ユーリ 9

 ユーリは、自分の中に湧き上がってきた殺意を、ぐっと抑えた。

 感情のままに行動しては駄目だ。落ち着いて、冷静に、周りをよく見るのだ。そうでなければ、やつを倒すことはできない。

 目の前に姿を現したユートピアを睨みながら、ユーリはそんなことを考えた。

 すっかり日が昇ったアークの街は、夜とは打って変わって、生命力に満ち溢れていた。

 自分の生きる意味に向き合ったことで、目に映る世界が明るく晴れたのだろうか。薄汚れた無機質な建物にさえ、微かに生命の息吹を感じた。美しく澄み渡った空を見上げて、思う。この世界を奪わせるわけにはいかない。ユートピアを倒す。それだけだ。今はそれだけを生き甲斐にするのだ。

「貴様、スピカの森にいたな」

 ユートピアの高圧的な声が、青空の下に響いた。

 辺りが、しん、と静まり返ったような感覚があった。元より、アークには人影がない。というより、ドロシー曰く、この世界には、すでに自分たち以外の人間は存在していないのだ。

 だが、頬を撫でる冷たい風が、大地を照らす眩い日の光が、そこに確かな命の存在感を与えていた。街中を忙しなく行き交う人々の姿が、楽しそうに笑い合う顔が、幻覚として現れてきてもおかしくはないと、そう思わせるほどだった。

 ユートピアの声が、そんな影を振り払う。この街には、何も残されていない。そして、この世界も滅びゆく運命なのだと、彼女の生白い眼が、語っていた。

「ドロシーはどこだ。共にいただろう」

「ここにはいない」

 他にやるべきことがある。だから姿を見せないのだとは、さすがに言えなかった。こちらから、わざわざ手の内を明かすことはない。

「そうか」

 どこに隠れている?何を企んでいる?

 そんな声が聞こえてくるかと思っていたが、意外にも、ユートピアは素直に受け入れた。

「お前のことを、ドロシーから少し聞いた。クラウンが創った『新しい世界』。それを完全なものにするために、古い『この世界』を破壊しようとしているんだってな」

 声を張り上げる。憤怒の念を噛み潰してみせたが、顔が強張ってしまっているのが、わかった。

 怒りに呑まれるな。言い聞かせ、ふうっと軽く息を吐く。目や口元を意識し、筋肉を緩める。大丈夫、いつも通りの顔つきだ。今度は、手が震えていることに気がつく。緊張の類なのだろうか。手のひらには汗が滲んでいる。ぐっと握りしめて、震えを止める。

「この世界を破壊させるわけにはいかない。ここでお前の野望を食い止めて——」

 突如、ユートピアが両手を空に向けて掲げた。

 何をするつもりだ、と思ったのも束の間、禍々しい光が、その手の先に集まり始めた。光は球体の塊となって、蓄えるほど、膨れ上がっていった。

 空気が震えていた。地響きがした。気圧されるほどの強い力が、ユーリを襲った。風が吹き荒ぶ場所に放り込まれたかのようだった。思わず顔を背け、数歩、後ずさる。右腕で視界を遮りようにして顔を覆った。正面に見えるユートピアに向かって、少しずつ前進した。

「何してる。こっちを見ろ。僕の話を聞け!」

「その必要はない。私はこの街を破壊する、それだけだ」

 呆れも、哀れみも、悦びすらも感じさせない態度で、平然と言った。

 ドロシーのために、少しでも時間稼ぎができるかと踏んでいたが、無駄だったようだ。やつには躊躇いがない。躊躇うこと自体を感じ取る心がない。

 目的はただ一つ。世界の破壊だ。そのために、このアーク・トゥルス・シティを焼き払う。それだけだ。王都レグルスやスピカの森でしたのと同じように。一瞬にして、奪うつもりだ。

「僕の声に耳を傾けないなんて、随分と余裕じゃないか。お前の力を目の当たりにして、二度も逃げ延びた唯一の人間なんだぞ」

 反応はない。顔色一つ変えず、頭上で大きくなる魔力の塊に集中していた。

「お前、余裕なんだろ。僕が人間だから。こうして対峙している僕を警戒しないのは、僕に力がないから。そう思っているからだろ」

 ちらりと、ユートピアは一度たりとも、こちらを気にかけない。声が届いているのか、うまく発声できているのかさえ、不安になった。

 もはや肉体はこの世界から消滅してしまい、残留した意識だけで呼び掛けているのではあるまいかと、本気で思ったほどだ。

「なあ、一つ訊いてもいいか?いいや、そうやってだんまりを決め込むなら、それでもいい。生き残った人間の独り言を、静かに聞いていてくれ」

 ユーリは一度、息を吐いた。体の中にある空気を、一度にすべて放出するかのように、勢いよく吐く。それから、思い切り吸い込んだ。ユートピアを睨む。頭には母との思い出がよぎった。

「魔女ってのは、おとぎ話を読むのかな。僕は、母におとぎ話を読み聞かせてもらうのが好きだったんだ。小さい頃、体が悪かったからな。友達と外で走り回って遊ぶことができなかったんだよ。だからずっと家にいた。母は、退屈に日々を過ごしている僕のために、絵本を買ってきてくれた。僕はその本を、読んでもらった。面白くて、すぐにハマったよ。毎晩、同じものを読んでもらった。時には、自分でも読んだ。描かれている絵が擦り切れるほど。文章が暗唱できるほど。何度も何度もな」

「……何が言いたい?」

 ユートピアが訝しげに、ユーリに視線を向けた。

「僕は、そのおとぎ話が世界一好きだった。知ってるか?『クラウン・スラッシャー』って言う物語なんだけどさ。暴走したクラウンと生み出された魔女たち。それらと人間が戦う、王都では有名なおとぎ話だ」

 ユートピアは黙ったまま、続きを伺うかのような態度を見せた。

 よし、こちらに注意を向けることに成功した。あとは、タイミングだ。

「そのおとぎ話には、お前みたいな魔女も出てくるんだ。人間のことを何とも思っていないような、無神経なやつが。人間なんて簡単に組み伏せることができる。自分たち魔女には、それだけの力がある。そう過信していたんだろう。だが、そういったやつらも、人間たちは倒していったんだ。どうやったか、わかるか?」

 絵本に書かれていた文が、頭の中に響く。

「『少年が困っていると、その奔放な魔女は得意げに言いました。じゃあ、キミたちに協力してあげるよ、と。』——なあ、そういうことだよ。人間に味方した魔女がいたんだ」

 ユーリは、左手をまっすぐに突き出した。

「その腕、ドロシーの力か?」

「レオ!」

 彼の名を叫び、左腕に全神経を集中させた。

 腕の中で得体の知れない力が暴れ回る。強い痛みが走った。目が霞み、頭がぼんやりとした。しかし、すぐに振り払う。

 やつを殺すのだ。その一心で、歯を食いしばった。

 腹の中に巣食っていた殺意がものすごい勢いで這い上がってきた。ユーリの体を蝕む痛みや迷いを喰い殺す。

 もう何も怖くない。自分が人間ではない非道な何かに変わり果ててしまうのではないかという不安さえも、すでに、ユーリの中からは消えていた。

 前方に目をやる。ユートピアの姿がある。まだ完全に使いこなすことができるわけではないが、不意を突くのには充分だ。

 視界にとらえたユートピアの体を、頭の中で立体的に映し出す。上出来だ。周囲の空間、風の流れ、音の広がり、それらをある程度まで予測する。そして、シミュレーション。問題はない。あとは実行するのみだ。彼を信じるのみだ。

 腕に力を込める。視線をやった先、向かってユートピアの左後ろの空間に亀裂が入った。世界の崩壊が始まったのか、と一瞬思ったが違う。これこそが、契約をして受け取ったドロシーの力なのだと思い直す。

 ユートピアの背後に生まれたその空間の裂け目は、渦を描くように歪み、唸り、いつかドロシーが見せたものと同じ魔法陣となった。

 魔法陣の中に——というより、空間の向こう側に、レオの姿が見えた。ユートピアに狙いを定め、剣を握った腕を振り上げている。

 体には黒い雷を纏っていた。彼の感情の昂りを表すかのように、雷は大きく輝く。目には殺気があった。これまで凛とした態度を見せていたレオも、いざ復讐の相手を前にし、自分の剣の届く位置にまで接近しているとなると、その意志を隠しきれないようだ。


 レオが剣を振り下ろし、目にも止まらぬ速さで斬りつける。

 ユートピアが、ぐらりと姿勢を崩した。レオの剣が命中し、ユートピアの体を抉った。かに見えた。違う。

 ユートピアは意図的に体を逸らしていた。レオの気配を察知したのか、すんでのところで躱してみせた。思いのほか敏捷だった。自身の右後ろから迫ってきた剣先を睨みながら、まるであらかじめ、そこにレオが現れることを知っていたかのように、避ける。

 ユートピアは反撃に出た。体を立て直し、その勢いのまま右腕を振るう。背後にいるはずのレオに向けて、手のひらを構えた。

 しかし、そこにレオの姿はなかった。一撃目を避けられた瞬間に、次の行動に出ていた。とてつもない反射神経、そして判断力だ。素早く、ユートピアの死角に移っていた。黒い雷がレオの軌跡を表すかのように宙を走る。

 ユートピアの背後で、顔元に剣身がくるように高い位置で剣を構える。突く。

 ——ザシュ。

 柔らかい物が裂けるような音がした。

 見ると、レオの剣がユートピアの左腕に刺さっていた。捌き切れないと思ったからか、ユートピアが自分から腕を伸ばしたようにも見えた。

 反撃を予想して背後に回り込み、ガラ空きとなった横腹に仕掛けたが、辛うじて受け止められてしまった。

 腕から赤い血が噴き出した。それを見て、ユーリは動揺した。神にも等しい超常的な存在だとばかり認識していたが、自分たちと近しいものを感じた。魔女と言えど、生きているのだ。それを改めて理解した。

 それなら、殺すことだってできるはずだ。

 ユートピアは怯まなかった。眉一つ動かさず、右手をレオの顔の前に差し出した。

 まずい。スピカの森で見せた、あの破壊の力を使うつもりだ。そう思った。

 しかし、レオは体を背けはしない。

 その場から離れることなく、すぐさまユートピアの腕に食い込んだ剣を引き抜き、体を捻る。そして距離を取るどころか、自身に向けられたユートピアの手を前に、一歩、踏み込んだ。

 ユーリは、レオの心をすぐに悟った。

 信じている。ユーリが導いてくれるのだということを。この剣は、やつに届くのだということを、一切の疑いなく、信じているのだ。

 再び、ドロシーの力を使う。

 二回目の力の発動は、それほど苦でもなかった。熱が生まれ、痺れを経験し、すでに左腕の感覚がなくなってきているのもあるが、力の制御に慣れてきたというのが大きい。少し意識を集中させれば、わざわざ構えずとも、その場所を見るだけでいい。力が体の一部となったかのように、よく馴染んでいるのを感じた。

 しかも、今は気持ちが昂っている状態だ。そのため、繊細な力操作や体への負担を配慮する意識は無視される。流れのままに行動するしかない。考えるよりも、まずは動くことだ。

 ユートピアの前から、レオの姿が消える。彼の速さ故の芸当ではない。魔女の力による神秘だ。

 今度はユートピアの右横に、レオの体を出現させた。レオが、そのまま斬り掛かる。

 ユートピアは驚いたように目を見開き、レオの方に顔を動かした。この一瞬でも、反応してくる。なんて反応速度だ。やはり魔女というのは、人間を超越した存在なのだということを強く実感した。

 しかし、ユートピアの視界にちょうど映るであろう位置にレオを移動させたのは、わざとだった。やつの気を散らすための陽動に過ぎない。

 ユーリは右手にある剣をぐっと強く握る。

 ヘクターが使っていた剣は、彼の正義感が宿っているかのように感じた。手にしていると、力がみなぎるようだ。ふつふつと、勇気も湧いてくる。

 さあ戦うんだ。誰かの声が聞こえた。


 気づけば、目の前にはユートピアの姿があった。月光のように美しい白銀の髪が、鼻の先で揺れる。

 ほんの瞬く間に、ここまで接近されたのかと動揺したが、そうではない。逆だ。自分の方からユートピアに近づいたのだ、と理解する。

 それは、ほとんど無意識だった。体が勝手に動いていた。考えるよりも先に行動していた。ドロシーの力を使い、ユートピアの真後ろに自分の体を移動させた。後頭部が見える。ユートピアの体をレオと挟むような立ち位置だ。こちらに気づいている様子は、ない。

 右腕を首に巻き付けるようにして構える。

 殺せ。ユートピアを、殺せ。悪意に満ちた声が聞こえた。今こそ、復讐を果たすのだ。やつを殺すのだ。

 そんな声に背中を押されるように、首元を目指して、腕を振り抜こうとした。

 突然、ユートピアが体を屈めた。くるり、と体を回転させ、向きを変える。ユーリの前には右手、レオの前には左手が向けられた。

 ユートピアの手に光が集まる。スピカの森での出来事が想起された。一瞬だ。一瞬ですべて破壊されるぞ。

 向かい側にいるレオと、目が合った。すぐさま退却するのだ。

 ドロシーの力を使う。ユーリとレオの体が、魔法陣に吸い込まれるようにして、空間の狭間に消えた。

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