなかった俺にとって、この世界は俺の考えの及ばないことばかりで満ちているというのは散々思い知ってきた。スピカの森で、アークの街で。

 この世界は今、俺に試練を与えようとしている。そんな気がした。

 残酷な真実を突きつけ、それでも立ち上がることができるのかと、俺に問い掛けている。

 二年前に、ユグド村は崩壊した。エミルという名の少女が王宮にいる。

 ララティアさんやジークさんから、同じような話を聞いたことを思い出した。ユグド村と関係のあるエミルと言えば、俺のよく知っているエミルのことで間違いないのだろう。そうじゃない可能性はないのかと考えてみるも、思い浮かばない。逃げ道がなくなっていく。視界が狭まっていく。そんな窮屈さだけがあった。

 ――二年前。と、その言葉が頭から離れなかった。

 そうだ、二年前だ。俺が死んだのが二年前。そして、エミルが王宮に現れたのも、ちょうど二年前だという。

 二年前に、何があった?

 俺の知らないところで、何かがすでに起こっていたのか。

 記憶を二年前に向けて遡ろうとした時、ふと、引っ掛かりを覚えた。記憶が途切れている場面があったからだ。これまでの長い人生という道を真っ直ぐに逆走していると、途中、ぽっかりと穴が空いていた。そして、その穴を、いつの間にか飛び越えている。なんだ、この違和感は。その穴を覗いてみる。何も見えない。

 ならばと思い、穴から少し離れたところを探ってみることにした。抜け落ちた記憶の道を戻る手前で、最後に覚えている場面だ。

 頭に浮かんだのは、ドロシーと初めて出会った見知らぬ森の中の光景だった。

 ――まさか、俺はあの時、死んだのか?

 続いて、彼女と最後に言葉を交わした場面が、思い出される。

 心配するエミルに背を向け、こっそりと村を抜け出し、夜の森に発見を求めて出かけた。彼女とのやり取りが、穴の向こう側にあった。

 あの夜——どうやって村に帰ったっけ。

 そういえば、その記憶はない。

 夜の森へ出かけ、そこまでは覚えているけれど、気づけばドロシーの膝の上に頭を預け、寝転んでいた。あの見知らぬ森の中にいたのだ。

 ——ということは。

 凍るような冷たさを背中に感じた。

 おそらく、記憶の中にできたこの穴は、ちょうど俺が死んだ時のこと。

 ――つまり、そういうことなのだ。

 夜中に村を抜け出したあの日、俺は森の中で死んだ。そして、二年の時が流れ、つい先日、目覚めた。

 アイシャの話から推測するに、マーベラスの力で蘇った人間は、死の前後の記憶は曖昧であるらしい。穴の中に消えた二年間を、まるでなかったことにするかのように、その前後の記憶が結びついていたのだ。

 意識を取り戻したのが、最後に記憶している場所と同じで深い森の中ということ。そして、目覚めてからは村に帰ることができず、元々、村の外とは交流がなかったことから、それだけの時が経っていることに、あまり違和感を覚えなかったのだろう。

 いや、そんなあっさりとした解釈でいいのだろうか。まるでおとぎ話のような展開で、すんなりとは受け入れられない。

 ただ、どれだけ考えても、その可能性がもっとも高いとしか思えなかった。

「死んでしまった君と、再会したかったんだろう。彼女にとって君は、それだけ特別な存在なんだよ。二年の時をかけ、これだけのことをしてまで、会いたがっているんだからね」

 アイシャに対してはまだ苦手意識があるものの、語っていることが真実なのだとしたらと考えると、不思議と嫌味には聞こえなかった。受け入れるしかないのかもしれない。とも思った。

「そうか。全部、エミルが……」

「君たちは、それほど仲がよかったのかい?」

「エミルは……そうだね、もう二年前になるのかな。俺と家族だったんだ」

 そう言って俺は、エミルとの出会いから、ユグド村で共に過ごした日々をアイシャに説明した。

 アイシャは、時折、大きく頷いたり、適当な相槌を入れたりしながら、それらを興味深いといった様子で聞いてくれた。それから、いくつか訊ねられることもあった。特に、エミルとの関係について。


 くらり、と眩暈がした。視界が悪くなり、頭がぼんやりとする。

 ああ、これは精神的にかなり疲れているな、と自分でもわかるくらいに、特にエミルのことはショックだったようだ。

 遠くから、誰かの声が聞こえてきた。

「これから君には、多くの苦難が降りかかるだろう」と、未来の俺の身に起こる災いを予知するかのように言い、「でも、自分を信じるんだよ」と、根拠はないけれど、なぜだか勇気が湧いてくる助言をくれる彼の声が、頭の中に響いた。

 誰だろうか。

 いや知っている。ジークさんだ。

 ジークさんは俺の心を信じてくれた。俺の中にある正義を認めてくれた。俺なら世界を救うことができると、背中を思い切り押してくれたのだ。

 時計塔でのことが、頭に蘇った。彼に想いを託された、あの時の記憶が。




 ————




「頼みが、あるんだ」ジークさんが、消え入りそうな声で呟いた。

「何ですか?」

「僕の代わりに、王都に行ってくれないか」

「代わりって、どうして……」

 視線が、するりと下がる。彼が右手で庇っている、横腹の傷が目に入った。「どこか手当てができる場所を探しましょう」

「その必要はないよ。僕はもう、死ぬからね」

「え」

 思わず洩らした声が、時計塔の闇の中に消えていった。

 室内は沈黙が支配していた。自分たち以外の生き物はすべていなくなってしまったのではと錯覚するほど、静かな世界だった。一呼吸か、二呼吸ほどおいた後で、俺は訊ねる。

「どういうことですか……?」

 驚きが滲んでいたせいか、震えた声だった。

「こいつの魂は、呪われているからだ」

 どこからか、ファフニールの声が聞こえた。やはり、姿はない。

「呪われている?」

「オレの呪いだ。こいつの魂はオレという存在と密接に結びついている。そして、それは本来、切り離すことは不可能だ。なぜなら死んでしまうからな。だが、こいつは躊躇しなかった。自分の命と引き換えに、このオレを顕現させたのだ」

 どうしてそんなことを――と言いかけ、それは他ならぬ俺を守るためではないか、と留まった。

 時計塔の前の広場で機械生命体たちが襲ってきた時、ジークさんはファフニールを呼び出して、俺の身を案じてくれた。それが自分の命を失う結果になるとわかっていても、俺の命を優先してくれた、ということなのだ。

 どうして、そんなことをしたのだろうか。

 疑問がよぎった。なぜ出会ったばかりの俺のために、そんなにあっさりと命を懸けることができたのか。まるで、わからなかった。

 しかし、わからないと思いつつ、頭にはいつかのコランの言葉があった。

「自分のことを二の次にしてでも、他人を救ってやろうって思える正義の心だ」

 世界を守る真のヒーローには、その心がある。そんなことを、コランは言っていた。

 まさに、ジークさんのことじゃないか。

「自分以外の人のことを大切に思うのは、当たり前のことじゃないの?」

 これは、幼い頃の俺の言葉だ。コランに対する返事だった。よくは覚えていないのだけれど、俺はきっと、「困っている人がいるのなら、それがたとえ初対面の相手であっても、ちょっとお節介を焼くくらい普通じゃないのか」というニュアンスで語っていたのだと思う。

 でも、本当の正義は、違った。もっと洗練されたものなのだと、ジークさんが教えてくれた。

 ジークさんが、立ち塞がる機械生命体たちを前に、剣を振り突き進んでいく姿が、瞼の裏に浮かんだ。そして、クロムと対峙した時の優しくも悲しげな色に染まった顔、アルフレッドの野望を阻止すべく戦っていた、その大きな背中を順に思い出していった。

 彼は、自分が死ぬことをすでに悟っていた。知っていながら、戦っていたのだ。

 なんて精神力だ。それが、本当の正義の心というものなのだろうか。敬いを通り越えて畏れさえ感じる。真の正義とは、生半可な気持ちではとても踏み入れない――高潔な領域にあるのだと、俺は思い知った。

「助かる方法は、ないんですか」

 振り絞って出した涙声は、やはり震えていた。

「僕にはどうしようもないよ。ファフニールが何か知っているのなら話は別だけど……」

「いや、ない」

「だよね」

 はは、とジークさんは笑う。

「というより、お前の命はすでに尽きている。その体に、消耗した魂が何とかしがみついて意識を保っているだけの状態で、ほとんど死人だ。当然、魔力も残っていない。そんな体でよくあれだけ戦ったものだな。その精神力だけは認めてやる。だが意識も、やがて消え失せる」

「そういうわけだ。僕はここで死ぬんだよ。でも、この戦いに悔いはないよ。アークに来たことが間違いだとはまったく思っていないし、君たちを守ることができて、嬉しくさえ感じているんだ」

 心なしか、その瞳には光が宿っていないように見えた。悲しみがどっと押し寄せ、一気に胸の中を満たした。

「ただ、一つ心残りがあってね——王都に娘がいるんだ」

「娘……」

 子どもがいたのか、と驚きはしたが、今はそんなこと、どうでもよかった。これが遺言となるなら、彼の言葉を聞きこぼさないことが大切だ。

「とても優しい心を持った自慢の子だよ。でも、その優しさのためか、少し不器用なところがあってね、世界の理不尽さに苦しむことが多々あるんだ。もしかして、と思ったけど……クロム、君もそうなんじゃないか?」と、ジークさんが、俺の後ろにいるクロムに視線をやった。

「……私には、私のことが、よくわからない」

「難しいことを聞いちゃったかな。でも、君たちは似ている。とても優しい心を持っているから。おかげで、傷つくこともあるんだと思う。でも、だからこそかな。君たちなら姉妹のような、きっといい関係を築くことができるんじゃないかと僕は思っているんだよ。だから……これもまた僕のわがままなんだけどね、どうか、あの子の助けになってやってはくれないだろうか」

「……私に、その役目が務まるだろうか?私は、その、なんというか……」

 クロムは、なんとも歯切れの悪い様子だった。

「役目とか務めとか、そういう堅苦しいことは考えなくていいさ。君は人間と同じ、自分で考え行動できる心を持っているんだから。思った通りのことをすればいい。感じた通りのことを口にすればいい。そうすることで、きっと、君の見ている世界は、これまでに見てきたものとは比べものにならないほど、いろいろな姿を見せてくれるはずだよ。それらを目の当たりにすることで、君の心はもっともっと豊かに育っていくはずだから」

 そう言って、ジークさんは、きりっとした目で、クロムを見据えた。

「レグルス騎士団に入るといい。クロム、君なら立派は騎士になれるはずだ。僕は、そう確信している」

 ジークさんが、すっと手を伸ばした。クロムは一歩、前に出て、その手を取る。

 ——赤いブローチが、握られていた。

「これをいつか、あの子に渡してほしい」

「……了解した」

「ありがとう」

 力無く、笑う。命の灯火が消えかかっているように見えた。ふうっと吹けば簡単に消えてしまいそうな、いや、そうしなくても自然と燃え尽きてしまいそうな儚さがあった。

「ユウトくん」

 呼ばれて、はっとする。頬をつつ、と何かが滑り落ちた。

「君にはまだ、やらなければならないことがあるんだろ?」

「……はい」

 ラプラスの目のことが、よぎる。彼女に会い、何とかして、予知した未来を止めなければ。

 急に不安に襲われる。

 そんなこと、俺にできるのだろうか?

 ジークさんならあるいはと思っていたけれど、俺は何の取り得もない、ただの人間だ。このアークの街でも守ってもらってばかりで、そのせいで、ジークさんまで失う羽目に――

「不安なのは、わかるよ。でも前を向くしかない。こんな時、世界はいつも残酷だ。それがお前の運命なんだって、決めつけてくる。だから、折れちゃ駄目だよ、ユウトくん」

 すべてを見透かしているかのような口調で、ジークさんは言った。

「これから君には、多くの苦難が降りかかるだろう。辛い決断を迫られるかもしれない。でも、自分を信じるんだ。君の心は強く、とても美しい。必ず世界を救うことができるはずなんだから。僕は、そう信じてる」

「……ジークさんは、なんで俺のために、命を懸けてまで——」

「さっきも言っただろ。僕はね、僕の手の届くところにいる人たちには笑っていてほしいんだ。そのためなら、何を犠牲にしても、それがたとえ僕の命であろうとも、惜しくはないんだよ」

 ジークさんが微笑む。俺も一緒になって、真似るようにして笑ってみせた。強がりで浮かべた笑みは少し強張っていたのが、自分でもわかった。

 この人は——ジークという騎士は、今までも、そんな志で戦ってきたのだろう。と、しみじみ思った。守るべきもののために全力で、常に自分の命を懸けて。

 視界が霞む。目から雫が落ちた。ぽろぽろと、とめどなく涙が溢れ出る。鼻がツンと痛くなった。静かに項垂れたジークさんを見て、笑顔が崩れていく。

 俺は、こんなにも偉大な正義に生かしてもらったんだと思うと胸が熱くなった。体の内側に、ぽっと炎が灯ったように、しかしほどよく温かく、沈鬱は空気が漂う時計塔の中でも、居心地の良さを感じた。

 しかし、光の差し込まないこの部屋は、いつまでも暗いままだった。




 ――――




 アイシャと話を終えると、俺はマーベラスの姿を探した。アイシャが言うには、奥の部屋で眠りこけているらしい。

 その通りだった。奥の部屋にはベッドが用意されているというのに、床に転がり、すうすうと寝息を立てていた。

「マーベラス」

 声を掛けると、マーベラスは、ううん、と目を覚ました。

「頼みたいことがあるんだ」

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