アイナ 9
これは、まずいことになったぞ。アイナは思った。
北区の士官学校に戻ってみると、そこは戦場と化していた。騎士のみんなが戦っている。各々が剣を手にし、人の形をした謎の存在を斬り倒している。
敵は何なのだ。目を凝らしてみる。黒っぽい何かだ、としかわからない。それと数が多い。塀の向こうから、無尽蔵に湧く水のように這い上がってくる。
嫌な記憶が蘇る。暗い森の中で獣たちに襲われる、あの悪夢の記憶だ。その時に感じたものと似た恐怖が、腹の奥底に広がった。
あれがドロシーの言っていた機械生命体の大軍だろう。機械生命体とは、人間を模してつくられた機械仕掛けの人形だと聞いたことがある。しかし実物を見るのは初めてだった。
その挙動に、人らしさは見られなかった。目の前で仲間が首を断たれようと、腹部を深く貫かれようと、動揺しない。ただひたすらに前進してくる。
王都に現れた目的はわからない。
ドロシーは、空間を飛び越えるという奇妙な魔法を使い、この士官学校へ連れてきてはくれたが、すぐにどこかへ姿を消してしまった。
彼らは城を目指しているのだろうか。ここを通してはならない。大事な防衛ラインだということは、すぐに察した。
機械の集団の中に飛び込んでいく騎士の姿が見えた。
ヘクターだ。風のような速さで、広場を駆け抜ける。群がる機械の人形を、次々と薙ぎ倒していた。右手の長剣が朝日を反射し、黒く輝く。剣身を滑ったその光が、機械軍の影の中に埋もれていった。
加勢しなければ。アイナは走った。腰に掛けてある鞘から、剣を抜く。
気配を悟った一体がこちらを向いた。表情のつかめない不気味な顔面をしていたが、恐れて足を止めてしまうほどではなかった。胸の内で膨らんだ闘志の方が勝っている。
正面から突っ込む。剣を振るった。
相手の首の横に剣身が食い込んだ。右手にぐっと力を込める。左肩から右の脇下にかけて、斜めに腕を下ろした。
半壊した体が痙攣し、目の前の機械が膝から崩れ落ちた。
一体、破壊することに成功した。機械生命体は人と同じ形をしているので倒すのに躊躇いが生まれるかと思ったが、罪悪感はなかった。獣を討伐する感覚に似ていた。王都を守るためだ。慈悲は必要ない。そう、自分の中で熱くなる感情を正当化した。
こちらにもたれ掛かるようにして倒れ込んできた機械を、空いた左手で突き飛ばす。ガシャンと硬いものが高いところから落ち、割れたような音がした。その勢いのまま、集団の中に足を踏み込んだ。
異変に気づいた他の機械たちが、次々と立ち塞がってきた。
止まるつもりはない。右から左からと交互に襲いかかってくる機械生命体の頭を目掛けて、剣を伸ばす。首を狙い、その付け根を斬り落とす。頭を直接、破壊してもいいようだ。とにかく頭部を失えば、やつらは活動を停止するらしい。戦いの中で、それを学んだ。
「アイナちゃん!」
機械の群れを掻き分け、進んだ先に、ヘクターの姿が見えた。彼もこちらに気づいたようで、合図を送ってきた。
機械生命体に取り囲まれている。機械の残骸が地面を埋め尽くすように足元に転がっていた。今の一瞬で、これだけの数を倒したのかと感心する。
「来てくれたんだね、ありがとう」
「当たり前でしょ。それより、どうなっているの?私がここを離れた後で何があったの?」
ヘクターの後ろに立つ。互いに背を預けるようにして、構えた。
「見ての通りだよ。こいつらが突然、攻め込んできたんだ。他の隊からの報告によると、被害は北区と東区のようだ。この士官学校は特に数が多い。他の区にいるみんなも今、駆けつけてくれている」
息を整えながら、ヘクターは早口に説明した。
「エミルは?」
彼女を監視すると言ったヘクターが一人でいることを疑問に思った。エミルの姿はどこにも見えない。
「いなくなった。ちょうど機械生命体がこの広場に現れた時だよ。外の様子に気を取られている隙に逃げられたみたいだ。やつらが来ることを、あらかじめ知っていたのかもしれない。僕としたことが油断した」
ヘクターは悔しそうに言った。
「やっぱり、彼女には何かあるみたいね。ここを切り抜けたら、もう少し強気に出てみてもいいかもしれないわ。ちょうど私も新しい情報を得たところだから」
「気になることがあるって城に向かったんだよね。何かわかったの?」
「ドロシーに会ったの。そして、真実を教えてもらったわ。エミルは——魔女よ」
「……そうか」
ヘクターが顔を背ける。強く責任を感じているようだった。追い詰めたはずだったのに逃してしまった。それが、暗躍する魔女であったというのだから尚更だろう。
「過ぎたことよ。とにかく一刻も早く、こいつらを何とかしましょう」
周囲の機械たちを睨み、剣を握り直す。
体内に流れる魔力を操作することに集中した。魔法は苦手だった。使用するのも、されるのも。この世界のあらゆるものを簡単に超越してしまうような力が、すぐ身近にあることに、どこか恐ろしさのようなものを感じてしまうからだ。
魔法がこの世界に生まれたことで、人間にはできることが増えた。太古の時代に比べれば、得たものは大きい。しかし、それと同じだけ、失ったものも多かったはずだ。
度々、アイナは思う。魔法の存在しない平穏な世界に生まれたかったと。
構えた剣に力が宿る。
空気を裂き、流れるような魔力が剣身を走った。雷の力だ。エレクストレアの者のみが使える特別な力だと、そう父から聞いたことがあった。
力の発動やコントロールの仕方は、兄に教わった。しかし、兄ほどうまく操ることはできない。それだけ強大な力でもあるのだが、短い間であれば、繊細な操作もできなくはなかった。
ここが正念場だと、自分に言い聞かせる。この機械たちを早急に倒し、軍を率いて攻め込んできた者を探し出す。その人物は、エミルと繋がりを持っている。はずだから。
あるいは、エミル自身がリーダーなのかもしれないが、つまりは、黒幕を暴くことができるのだ。真実の一歩手前まで、到達している。もう一踏ん張りだ。必ず世界を救ってみせる。
「なあ、お前たち。レオがどこにいるか、知らないか?」
女性の声が聞こえた。視線をやると、機械生命体の間から、こちらに歩み寄ってくる影があった。声の主は、その人物で間違いない。
存在感のある真っ黒な鎧が、見えた。
機械の集団の中から姿を現したのは、美しい佇まいをした女性だった。酸いも甘いも噛み分けた大人のような気品と、己の強さを疑わない戦士としての自信に満ちた表情をしていた。
装備は重厚そうに見えるも、胸元は防御力が低そうで大胆に開けている。他にも腕や腿、腰回りといった部位も同じで、どういった意図があるのか露出度の高い軽装だった。部分的に装備を薄くするのは機動力を高めるためだろうか。しかし、そこから彼女のきめ細かい綺麗な白肌がのぞくために、その着こなしは、威圧的な彼女の雰囲気とミスマッチし、えもいわれぬ色気を放っているようでもあった。
「おや、聞こえていなかったのかな。そこの二人に聞いたんだよ。白い髪の優男風のイケメンくんと、赤い髪の可愛らしいお嬢ちゃん」
長い前髪をかき上げながら、女性は言った。
黄金色の髪が日の光を集めるようにして美しく輝く。その仕草は、とても官能的だったが、魅力を感じはしなかった。
敵だ。と、それをすぐに察したからだ。
状況からして、この機械生命体の軍を率いているのは彼女なのだろう。どういう腹積りなのかは知らないが、よからぬことを企てていることは直感的にわかった。
アイナとヘクターは、剣を構える。すると、その美しい女性は、ふふっと鼻を鳴らした。
「私はレオに用があるんだがね。知っているだろ?お前たちの団長さん、レオニール・エレクストレアのことだよ」
「彼に、何の用ですか?」
怪訝な顔で、ヘクターが訊ねた。
「戦うために来たんだよ、あいつとね」
その女性からは、静かな殺気が伝わってきた。口元は軽く緩んでいたが、心の底から笑っている様子ではなかった。細めた目には光がなく、口にする言葉には悪意がこもっていた。
彼女の美貌には、見覚えがあった。ふと頭の片隅に隠れていた記憶が引っ張り出される。
「あなた、レイラね」
気持ちを落ち着かせるように声を小さくしながら、アイナは言った。
「おや、そちらのお嬢ちゃんは、私と会ったことがあるのかな」
レイラの視線が、アイナに移る。
「ええ、昔ね。あなたが騎士団にいた頃、一度、同じ隊で任務に行ったことがあったわ」
「ほほう」
「元騎士だったあなたが、どうして機械生命体の軍を率いているのかしら?王都に何をしにきたの?」
アイナは、強い口調で問う。
「だから、レオに会いに来たと言っているだろう。あいつを誘い出すために、この機械たちを利用しているだけだよ。アークにある研究所から百体ほど拝借した。すでに半分近くやられたみたいだがな。こうして正面から堂々と攻め込めば、姿を現すだろう。王都を襲うつもりだとわかれば、私と戦う理由もできる」
「なんてことを考えるの……」
「む、待て。お嬢ちゃん、名前は何という?」
レイラが見定めるような目つきになった。卑しい視線が、アイナの体中を這う。とても不愉快だった。
「アイナよ。あなたは覚えていないでしょうけどね」
「いいや、覚えているとも。その目、その闘志、その正義感。レオにそっくりだ。あいつと同じものを持っている。その剣に宿っている力もエレクストレアのものだ。そうだろう?」
レイラが、ニヤリと笑う。
「妹、だったな?」
レイラは、重みのある巨大な剣を斜めに振った。斬撃が風となり、アイナの脇を掠め、後ろへと吹き抜けていった。
「ええ、そうよ」
「よし。それならお前でもいいだろう。アイナよ、私と戦え。全力で戦おうじゃないか」
レイラが高らかに叫んだ。
その目に、迷いはなかった。陰謀や計略があるわけではない。ただ純粋に、戦うことに飢えているといった、まっすぐな意志が感じられた。
そんな彼女の目を見て、アイナはかつてのことを思い出した。それは、レイラと共に任務に出向いた時のことだ。
王都で、とある殺人事件が起きた。その容疑者となった男が、連行中、騎士たちの隙をついて隠し持っていたナイフを取り出し、暴れ、逃亡した。その男を捕らえるという任務を請け負ったことがあった。
アイナの所属していた隊は、二人一組で動き、各区に別れ、王都中を探し回ることになった。
その時、アイナとペアになったのがレイラだった。
物静かな性格で、状況に合わせて的確な行動ができる人物。それが、アイナの抱くレイラという人物の印象だった。
あまり自分を出そうとせず、仮面が取り付けられているかのように心の内がわからない様子ではあったが、いかなる時でも冷静でいる態度は大人びて見え、何でもそつなくこなせるほどの力を持った彼女は、密かに憧れでもあった。
「どうして人は、人を殺すのだと思う?」
容疑者の男を追う最中、レイラはそんなことを訊いてきた。
彼女は、人と会話することをあまり好まない——特に、任務と関係のない世間話などを積極的にはしない性格だと思っていたので、面食らった。
「そう、せざるを得なかったんじゃないでしょうか。自分の身を守るためか、もしくは、それと似たような、他にどうしようもない立場に置かれていたとか」
そもそもの話、なぜ我々が追っているこの男は殺人を犯したのだろうか。そんなことを問われているのだと思い、アイナは自分なりの考えを答えた。
「好んで殺しをする人なんて、いるはずがありませんから」
心からの答えだった。世界中の人間は善意から生きている。そう信じていた。悪の色に染まっている人間というのは何かしらの理由があって、やむなく堕落してしまった哀れな存在なのだと、本気で思っていた。
だからこそ、レイラが、容疑者の男を殺害した時、アイナは失望した。
男の方から襲ってきたわけでも、のっぴきならない理由があったわけでもない。路地裏の広場に男の姿を見つけるや否や、レイラは剣を抜き、飛びかかった。
そして、男の体を正面から斬り裂いた。
血飛沫が、空を舞った。壁にかかり、不規則な模様を描き出す。ぐしゃと鈍い音がして、男がその場に崩れ落ちた。びくんびくんと足先が痙攣している。裂けた腹部からは鮮血が淀みなく流れ出ていた。足元に大きな血溜まりができた。
目の前で何が起きたのか、一瞬、思考のすべてが停止したかのように、世界が止まって見えた。彼女の行動の意図を理解できず、アイナは、ただ立ち尽くしていた。
やがて、男は道端に転がる石のように、ぴくりとも動かなくなった。
レイラが、振り返る。
笑っていた。
罪悪というものをまったく蓄えていない、屈託のない笑みだった。その美しい顔は返り血で黒く薄汚れていたが、拭う仕草も見せず、気にしている様子はなかった。
ただ浸っていた。達成感のようなものに。満足感のようなものに。長年、溜め込んでいたストレスを、すべて吐き出したかのような清々しささえある表情は、悪魔の笑い顔にも見えた。
「どうして人は、人を殺すのだと思う?」
艶かしく口元を動かし、レイラは言った。
「己の強さを知ることができるからだよ。人間というのは、自分がいかに力を持っているかを知ったことに充実感を覚えるものなんだよ」
レイラが腕を勢いよく振り下ろし、剣に付いた血を払った。ビシャ、と足元に血の塊が飛んできた。
叱責か罵倒か、言いたいことは山のようにあったが、湧いてきた言葉が喉元で詰まる。ショックが大きかった。この世には決して存在しないと思っていた悪意が、自分の目の前にある。そして、こんなにも身近に感じている。信じられなかった。怖くもあった。この出来事は夢なのではないかと思った。
「だからって、何も殺す必要はないでしょう……?」
アイナは震える声で訊ねた。目の前で生き絶えた人間を見て、この世界でもっとも醜い残酷さを感じた。
「ああ、私は少し違うかな……」
レイラは深い闇を孕んだ目を細め、ゆっくりと口を開き、言った。
「愉しいから」
その時、抱いた感情は今でも忘れていない。
憎悪だった。アイナは生まれて初めて、自分以外の人間を、心の底から拒絶した。その考え方を、生き方を、心を、真っ向から否定した。人間は善意から生きている。はずなのだ。
今、目の前にいるレイラが、本気で殺し合いを求めていることは、その目を見ればわかった。あの時と同じ、善の光を宿していない、邪悪な目だった。
彼女の存在自体が、アイナの信じる世界を否定している。それが堪らなく悔しかった。
「あなたは、何もわかっていない。今、この世界で何が起きているのか。私たちは、この世界を守るために必死で戦っているのよ。あなたの勝手で邪魔しないでよ」
強い口調で言い放つ。それだけでレイラの心を動かし、機械の大軍を撤退させることができるとは思っていなかったが、彼女を前にして声を荒立てずにはいられなかった。
「何もわかっていないのは、お前たちの方だよ。この計画はどうやら難航しているらしいが、レグルス騎士団はうまく対応できていないようじゃないか」
「計画?何のことかしら」
きな臭い空気を感じ取り、アイナは訊ねる。
すると、レイラは呆れ気味に息を吐いた。なんだ、やはり知らなかったのか、と。
「まあ、私は興味のない話だからな、教えてやってもいい。エミルという王宮魔術師が、持ちかけてきたのだよ。黒い髪をした『ユウト』という名の少年を生きたまま連れてきてほしいと。あいつは実に欲深い。それはすぐにわかったよ。自分の欲望のために他人を蹴落とすことを何とも思っていない類の存在だ。だから、レグルス王を手にかけた。手っ取り早く王様殺しの犯人として、ユウトを指名手配してしまえば、探すのが楽になるからな」
やはり、黒幕はエミルのようだ。予想してはいたことなので、さほど驚きはしなかった。しかし、もう一つ、レイラは重要なことを言った気がした。
「あなたの口ぶりだと、エミルは王様殺しの罪をただユウトに被せたわけじゃなくて、彼を見つけることそれ自体が目的であるように聞こえるんだけど」
「おそらくそうだろうな。エミルはユウトという少年に会いたがっている。そのために、手段を選んでいないのだ」
なぜ、エミルはそこまで、ユウトにこだわるのだろうか。新たな疑問が、アイナの中に浮上した。エミルとユウトの繋がりとは、何だろうか?それを解明せねばならない。彼らの関係が、この事件の重大な鍵となっているのではないか。そんな気がしてならなかった。
「同族嫌悪というやつかな。正直、関わるのは面倒だと思った。しかし、私は強いやつと戦うことができるのなら、それでよかった。だから、レオと戦う機会をつくることを条件にした。そして、アークで待機していれば彼を向かわせると、そうエミルは言ったのだ」
「アークですって……」
たしか、アークの調査をするという任務を、王宮から受けたと兄は言っていた。
彼にその任務を与えたのは、エミルだったのだ。そして、彼女はレオニール自身を、アークへ向かわせようとしていた。レイラと取引をしていたから。
そして、それならば、アークが滅んだという情報も誤りではないだろうか。と思った。
アークを調査させる任務のための、もとい、レオニール・エレクストレアをレイラの元に誘き寄せるための、口実だったのではないだろうか。
すべてが、エミルの手の上で支配されていたのだと考えると、ぞっとした。先ほど、ヘクターと共に彼女を問い詰めた時には、そんな素振りは一度も見せなかった。あっけらかんとした態度で、アイナたちの味方であるかのように振る舞っていた。すべてはユウトを捕らえるために。
「しかし、いざやって来たのは、レオの足元にも及ばない、つまらない騎士ばかりだった。ああ、一人だけ、腕の立つやつがいたかな。黒いショートヘアのお嬢ちゃんだったか」
「アイリスたちと、会ったの……?」
妹のように可愛がっていた少女の横顔が、浮かんだ。
アークの街に、アイリスたちの部隊が派遣されていることを思い出した。レイラがあらかじめアークで待機していたのなら、接触する機会もあっただろう。
頭の中に現れたアイリスは、微笑みながらも、不安の念を濁した顔つきで、こちらを見つめていた。
「アイリス?ああ、あの黒い髪のお嬢ちゃんのことか。アークは故郷の街だから、守り抜くのだと健気に立ち向かってきたよ」
レイラの目元が、歪む。魅惑的な眼差しが、アイナに向けられた。
嫌な予感が、した。
「ちゃんと、殺してやったよ」
その瞬間、空の彼方に吹き飛ばされたかのような、強い衝撃が体中を走った。
よろめき、倒れそうになる。頭を強く打った感覚にも似ていた。
眩暈がする。浮かんでいたアイリスの姿が、すうっと空に消えていった。視界が狭くなり、世界が闇に包まれ、光が遠のいていくのを感じた。
レイラに殺された?
本当に?
いつも笑顔を絶やさず、周囲に和やかな空気を振り撒き、会う度に声をかけてくれる、あのアイリスが?
息が荒くなった。吐き気もしてきた。頭の中では、洪水が起きていた。ぐちゃぐちゃと、いろいろなものが混ざり合い、乱れ、荒れ狂う。
見えているもの、聞こえているもの、すべてが信じられなかった。信じたくなかった。
彼女は、何を言っている?
アイナは自分で、自分に問いかけた。レイラの言葉を、この悪魔の戯言を、素直に受け入れるのもどうかと思ったが、軽々しさと同じくらい、ずしんと体にのしかかるような重みがあった。安易に流すことのできない緊張感があった。
これは現実ではない。現実ではないだから、夢なのだ。そうに違いない。もやもやとした心を騙すために、そう言い聞かせた。
本当は何もかも拒絶して、逃げ出したい気分だった。全部忘れて、眠ってしまいたい気分だった。
鐘を叩いたような甲高い音が、頭の中に鳴り響いた。
はっとして目を凝らすと、正面に、レイラの姿が見えた。自分の歩いた軌跡を記すかのように、巨大な剣を地面に引きずりながら、こちらに向かってきていた。
鼓動が速くなる。腹の中が熱くなってきた。
失った悲しみよりも、得た憎しみの方が大きかった。
レイラを絶対に許しはしない。
アークを、騎士団の仲間を、アイリスを、この世界から奪った彼女を生かしてはおけない。彼女の存在を、自分の中にある正義をもって、完全に否定してやるのだ。そんな思いが、巡る。
アイナは生まれて初めて、自分の中に、悪意が湧き上がってきたのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます