ユーリ 10

 一瞬の油断が命取りになるぞと、ユーリは自分に言い聞かせた。

 力の差は歴然だった。相手は世界を破壊するほどの強大な能力を持つ魔女だ。かくいうこちらは、ただの人間だ。魔女であるドロシーとの契約で、空間を飛び越えるという超人的な力を手にしてはいるものの、それでも五分五分と言えるのならいい方だった。攻撃の隙を作るのが精一杯で、あと一歩が届かない。歯がゆい気分だ。

 ユートピアは常に冷静だった。何もない場所からユーリかレオの姿が現れたのが見えると、すぐに反応してみせ、そちらに手を向ける。手の先に光が集まる。光に呑まれるものはすべて破壊される。だから、躱す必要があった。

 自分だけでなく、レオの方にも注意を向けなければ。全神経をとがらせる。ただの一瞬だって、気を抜くことはできなかった。

 同じような展開が、続いた。

 ドロシーの力を使い、ユートピアの死角に一瞬で移動する。剣を構え、ユートピアを狙う。しかし、すぐに対応される。手を構え、破壊の光を放ってくる。再び、ドロシーの力により撤退する。その繰り返しだった。

 こちらが攻めているはずだった。が、一度でも失敗すると即死だ、という緊張感があった。ユートピアからは死への恐怖が感じられず、もともとそんな感情はないのだろうが、だからなのか殺せるイメージというものがまるで浮かばなかった。

 殺意は胸の中に満ちていた。それでも、絶対に敵わないものを相手にしている気持ちで、分厚い壁を素手で壊そうとしているかのような無謀さまで感じ始めていた。

 だからといって、諦めるわけがないだろう。心の中で叫ぶ。

 必ず勝機がくるはずだ。むしろ今は手を休めず、反撃の機会を与えない方がいい。攻め続けるのだ。今はとにかく攻撃あるのみだ。翻弄しろ。動き回れ。唱えていれば叶うのではという淡い期待を抱き、念じ続けた。

 戦況に変化があったのは、腕の痺れを痛みとして明確に感じ始めた時だった。

 最初のうちは平気だった。だが、ドロシーの力を使い続けるうちに、ユーリの中で、命の塊とも言えようか、大切な石のようなものが削られていく感覚があった。

 左腕に痛みを覚え、うぐっと苦しみを滲ませた声が洩れる。膝から力が抜け、足が止まる。ぐらりと視界が揺れた。

 気づくと、目の前にはユートピアの姿があった。

 ユーリは地面に手をつき、屈しているかのような姿勢になっていた。なんて無様なんだ、と吐き捨てたい思いだった。

 ユートピアは、ユーリを見下している位置関係にあったが、そういった情は抱いていない様子だった。ただ静かに、野花を優しく摘み取る少女のような和やかな雰囲気さえ漂わせながら、すっと手を伸ばした。

 ユートピアの手に光が集まる。動け。苛立ちを感じながらも強く念じる。が、体は重たく、言うことを聞かない。自分の意志が通じないのだから、自分ではないどこかの誰かを遠くから眺めているような、そんな気分になった。

 ほら。今、逃げなければ死んでしまうぞ。片膝をついて、じっとしている場合じゃないだろう、お前は。何をしているんだよ、まったく。

 煽る声を振り払う。

 剣を振れば届く位置に、ユートピアがいるのだ。腕だけなら動かせるはずだ。

 ならば、せめて刺し違えて死んでやると、半ば自棄を起こすようにユーリは剣を握り直していた。この土壇場にきて、冷静さを失っている。そのことに気づいてさえいなかった。

 ユートピアが手を引き、体を起こした。上半身をのけ反らせているようにも見える。視線はどこを向いているのだろうか。上空を泳いでいるようだった。

 なぜこんな時にのんびりと空を眺めているのだろうか。いったい何のつもりだ。殺す価値がないとでも言うつもりなのか。あれこれと勘繰ってみたが、違ったらしい。

 ふと、ユーリの眼前を横切るようにして、鋭く何かが通過していった。

 目では追えない速さだったが、視線をやると、剣であることがわかった。黒い輝きを纏っている。

 どうして剣が飛んでくるのだろうか。疑問に思った。が、すぐに察しがついた。

 レオだ。ユーリの身の危険を察知したレオが、遠くから剣を投げ込んだのだ。

 するとユートピアが体を起こしたのは、何もこの晴れ渡った清々しい青空をぼんやりと眺めるためではなくて、レオからの投擲を回避するためだったのだ。と、気づく。

 レオに命を救われたのは、これで二度目ということになる。面目ない、申し訳ないという気持ちと共に、この瞬間を絶対に無駄にはしないぞという闘志が湧いてきた。

 チャンスだ、とユーリは思った。これはレオがくれたチャンスなのだ。今、自分が生きていることも、ドロシーと会い、力を得ることができたことも、ここまでユートピアに接近することができたことも、すべて、レオのおかげだ。レオが導いてくれたおかげなのだ。

 そして、ここまで導いてくれたレオは、この期に及んでも、ユーリに力を分け与えていた。それは、ユートピアを必ず倒すのだという決意めいた精神的な強さをもたらしたということと同時に、文字通り、彼の力を宿した剣をこちら側にまで寄越してくれたことでもあった。

 ユートピアに掠ることなく、あらぬ方向へと飛んで行った剣の行く末を追う。

 よし、まだ大丈夫だ。左腕に意識をやる。

 頭上に禍々しい気配を感じた。ユートピアだ。顔を上げて確認せずとも、手を構え、力を放とうとしているのだとわかる。

 あと一手でいい。ユートピアの気を惹くことができれば、それでいい。油断させるのだ。そのためには。

 両足に力を籠める。頼む、この瞬間だけでいい。あとはどうなってもいいから、今だけは動いてくれ、と空の上の神様的な存在に向けて懇願する。

 ユーリは左手で剣を握り、振り上げた。と同時に、ドロシーの力を使う。

 ユートピアの背後の空間が割れ、魔法陣が渦巻く。中から黒い影が現れ出るのが見えた。ユートピアは、やはり反応してみせる。振り返りながら、ユーリに向けたのとは反対の手を伸ばす。

 予想通りの動きだった。

 うまくいった、とほくそ笑む。命を懸けた戦いの中で、ふっと笑みがこぼれたことに驚いたが、だから何だというのだ。いちいち反応している場合でもないだろうと思い直す。

 ここまでの積み重ねが、功を奏したようだ。ユートピアからしてみれば、空間の歪みが見えたのならば、そこからユーリかレオが姿を見せる。そう認識しているはずだ。だから油断すると思っていた。そして、まんまとその通りになってくれた。

 魔法陣の中心から、剣が飛び出してきた。黒い雷の力を纏っているレオの剣だ。ドロシーの力で、剣の飛んで行った先の空間とユートピアの背後にある空間とを繋げた。その結果がこれだ。

 剣が空間の歪みから目にも止まらぬスピードで発射され、ユートピアの左胸を、背中方面から豪快に貫いた。

 ユートピアは目を白黒させていた。予想外の出来事に、さすがの魔女と言えど、困惑しているらしい。千鳥足になりながら、こちらに向かってくる。

 その途端、ユーリの体がふわっと浮き上がる。不可解な浮遊感だったが、足にあった重みが消えていた。腕も軽い。体が自由に動くぞ、と叫びたくなるような解放感があった。

 どうして急に、と思わずにはいられなかったが、おそらく先の祈りが神様とやらにでも届いたのだろう。あるいは最後の力を振り絞り、無理やりにでも体を動かせたのかもしれない。とにかく、希望の光が差し込んできたように思えた。低空飛行していた鳥が、不意に吹いた強風に体を持ち上げられ、感激するのと似た感覚だった。

 地面を蹴り、勢いをつけて前進する。

 本当に今だけでいい。もう体が動かなくなってしまってもいいから、この瞬間だけは。

 剣を振り下ろす。右肩から右腰にかけて、まっすぐに線を描くように、斬りつけた。

 傷口から血が噴き出し、ユーリの体の左側を汚した。怯まず、進む。

 ユートピアはレオの剣が刺さった側を下にして、背中から仰向けになって地面に倒れ込んだ。

 ユーリはすかさず距離を詰め、ユートピアの上に馬乗りになる。

 悔恨と憎悪の色に染まった心を、怒りの波で洗い流すかのように勢いよく。ユートピアの首元に、深々と剣を突き立てた。

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