ユーリ 13
「孤独とは、人の心をもっとも蝕む毒である」という格言を、あるいは聞く人によっては世迷い言かもしれないけれど、昔、何かの本で読んだことがあった。
毒とは、すべての生き物の生命活動を侵害する危険物のことだ。生き物を死に至らしめることだってできる。つまり、この言葉の通りならば、孤独は死に結びつく、ということらしい。
くだらないな。人が一人でいるだけで、死ぬわけがないじゃないか。そう、幼い頃の僕は、呆れ気味に本を閉じた。
それを今、思い出していた。
なぜか。僕が孤独の状況に置かれていたからだ。
湿った空気が、顔にぴたりと張り付く。不愉快だった。耳にキンと刺さる音が聞こえた。気がした。だが実際は、そんな音なんてしていない。それどころか、何も聞こえない空間だった。辺りは、しんとしている。視界は深い黒に包まれていた。
「どこだ、ここは……?」
顔を上げる。不安定な感覚があったので確認してみると、倒れていることに気がついた。冷たい床に突っ伏している。力をこめるも、体は動かない。僕の体なのに、どうして。
何が何だかわからなかった。なぜ、こんなところにいるんだ。今、何をしているんだ。そう考えた後で、あれ、そういえば、いつから記憶が途切れているのだろう、という疑問が浮かんできた。
目を閉じ、眠りにつくように心を落ち着かせる。ある光景が見えた。これは、王都か。
順番に思い出す。街中にいるらしい。日差しも届かない暗い場所——路地裏だ。
隣にいるのは、誰だ?
鋭い目の男が一人と、魔女のような恰好をした少女が一人。ああ、レオとドロシーだ。
何か、話をしている。なんて言っていたっけ。
思い出せ。
――――
「そんなこと、駄目に決まっているだろう」
レオが言う。
「いいや、これが最善だ」と、僕がはっきり返すと、レオは黙った。
「ドロシーを連れて、あんただけで行ってくれ」
路地裏の小道を、指した。レオは首を横に振る。隣にいるドロシーを見る。うつらうつらと首を前後に振り、今にも意識を失いそうにしていた。
通りに視線を戻すと、まだ、そこにレオニールはいた。注意深く辺りを見渡している。おそらく僕たちに気づいているのだろう。ただ何者なのか、それを念入りに見定めているようであった。
「彼は僕たちを探している。このままだと見つかってしまう。僕たちだけならまだしも、ドロシーは目立つ。今、顔を覚えられると厄介なんだ」
クラウンを手に入れ、願い、すべてを元に戻せたとして、また世界を飛び越えるためにはドロシーの力が必要だ。しかし、今の彼女を見ていると、世界を飛び越えるほどの力を回復するまでに、どれだけの時間がかかるのかはわからない。
さらに、クラウンを盗まれたとなると、彼らは王都の中を隅々まで探すことだろう。その時に、素顔が割れているのはまずい。だからここは、二手に別れるのが賢明なのだ。
やってきた王都の騎士たちは、黒い髪の人物を探している口ぶりだった。僕とレオは、どちらも夜に溶け込む黒い髪色をしている。
ただ彼は、あのレオニールという男と顔立ちが同じだった。これだけ近くにいた僕でも見間違えてしまうほどに。同じ顔の人間が二人も現れると、彼らはきっと混乱するだろう。そして事態を知りたがるはずだ。
信じるだろうか。僕たちが世界を飛び越えてきたということを。この世界がクラウンによって創造されたということを。王様であるレグルスがその元凶であるということを。
そうは思えない。たとえ信じてもらえたとして、その話がレグルスの耳に届くことだけは避けたかった。かつていた世界から、自分を追ってきた生き残りであると察し、警戒することだろう。クラウンの奪取が、より困難になってしまう恐れがある。やはり、よくない。
「だから、僕がおとりになる」
「いや、一緒に行くんだ。似ているとはいえ、まったく違う世界だ。予想外の事態に巻き込まれるかもしれないぞ。今、離れ離れになるわけにはいかないんだ」
レオが、掴みかかってくる。何をそんなに必死になっているんだよ。僕は頭の中で呟いた。
自分の身は自分で守れ。優先するべきものを間違えるな。自分のやるべきことをやれ。
この戦いに同行すると言った時、あんたが呈示してきた条件じゃないか。
僕のことは、僕が決める。あんたは、ただ世界を救うことだけを目標にしていてくれ。僕は、たぶん、もう長くはない。僕自身が、それを一番よく理解している。だから最期くらい、恩人であるあんたのためになりたいんだよ、レオ。
ドロシーから、この「新しい世界」のことを聞き、あの平穏だった日々を、取り戻すことができるかもしれない。クラウンを手に入れることができれば、すべては、何事もなかったかのように元に戻るのだ、とそう思った瞬間、体を抑えつけていた重しのようなものが壊れた感覚があった。心がすっと軽くなる――というか、僕の意識そのものが、ふわふわと漂い、曖昧模糊とした何かに成り代わってしまった解放感とも充実感とも取れる快楽に襲われた。
つまり、死んでしまったのではないか。そう思った。
僕は、生きる目標を失ったのだ。
ユートピアに復讐を果たす。恐るべき野望に巻き込まれたみんなの思いを、僕が晴らす。そして世界を救うのだ、と。崩壊した王都の街で、レオに命を救われたあの日から、僕は、それを望んで生きていた。その強い欲望だけが、僕を世界に繋ぎとめていた。
その糸が、切れてしまったのだ。
僕は今、僕がなんで生きているのか、わからなくなっていた。
ユートピアはもういない。復讐心は不完全燃焼ではあるが、諦めるしかない。一つずつ、自分の存在意義を自分で取り除いていく。
作戦がうまくいけば世界だって元通りになる。ドロシーさえいればそれも可能だ。僕がいる必要はない。また一つ、僕が生きる意味が消えていく。
レグルスはどうする?もう、どうでもいいか。そんなことを考える気力までも失せつつある。ほら、空っぽだ。
僕が世界に生きている理由は僕自身の中にはもうない。ならばせめて、明日に希望を抱く者の意志だけでも守らなければならない。そんな気持ちでいっぱいだった。
レオは、世界に必要とされている存在だ。彼を、失うわけにはいかない。おとぎ話にはいつだって、ヒーローのような存在が必要なんだ。世界を救うために戦う正義の心が、必要なんだよ。だから――
「それなら、待ち合わせ場所を決めておこう」
妥協案を出してやった、というふりをして言ってみると、レオは少しの間、口をつぐみ顎に手を当てた。
「南区に小さな宿屋があるはずだ。ドロシーの言った通り、あちらの世界と同じであればな。人気は少なく、いつも部屋は多く空いている」
宿屋、とその言葉が、頭に引っ掛かる。
「……あっちの世界で、あんたと初めて会った場所か?」
レオは静かに、頷いた。
そして、それ以上は何も言ってこなかった。僕の覚悟の強さを感じ取ったらしい。止めるだけ野暮か、といった様子でもあった。
彼は、人が嘘をついているのか見抜くことができる力があると言っていたが、僕の言葉に、一切の嘘も迷いも遠慮も混じっていないことに気づいたのだろう。実際、そこまで察することができるのかはわからないけれど。それでも、思いの強さは伝わったらしい。
「これが、今の僕が思い描く『幸せの形』なんだ」
これで、いいんだよ。そう言い残し、僕は通りへと飛び出した。
――――
それから、どうなったんだっけ。僕は、首を横に向けた。
確かレオニールと話をしたんだ。そうだった。彼が「この世界」のレオであるというのなら、その正義の心だって同じはずだ。嘘を言っていないことを察してくれ、もしかすると協力してくれるかもしれない。そう踏んでいたから。
しかし、結果はこれだ。
レオニールは僕の話を聞くと意味ありげに沈黙してみせた。真実を見抜こうとしていたのかもしれない。が、結局、何も言わないまま、騎士たちを呼び寄せ、僕を拘束してしまった。
そうして――今に至った、というわけだ。
床に手をつき、上半身を起こす。
すると、ドロシーの力の反動で傷ついた左腕だけでなく、ズキズキと体のあちこちから痛みが襲ってきた。肩の力が抜け、また倒れる。ひんやりとした床が、顔に触れた。じわっと頭の中に、もやが広がるような感覚があった。意識を失いかけていた。
目を開ける。視界は暗闇でいっぱいだったが、少しずつ慣れてくると、暗がりの中にも見えるものがあった。
牢屋だ。とは、一目でわかった。僕は今、牢の中に囚われているのだ。
王都の城にある地下牢だろうか。都市伝説として、噂で聞いたことはあったけれど、本当に存在していたとは。驚きだった。
眩暈が、した。やはり意識を失いかけているようだ。しかし自分でそれが理解できるとは、何ともおかしな気分だった。
再び目を閉じ、息を吐く。しっとりとした空気が、僕の体を優しく包み込むように降り注いできた。孤独の空気感を全身で味わう。
そうか、これが毒なのか。
僕は人知れず、呟いた。毒というには、いささか心地よくある気もするが、この気持ちが、すでに心を蝕まれている何よりの証拠なのかもしれないな、と僕は呑気に考えていた。
「孤独とは、人の心をもっとも蝕む毒である」か。
やっぱり、くだらないな。と、噴き出す。
仰向けになり、天井を見上げた。
そうか。ここからだと、月を眺めることはできないのか。と、真っ暗な天井を見つめ、少し悲しい気持ちになった。
――――
いろいろな女がきた。
最初は、おかしなことを言う女だった。頭がイカれているのか、わけのわからない思想を喋りまくり、一人、ほくそ笑んでいた。器であるとか、魂であるとか、そんな話を延々と僕にしてきた。
王宮の関係者であるようだが誰なのかは知らない。牢の暗闇からでもわかるくらい、綺麗な瞳をした女だった。
次に、もっとおかしなことを言う女がきた。ただ、これは二人組だった。片方は人間らしいが、もう一人は様子というか、纏っている空気感が人間とは違っていた。まるでドロシーのような、そんな雰囲気があった。掴みどころのない態度、あれは、おそらく魔女だろう。
だが、名前は聞かなかった。妖精のような可愛らしい容姿をした少女だったとは覚えている。
もう一人の人間の方は、白衣を着ていた。背が高く、そこそこに整った顔立ちではあったけれど、眠たげに目を擦り、面倒だなと何度も呟いていた。何かの研究者だろうか。やはり、名前は聞かなかった。
そして今、目の前にいる女は騎士だった。
穢れのない純白な鎧、赤い色の髪が特徴的な、同じくらいの歳の少女だった。
その目に宿る正義だってそうだ。これまで、この牢の前に現れたどの女たちよりも、誰よりも、信頼できる相手だと本能的に感じられるものがあった。
「あんた、名前は……?」
声になっているのかもわからない声で、訊ねる。なぜだろうか。これまでは、そう思わなかったけれど、この少女とだけは、話をしてみたくなった。
「アイナよ」
「アイナ……」
聞き覚えのある名前だ。会うのは初めてのはずだけれど、誰だったっけ。
「ああ、レオの妹か……」
言ってみるが反応はない。発声がうまくいかなかったのかもしれない。自分の体が弱り果てているのは、よくわかっていた。
レオとドロシーの顔が、頭に浮かんできた。彼らは、無事に逃げ切ることができただろうか。
「ここから出してくれ……」
駄目もとで、頼み込む。やはり、反応はない。
いや、ここから出たところで、何もできはしないだろう。僕の命は、すでに尽きかけているのだから。
――僕の物語は、もう、お終いなんだ。
「世界を……あんたが、この世界を、救ってくれ……」
詳しく説明している時間も、物事を考える気力もない。ただ彼女なら、何かを感じ取ってくれるのではないかという予感はあった。レオのような正義の心を持っている彼女になら、この気持ちを託してもいい。そう思えた。
視界が、暗くなる。
僕は、よく頑張ったんじゃないだろうか。
意識が朦朧とし、感覚の何もかもが薄れてゆく中で、ふと、そんなことを考えた。
何の力もない少年が世界のために、精一杯、やり切ったんじゃないだろうか。
もう疲れた。だから、休もう。後のことは誰かに任せて、僕は眠りにつかせてもらおう。それくらい許されるだろう。きっと。
目を開けると、そこには真っ白な光で包まれた平穏な世界が広がっている。そんな夢を見た。
希望の注がれた幻想ではあったけれど、それでも居心地はよかった。ああ、こんなところに、僕の求めていた世界は存在していたんだ。そう思えるくらいには。
光の向こうに、人影が見えた。その人影が、僕の存在に気づき、振り返る。
優しく微笑む、母の姿が映った。
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