ユーリ 12
「それじゃ、ボクたち『新しい世界』に行くね」
ドロシーは、足元に展開した巨大な魔法陣を指した。
魔法陣はドロシー、ユーリ、そしてレオの体をすっぽりと囲うように大きく広がっていた。魔法陣から白い光が溢れ出す。これがドロシーの力が発動する合図だった。
曰く、ドロシーの力とは空間を飛び越える、もとい、世界を飛び越えることのできる力である。
光が柔らかく体を包み、視界を塗りつぶした次の瞬間には、こことは違うどこか別の地にいる。そんなおとぎ話のような出来事が実際に起こるのだから、おかしい。夢みたいだ。魔女というのは、常軌を逸している存在なのだなと改めて思う。
ドロシーの前に立つユートピアが、三人を見送るかのように、実際にそんな穏やかな心境ではないのだろうが、ゆっくりと口を開いた。
「わざわざ報告しなくてもいい。早く行け」
「キミも一緒に来る?」
ドロシーが、すっと手を出した。お嬢様、お手をどうぞ、と優雅にエスコートしようと構えるキザな紳士ふうの態度を装っていた。
冗談だろ。ユーリはぞっとし、顔を上げる。横目で、ドロシーを見た。
「断る。私はまだ役目が残っていると言っただろう。それを果たす。この世界を破壊する」
ユーリは、ほっとし、それでもやはり、むかっとした。自分たちの暮らしていた街を、生まれ育った世界を破壊すると宣告され、愉快なはずがない。
ユートピアが、天高く手を掲げた。頭上に光が集まり始めた。呑み込むもの、そのすべてを無に帰す破壊の光だ。
「当然、知っているだろうけど、そうしちゃうと、キミも世界の崩壊に巻き込まれて死ぬことになるんだよ。それでもいいの?」
ドロシーが言う。それまでとは違い、感情のこもっていない声だった。
「私が死ぬことは関係ない。世界を破壊する。それが、私がクラウンによって生み出された意味だ。死に方など、どうでもいいのだ」
「すでに覚悟してたわけだ」
「そんな感覚は、普通、魔女にはない」
ドロシーが「そっか」と呟き、くるりと振り返った。ユーリとレオ二人を交互に見て、笑う。
「じゃ、行こっか」
白い光が体の周りに集まり始めた。もう、出発の時だ。
ユーリは無言でユートピアを見ていた。まだ本当の意味での決着はついていないというのに。胸の中にあるもやもやとした気分が晴れないまま、それでも、新しい世界に向けての心構えも必要だから、やるせなかった。
過去のことは振り返らない。未来のことは考えない。今だけを見て生きると誓った。はずだった。けれど、希望があるかもしれないと、それは僅かなものだが、歩いている道の先に光が差し込むと、前を向かざるを得なかった。やる気だって湧いてきた。未来を掴むために、今を見ることを諦めようとさえした。
人間は自分の欲望にはとことん忠実だ。昔、好きだったおとぎ話にもそんな描写が何度もされていたことを思い出した。なるほど、この気持ちか。どんなに固く決意しても、甘い囁きで進むべき方向を変えてしまう。欲望を満たすことができるとなると簡単に自分の心さえ裏切ってしまう。
それが人間なのだ。クラウンの力は、そんな人間の危うさを皆に認識させるための、警鐘にも近い役割があったのかもしれない。
ユーリは、ぼんやりとそんなことを思った。
視線の先にいるユートピアは、世界の平和を願い天を仰ぐ女神のような、奇しくも美しいと思える佇まいであった。
胸元は赤黒く汚れている。ふと、首が締め付けられるような息苦しさを感じた。自分の犯した過ちに気づき、とんでもないことをしでかしてしまったと、後悔の念に苛まれる罪人のような気分になった。
ああ、なんて憎たらしいんだ。ため息が出そうになる。せめて、おとぎ話に出てくる大魔王のような、誰もが一目で邪悪だと感じる外見をしているのであれば、こんな複雑な気持ちを抱くこともなかっただろうに。
風が緩やかに吹き肌に触れた。腕はまだ、ぴりぴりと痛む。それでも日差しは温かく、心地よかった。
アークの街は、とても静かだった。この世界には、もう生きている人間はいないのだと実感すると、心が、きゅうと縮まるような静けさだった。寂しさとも似ていたのかもしれない。
どうしてこんなにも切ない気持ちになっているのだろうか。ユーリ自身、この感情の正体がわからなかった。わからなかったが、ただ切なかった。この世界を手放すことを悲しく思っているのだろうか。
目の前が真っ白になる。空を見上げるユートピアの姿が、アークの街並みが少しずつ薄れていった。
ここに戻ってくることは、もうないのかもしれないな。光に包まれる中で、ユーリはそう思った。
――――
「いくつか、確認しておきたいことがある」
ドロシーは、ぴっと指を立てた。
「まず、ボクたちの目的であるクラウンを持っているのは、『この世界』にいるレグルスという男だ。彼はもともと、キミたちと同じ『あっちの世界』の人間で、この世界の誕生――まあ、本当はレグルス王国の復興だったんだけどね、それを願った人物だ」
ユーリの眉がぴくっと動く。腹の奥底で、何かが渦巻く感覚があったが、今はとりあえず無視した。
「どこにいるんだ?」
レオが訊ねる。相変わらず落ち着き払った態度を崩してはいなかったが、声の響きに、彼の怒りの感情が滲んでいると思えなくもなかった。
「あそこだよ。ほら、ここからでも見えるでしょ?確か王都の中ならどこからでも見えるんだっけ」
ドロシーの差した指の先を見やる。天高く、真っ白い雲を貫かんとばかりに延びる立派な建造物が見えた。
王城だ。王都レグルスの象徴とも言える巨大な城が――かつての世界では暗雲の中に消え、倒壊したのか、それともまだその勇ましい佇まいを保っていたのかはわからないが、今、ユーリたちの視界の中に確かにあった。
昔、母とともに見上げた王都の空が思い浮かんだ。あの城は、王都のどこからでも見ることができると教えてくれた、母の声が蘇る。やはり、切ない気分になった。
ユーリたちは、王都の通りに立っていた。城の見え方からして、北区の辺りだろうか。道ゆく人々を目で追う。そこらで楽しそうに話している声が聞こえると、思わず頬が緩みそうになる。こんなにも賑やかな街の様子は久しぶりに見る気がした。
街は、よく知っている王都と何ら変わらなかった。流れる空気や聞こえる音、目に映る景色そのすべてが、数日前に失った大切なものたちと同じだった。それを懐かしいと思う反面、怖くもあった。ここは、あくまでもクラウンによって創造された新しい世界であり、自分たちの暮らしていた王都とは違う。はずだ。
それなのに、居心地のよさを感じ始めている。帰ってくることができたんだという安心感を覚えている。本当に取り戻したい場所はここじゃない。王都であって王都ではない。そう思うと、周りにあるものすべてが偽物のように見えてきて、その中にいる自分は何者なのだと自問してしまいそうになるほど、複雑な心境だった。
「彼は、この世界で、すでに王様の位にいるんだ」
「なら、正面から堂々と会いに行くことは難しいだろうな」
レオが険しい顔つきで言った。
「そんな時のためのボクだよ」ドロシーは鼻を高くし、自分を指した。「ボクの力なら一瞬でどこにでも行けるからね。わざわざレグルスに会わなくたって、クラウンのある場所まで飛んで、それを奪い取り、で、帰ってくるだけでいい。簡単だ。たったの三つ手順を踏むだけだもん。飛ぶ、奪う、帰る、だよ」
そのうち二つは、簡単にできるものではないだろうと思ったが、言わなかった。いや、よく考えればクラウンを奪うことも難しいのではないだろうか。レグルスがどのようにクラウンを保管しているのかは知らないけれど、慎重になるべきだと思った。
「クラウンのある場所はわかるのか?」
「ある程度、ね。それに違ったとしても、またすぐに飛べばいいだけさ。騎士たちが駆けつけてこようと、大した事態にはならないよ。ただ、ね。ちょっと問題があって」
ドロシーは、ばつが悪そうに、頬をぽりぽりと掻いた。
「問題?」
「ボクの力だよ。実は、ボクの力には制限があるみたいなんだ。ただ空間を飛び越えるだけなら特に問題はないんだけどね、『世界』を飛び越えるとなると、それなりに疲労も溜まるみたいでさ。今日だけで、偵察のための行きと帰り、そしてキミたちを連れてと、すでに三度も世界を飛んでいる。そろそろ限界なのかも。なんだか眠気がしてきて……」
ふらり、とドロシーが前屈みになった。かと思うと、そのまま地面に向かって倒れ出したから、驚いた。
レオが慌てて手を添える。意識を失ったわけではないようで、ドロシーは、ごめんね、と言った。
「少し休めば、すぐに回復すると思う。だから、ほんと、少しの間だけ、ね……待ってもらえると助かるよ」
醜態を晒すことを恥じる、というほどではなかったが、やはりどこか恥ずかしそうにドロシーは言った。なんだ、少しは人間らしいところもあるじゃないかと、ユーリは微笑ましく思った。
「魔女も疲れとか感じるんだな。意外だ」
「その意外性こそが、魔女の魅力だよ」
ドロシーは眠たそうに目を擦りながら、強気に言った。
それから、「僕たちもまだ疲れが回復しきっていないし、少し休もうか」「王都の中なら、宿屋もすぐに見つかるはずだ」「実行はドロシーが回復して、十分に作戦を練ってからでも、遅くはないだろう」と、レオと相談し、ひとまず休息を取ることに決めた。
その時に、慌ただしく迫ってくる足音が聞こえた。こちらに向かっているらしい。そして数が多い。
咄嗟に、傍の建物の陰に身を隠した。見ると、騎士のような恰好をした集団が――というより、あれはレグルス騎士団だろう――何やら警戒するように周囲を見回していた。
「何をしているんだ?」
「さあな。だが、なるべく面倒は避けた方がいいだろう。彼らに顔を知られても厄介だ。早めにここを離れよう」
レオが言い、ユーリは頷く。路地裏から通りを抜け、宿屋のある方へと向かおうとした。
ちら、と目を向けた騎士たちの中に、見覚えのある姿を見つけ、ユーリは足を止めた。これは、いったいどういうことなんだ?あの男は、まさか。
「報せがあった場所はこの辺りだ。どこかに黒い髪の少年がいるはずだ。早急に見つけ出すぞ」
男が鋭く言うと、騎士たちは威勢よく返事をし、散り散りになって走り出した。
しん、と辺りが静かになった。いつの間にか通りには人影がなくなっていた。騎士団がやってきたことに恐れて抱いてしまったのだろうか。かつての世界でも、街の人々は騎士団に対してあまりいい印象は持っていなかった記憶がある。この世界でも、それは同じようだ。
通りに一人残った彼は、ユーリのよく知った顔をしていた。
キレのある目、整った顔立ち、程よく引き締まった体つき――すべて、見知った姿だ。
似ている、という次元ではない。本人そのものと言ってもいい。ただ、その似ているもとの彼がここにいるのだから、やはりあの男が別人であるのは間違いないのだろうが、まったく見分けがつかないほど、彼らはよく似ていた。
「ああ、そうだ。キミたちにもう一つ伝えておくことがあった」
レオにもたれかかる体勢で、ゆっくりとドロシーが、言う。苦しそう、というほどではないが、疲れはあるのだろう。気怠そうな声だった。
「クラウンが創造した『この世界』は、『あっちの世界』とほとんど同じにできている。それは空や大地、街はもちろん、人物も、なんだ。だから、あっちの世界にいた人間も、みんなここにいるんだよ。でもね、キミたちは例外らしい。この世界にはキミたちと同じ人間はいないみたいだ。つまり――」
ドロシーが顔を上げ、通りにいる、彼を指した。
「彼が、この世界でのレオ——レグルス騎士団団長、『レオニール・エレクストレア』だ」
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