夜は長い。長く、長く、とても長く。

ユウト 11

 戦況が変わる気配は、まったくと言っていいほどなかった。

 ジークが大剣を振る。それをクロムが捌く。時には受け止めきれず、突き飛ばされていたが、すぐに反撃に出る。今度はクロムが果敢にも立ち向かっていく。それをジークが難なく躱す。その繰り返しだった。

 クロムの攻撃は、ジークには届かなかった。右から左から、上から下からと空中に浮かべた十字をなぞるようにして剣を振るっているが、ジークはすべて躱してみせた。

 それは、長い棒状の物を剣に見立てて振り回す子供と一緒に遊ぶ父親の姿にも見えた。仮にも命がけで戦っている両者ではあるのだが、そんな微笑ましい場面が浮かぶほどに、二人の力の差ははっきりと見て取れた。

 そして、もう一つはっきりしていたのは、ジークが圧倒的に強いということだった。一介の騎士とはとても思えない。目を見張るほどの卓越した力を持っていた。

 王都の騎士とは、皆が皆、彼ほどの腕をしているのだろうか。それだけの実力のある者たちばかりが集っているのだろうか、と疑いたくなる。

 大勢いた機械たちをたった一人ですべて倒し、決して弱いとは言えない、少なくともユウトからしてみれば、立ち向かったのなら簡単に殺されてもおかしくない機械生命体の少女――クロムを相手に、ジークは余裕のある戦い方をしていた。

 その剣撃を躱すだけで、それ以上、踏み込もうとはしない。ジークの方から攻め込む際にも、クロムが体の前に構えた剣を弾くだけで、追い打ちはかけなかった。他の機械生命体たち同様、あっという間に倒してしまわないのは、彼女に対して何か思うことがあるからだろうか。ジークにはその節があるようだった。

 先ほど聞いたクロムの言葉が関係しているのだろう。頭の中に、それが浮かぶ。

 人間に寄せて作られた心。研究の試作段階として生み出された存在。なんて惨い響きを持つ言葉だ、と思った。

 時計塔の前に立ち塞がり、ジークたちを妨害するこの機械生命体の少女のことを――人間の心を持つ機械として、プロトタイプとして生み出されたクロムのことを、ユウトはどこか責め切れない気持ちでいた。

 それはジークも同じなのだろう。彼は、ユウトに王様殺しの疑いがあると知っていた上で、一人の人間として接してくれていた。彼女のことを気遣う優しさも、きっと彼の中にはあるのだ。それが彼の戦い方に現れていた。

 しばらくして、クロムの動きが止まった。

 ジークを前に、剣を手にした腕を下ろし、まるで機械としての活動が停止してしまったかのように、じっと佇んだ。

 それは戦闘を続行する意志を放棄した行為にも見えた。実際、そうなのだろう。剣を下ろし、背筋を伸ばすと、ジークとユウトを交互に見た。ユウトの後ろにはファフニールの姿もあるはずなのだが、彼女は視界にすら入れていない様子だった。とにかく二人の顔を、その頭の中を覗き込まんとせんばかりに、注意深く見つめていた。

 ジークも、そっと構えの姿勢を解く。

 沈黙の空気が流れた。

 ジークは呼吸を整えるように、ふうっと、一つ息を吐いてみせたが、クロムは、口を真一文字に結んでいる。

 どちらが先に声を発するのか。ユウトは息を呑んだ。

「本当は、わかっている」

 クロムが、口を開いた。小さく可愛らしい口元が、言葉に合わせて細かに動く様は、人間の発声する行為のそれと、完全に一致していた。

「私の力では、お前には決して敵わないということ。そして、お前は私を傷つけまいと、手加減しているということを」

 クロムは細い指を突き出し、その先を、ジークに向けた。

「傷ついたかい?」

「私はグラファイトほど単純じゃない。お前のその行動を、私に対する侮辱だとは思っていない」

 クロムの人間らしからぬ、それこそ、機械生命体としての冷たさのある鋭い目が、ぎらりと光った。

「だが、どうしてもわからないことがある。何の意味があるんだ、その行為に。そうすることで、私が諦め、お前の思惑に気づき、攻撃の手を休めると思ったのか?」

「現にそうしている」

「ただ、知りたくなったからだ。お前と話をし、確かめたくなったから止めたのだ」

 淡々とした口調で、クロムは言う。焦れている風に見えなくもなかったが、表情からはまるで読み取れなかった。ただ、機械だからこそ人間の考え方、思考のプロセスには疎いのだと、純粋な気持ちで、目の前に立つジークという男のことを、知りたがっているだけのようでもあった。

「どうなんだ。仮に、私が気がつかなかったとしたら、どうするつもりだったんだ?」

「どうしようか、明確な答えがあったわけじゃなかったよ」

 ジークは、はっきりと返した。

「は」

 クロムが口を開ける。短く空気が洩れた、その様は呆れ返った表情を浮かべる人間に似ていた。いや、彼女は明らかに茫然とし、まっすぐに整った眉を曲げた。

「僕はけっこう不器用なんだ。人の気持ちを考慮して上手なことを言えるわけじゃないし、相手を怒らせてしまった時も、どうして気分を損ねてしまったのか、あるいは、その様子にすら気づかないことだってある」

 真剣な面持ちで、それでも、どこか好感が持てる柔らかさを滲ませ、ジークは言う。

「だから、君の気持ちに気づいてはいたけど、どうするかはまだ考えている途中だった。悩んでいたんだ。僕がどうしてあげれば君は満足がいくのかな。どうすれば君を救うことができるのかなって」

「救うだと?」

「君の心をだよ」

 ジークは、クロムの胸元を指した。

「悲しんでいるじゃないか。仲間を失ったのとは違う。もっと別の何かに、君は苦しんでいる。胸を締め付けられるような痛みがあるだろう。アルフレッドは君に、その痛みを取り除く方法を教えなかったはずだ。それは、人間にも難しい行為だから、ね。でも、その痛みから君を解き放ってあげたいんだ、僕は」

 聞いた途端、悪意のない清らかな風が、ユウトの首元を吹き抜けていった。感じがした。その風は心地よい涼しさがあり、それでいて、寒い日には緩やかに包み込んでくれる安心感をも伴っていた。

 荒廃した街を思わせるアークの地に、本当にそんな風が吹いてきたのかはさておき、ジークの声には、この世の罪悪すべてを浄化するかのような清廉ささえあった。

 ユウトは、ジークの後ろ姿をじっと見つめていた。これほどまでに高潔な、堂々とした態度で正しいと言うことのできる生き様をしていて、そして、大いなる愛とも呼べる優しさをふんだんに持っている人間を、ユウトは見たことがなかった。

 ただの親切心とは違う彼の器量や寛大さ。その心には、どんな強大な力を前にしても、それはたとえば悪意であったとしても、しっかりと受け止めることができる頑丈さがあった。

 感嘆の息を無意識に洩らしていたのかもしれない。それとも思ったことを読み取られたのか、頭上から、ファフニールの声がした。

「そういう男だ、ジークというやつは」

 クロムが、すっと体を横にずらした。

 時計塔へと侵入するための扉が、見える。どうぞお通りください、とそんなに気前のいい様子ではなかったが、もうお前たちの邪魔をするつもりはない、とでも言いたげに、クロムは剣を捨てていた。ジークの言葉だけで簡単に心変わりしたとも思えなかったが、彼女の相変わらず冷たい視線には、とっくに敵意は宿っていなかった。

「いいのか?」

 何が。どうすることが。などと余計な言葉はなく、ただそれだけをジークは訊ねた。

「ジーク、お前をアルフレッドと会わせてみたくなった。お前と会い、言葉を交わすことで、彼の考えに何か変化が現れるんじゃないかと、そう思った」

「君はそれを望んでいるのかい?」

「正直に告白するならば、そうだ」

 クロムの瞳が、潤んで見えた。機械である彼女が涙を流すはずはないのだから見間違えなのだろうが、そう受け取れるほど雫のような輝きが、つまり強い感情が溢れているようだった。

「私は、アルフレッドに改心してほしいと思っている。私は被造物であり、その関係上、創造主であるアルフレッドに逆らうことは許されないのだろうが、人間に近い心があるが故か、彼の非道な行いに嫌気がさしていた。命令に従い、かつてこの街で暮らしていた人々をスラムと呼ばれる廃れた土地へと追いやった。逆らう者は当然いた。そんな者たちに対して、私たちは容赦なく剣を振るった。中には年端もいかない子どももいた。それでもだ。同志たちがどう思っていたのかはわからない。ただ私は、日に日に大きくなる、このもどかしい何かがたまらなく嫌だったのだ」

 クロムが胸に手を当てる。とても苦しそうだった。言葉にできない、助けのない、味方のいない恐怖に怯える少女の姿が、ユウトの目に映った。

 こんな時、何かそれらしいことを言ってやるべきなのだろうか。ユウトは悩んだ。悩んだ末に押し黙った。

 クロムからの視線が刺さった。どこか物悲しい色をしているように思えた。悶々として、目を逸らした。




 ――――




 時計塔の中には闇が広がっていた。明かりと呼べる光はなく、開けた入り口の扉からかろうじて差し込んだ朝日が唯一の光だった。屋内ではあるが、感じ取れる気温は外と大差なく、冷え冷えとした空気が足元を漂っていた。

 入ってすぐ右に階段があった。見上げると首が痛くなるほど、高く、伸びていた。ジークは迷わず、足を運ぶ。ユウトも後に続いた。

「ジークさん」

 階段を駆け上がりながら、ユウトは、その大きく逞しい背中に呼びかけた。

「どうかしたのかい?」

 顔は進行する方に向けたまま、ジークが返す。

「よかったんですか?あの、クロムという少女を放っておいて」

「ユウトくんは、彼女のことが心配なのかな?」

 心地よく響く声で、ジークは言う。

「はい。彼女がアルフレッドのことをジークさんに託したのは嘘ではないんだと思います。けど、正直に言って、一人にしてよかったのかなと」

「寄り添っていてあげたいと、そう、思ったのかい?」

 ジークは、やはり嫌味のないすっきりとした口調だった。

「寄り添う、というのかはわからないですけど、でも、一人でいると心細いんじゃないかなって思ったんです。こういう時、一人でいることが何より辛いんです。一人で抱え込んで過ごすことが、孤独で生きていることが、とても切なく感じるんです」

 そこまで口にして、そういえばそれは、ここ最近の自分の心境にも当てはまることなのではないか、とユウトは思った。

 故郷のユグド村から離れ、森で迷子となり、帰り道がわからなくなってしまった。ドロシーやララティア、アイシャにマーベラス、そしてジークと、新しい出会いはたくさんあったが、それでもどこか満たされない気持ちだった。

 大切にしていたものが、ある日突然、何の前触れもなく手元から消え去ってしまったような空虚感を覚えた。

 目の前に連なる未知なるものに気分が高揚することもある。正しい行いをしているのだと信じて、一心不乱に広大な夜の森を駆けることもある。だけど、心の奥底では、やはり寂しかったのだ。ガルラやコラン、村の大人たちに叱られながらも抱きしめてほしい。エミルと会って、涙を隠しながらもごめんなさいと謝りたい。そんな思いを、自分自身でさえ気がつかないように抑え込んでいた。そしてそれが、心に深い穴を掘っていた。

「一人だと、か。そうだね」

 ジークがしんみりと言う。ちらりと見えた横顔に、まるで昔のことを懐かしんでいるのか、もしくは悔やんでいるのか、はたまた、どちらもなのかわからない表情が浮かんでいた。

 ジークは初めて会った時から、その爽やかな笑みや隠しごとのないはっきりとした態度に、好青年のような雰囲気があった。家族でたとえるのなら兄のポジションであろう。どんな悩みや苦痛も、共に感じ、一緒に過ごしてくれる頼りがいのある優しいお兄ちゃんといったイメージを、ユウトはずっと抱いていた。

 しかし、今の彼の横顔には、それだと違和感を覚えるような一面が表れたかに思えた。

 ただ彼が若く見えていただけだろう、と思い直す。凄まじいの一言に尽きる戦闘の様子や、人間の代表だぞ、と機械生命体たちに紹介してもやりすぎではないと言えるくらい、できた人格をしているところを考えると、自分の何倍も生きていて、人生経験は豊富であると見て間違いない、とユウトは思った。

「やっぱり君は、美しい心を持っているね」

「そうですか」

 ありがとうございます、とユウトは照れながら返す。

「きっと、いい親になると思う。君がそうなる未来が今から楽しみだよ」

 暗く、どんよりとした影の中にも、一か所だけ光がさしているようだった。彼の笑顔は朝日にも負けないくらい、眩しかった。

 ジークさんなら、きっとやってくれる。アルフレッドの野望を食い止め、クロムを苦しみから解放し、世界を救ってくれる。そんな期待が、段を一つ踏むごとに、ユウトの中でどんどん大きく膨れ上がった。

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