夜は長い。暗く、冷たく、そして寂しい。

ユウト 10

 何が起きたのだろうか。目の前に現れた「ドラゴン」と思しき巨大な生物を見上げながら、ユウトは困惑していた。

 一目見ただけで感じるこの邪悪な雰囲気は、周囲にいる機械生命体の集団よりももっと恐ろしいものに思えた。おとぎ話に聞く、魔王的な存在だ。

 目を合わせると、まるで拘束されてしまったかのように体の自由が利かなくなる。身動きが取れなかった。もちろん実際に拘束具などを取り付けられたわけではないが、この生物に睨まれているだけで、たちまち体中の筋肉が震え上がり、固まってしまう。

 しかし、なぜだか目を逸らしては駄目な気がした。本当はすぐにでもここから離れたかったが、背を向けた途端、その大きな爪が襲い掛かってくるのではないかという不安に駆られ、足を動かすことができなかった。

「ユウトくん!」

 ジークの声が聞こえた。その瞬間、体に巻き付いていたものが、すっと外れたような解放感に包まれた。寒さで震えていたところに、温かい日差しが降り注いできた。そんな感覚だった。

 巨大生物の前脚の陰からジークが顔を見せる。ユウトは、ほっと息を洩らした。

「大丈夫だったかい?」

「はい。それよりジークさん、この生き物は……?」

「ほう。オレのことを知らないのか、小僧」

 巨大生物が口を開く。それだけで空気が振動した。ユウトは体を震わせる。

「彼は『ファフニール』という。人間に災いをもたらす呪いの竜だよ」

 ジークの声が、いつにも増して強張っていた。

「ひどい言われようだな。まあ間違いではないが。オレの力が偶然、人間たちにとって害をなすだけだ」

「それで、多くの人々が苦しめられた」

 ジークは、憤慨の念を無理やり抑えているかのような、重たい声だった。

「オレの島に勝手に入ってきたやつが悪い」

「君はかなり好戦的だった。いずれは世界を滅ぼすことを企んだだろう」

「ああ、今すぐにでもそうしたい気分だ」

「やっぱり僕は、君のことが嫌いだよ」

「だろうな」

 ジークとファフニールのやり取りには遥か昔からの仲というか、それこそ熟年夫婦の口喧嘩であるかのような付き合いの長さを感じられた。

 しかし、そこに信頼や友情といったものは皆無だった。互いが互いを敵視しており、いつ命の奪い合いが始まってもおかしくないと思えるような、一触即発の空気感が、両者の間には漂っていた。

 この異様な関係性はいったい何だろうかと想像してみる。だが、まるで思い当たらなかった。

 そもそもユウトにとって、他人との関係は親愛を抱いて繋がることができるのだという考えだった。家族や友人はさることながら、初対面の相手であっても、誠実な心を持って接すれば次第に相手の雰囲気に慣れていき、親しくなり、良好な関係を築くことができる。初めは遠くに見える程度の認識であったとしても、時間をかけ、互いを知るうちに両者の距離は縮まっていく。それが自分以外の誰かとの理想的な関係であり、そういうものなのだと信じていた。

 ジークとファフニール。彼らの関係は、ユウトの想像する関係性とは異なっていた。

 二人とも対極に位置し、背を向け合っている。そして、その間には大きな溝がある。底が見えないほどに深い穴だ。彼らの関係はすでに崩れてしまっているにもかかわらず、この穴の存在自体が彼らを繋ぎ止めているようにも思える。今までに見たことのない、不思議な関係だった。

「それで」

 ファフニールが、低い声で言った。

「憎きオレを呼び出して、いったい何の用だ?」

「緊急事態だ。不本意だけど、君の力を借りることにした」

「ほう。オレの意志は無視するのか?」

 ファフニールは威嚇するような強い口調だった。

「僕から離れると消滅するんだろ。主導権は僕にある」

「いいや、条件は互いに同じだ。これは魔女の契約とは違う。オレの呪いなのだからな」

 ファフニールは首を振り、遠くの方を見やった。その視線の先を、追う。ファフニールの眼光は、アークの街に空高くそびえる時計塔の頂上を差していた。

「まあいい。久しぶりに体を動かしたい気分だったんだ」

 ファフニールが機械生命体の集団を見回し、笑った。ように見えた。口元は歪んでいたが、ドラゴンの感情は読み取りづらかった。

「いや、ここで戦うのは僕だ。君はユウトくんを守れ。それ以上のことはするな」

「ユウト?この小僧のことか」

 ファフニールが、足元を見下ろす。

「うっかり殺してしまうかもしれんな」

「そうなる前に、僕が君を止める」

 ジークが鋭い眼差しで、ファフニールを睨んだ。因縁の相手。復讐を果たすべき敵。それらを相手にしているかのような、険しい顔だった。

「おい、何をしている」

 背後から、声がした。グラファイトだ。声音から察するに、かなり苛立っている様子だった。

「まだ殺し合いの途中だ」

 グラファイトが、つかつかと早足で近づいてくる。

「殺し合い?さっきまでのがか?オレに言わせれば、あれはただの馴れ合いだ。戦闘訓練でさえない。こいつも、まったく本気を出していなかっただろうが」

「何?」

 グラファイトは足を止めた。ファフニールをきっと睨む。何者なのか、どこから現れたのかはわからないが、高圧的な態度が気に入らない、とそんな様子だった。

「このオレに正面から向かってくるとは、ずいぶんと勇気があるな」

「その言い方は人間らしいから嫌いだな。勇気を持っているんじゃない。恐怖するという感情がないのだ。何者であろうと平然と相手をすることができる。怯えて力を発揮できないなんてことは、決して起こらない。俺たちに、人間の弱さはないのだ」

 グラファイトが得意げに笑う。

「恐怖を知らないというのは強さではない。相手を恐れ、怖がることは、長く生きることにおいてもっとも役に立つ。それがわからないか。機械生命体というのは、なんて愚かな生き物だ。大地ほど頑丈ではなく、人間ほど賢くもない。まったく、不憫だな」

 ファフニールは呆れ気味に、大きな口から息を吐く。

 途端、グラファイトが地面を強く蹴り、一気に距離を詰めてきた。頭に血が上ったのか。機械生命体の体に、人間と同じ赤い血が流れているとは思えないが、貶されて激昂したようではあった。

 ファフニールが前脚を上げ、叩くように振った。

 激しい風が吹く。ジークが支えてくれなければ、体が飛ばされてしまいそうだった。ガシャガシャン、と奇怪な音を立てながら、グラファイトが膝から崩れ落ちた。

 見ると、体がひどく損傷していた。たったの一度で、これほどなのかと思う。

 左腕は肘の途中までしかなく、胴体の方も、皮がすべて剥がされたかのように、機械と思しき内側の部分が露わになっている。胸の辺りには、コアらしき鉱石も見えた。大きな亀裂が入っている。

 顔は左半分がほとんど失われており、人間の顔と認識するのは難しいほどだった。いわゆる精霊や悪魔の類に近い。炎のように真っ赤に揺れていた髪も、ほとんどが禿げ落ちていて、直視するのが躊躇われるほどに酷い有様だった。

 ほんの少し前まで、自分の命を狙ってきた恐ろしい存在だったということを忘れ、その光景を目にしただけで、敵ながらグラファイトに対する同情の念が湧き上がってきた。

「恐怖の不在は、判断を誤る一番の要因だ。オレに真っ向から勝負を仕掛けて敵うはずがなかろう」

 「あ、あ、あ」と言葉にならない音を発し続けるグラファイトに向かって、ファフニールが言い放つ。

 彼はすでに戦闘不能の状態だった。機械生命体はコアさえ無事ならば修復は可能らしいが、それももう叶わないかもしれない。そうユウトは思った。

「無知とは恥ずべきことではない。学びの時はどこにでもある。お前も最期に学ぶといい」

 ファフニールが前脚を、グラファイトの頭上まで伸ばす。

「これが、恐怖だ」

 グラファイトの体が小さくなって見え、ファフニールの足の陰に消えていった。ぐしゃり、と生々しい音がする。

 瞬間、棘が刺さったような痛みが走った。

 実際に怪我をしたわけではない。目の前で命が奪われる瞬間を目撃して、精神的な傷を負ったのだ。

 機械生命体は人間とは違う。グラファイトは人間らしさを嫌っていたし、ファフニールもそう言っていた。しかし、だからこそなのか、そんな彼らの中に人間らしい一面を見た時、深く感じるものがあった。

 それは、昨夜の出来事も同じだった。

 レオニールという男に、無慈悲にも殺された機械生命体の顔を思い出す。死を恐れ、見知らぬ人間であるユウトに対して、助けを求めていた。ように見えた。

 先ほどのグラファイトが、ちょうどそれに当てはまった。自分の頭上を覆う影を眺めながら、何を思ったのだろうか。ゆっくりと潰されていくのはどんな感覚なのだろうか。体は思うようには動かなかったのだろう。自分が死にゆくのを悟り、少しも怖くはなかったのだろうか。

 様々な思いが、巡る。機械生命体か人間か、そんなことはどうでもよかった。すべての命あるものに対する愛にも等しい感情だった。

 それが失われた。たた、そんな悲しみがあった。

「僕は、塔の前にいる彼女を制圧してくる。ユウトくんのことは、任せたぞ」

 ジークの声を聞き、はっとする。

 余韻に浸っている暇はない。向かうべき場所は目の前にあるのだと気持ちを切り替える。

 やるべきことは確かにある。思いを馳せるのはすべてが終わってから、世界に平穏が訪れた後でもいいのだ。

 ファフニールを見上げる。ユウトの視線に気づき、ギラリと目を光らせ、睨み返してくる。怖気付き、目を逸らす。

「いいだろう、引き受けた。どのみち、オレは自由には動けんからな」

 ファフニールは、くくと笑うように頷く。

「ユウトくん、ここでじっとしているんだよ。大丈夫。必ず守ってみせるから」

 そう言い残し、ジークは走り出した。時計塔の入り口に向かって。その逞しい背中を、ユウトはじっと見つめていた。

 その男を止めろ、と時計塔の前の少女が声が上げる。周囲の機械生命体たちが動き始める。

 グラファイトの最期を見ていたというのに、まったく躊躇わない。かと言って、弔いを目的としていきり立っている風でもない。命令が聞こえたからそうする。それだけだ。機械生命体とは、単純な生き方しかできない悲しい生き物なのだ。人間とは違う。魂を宿していない、ただの体だけの存在に過ぎないのだ。

 機械生命体たちは、ジークの正面に壁を作るようにして固まり、束になって襲い掛かった。

 ジークは大剣を横にして構え、斜め上方向に振り上げた。先頭を切って飛びついた一体を、斬撃が両断する。

 その後ろから、別の二体が同時に迫ってくるのが見えた。武器を所持してはいなかったが、力で押さえつけようとしているのだろうか。

 ジークは落ち着いていた。

 左に見える相手には剣先を伸ばして牽制し、右からきた相手は、体を回し、蹴り飛ばす。右側の機械は、そのさらに後ろから続けて迫っていた機械たちと体をぶつけ合うようにして、段々と倒れていった。右方向に道が開けた具合だ。

 蹴りを放ったその勢いで剣を振り抜き、左側の機械の頭部を破壊する。

 勢いに任せ、続けざまに向かってくる機械生命体たちも次々と倒していく。何体いようと関係ない。時計塔へとまっすぐに向かうジークの前に立ち塞がった者は、彼の視界に入った次の瞬間には、胴体か、または首を絶たれ、戦闘不能となる。

 凄まじい速さだった。それでいて一撃が重たく、力強い。敵の数は無尽蔵にみえるが、ジークに敵う者はいないだろう。そんな安心感さえあった。

 強さという点においては、このファフニールという竜も同じだった。

 傍にいるだけで生気を吸い取られているかのような居心地の悪さはあるが、その強さはジークに負けず劣らずといったところだ。いや、明らかに彼よりも格上だろう。というより、人間はこの竜には決して敵わないのだと、そう思えるほどのオーラがあった。

 時折、機械生命体の数体が、ユウトに襲い掛かってきた。

 この少年を抑えさえすれば、ジークの猛進を止めることができる。少なくとも躊躇いを覚え、判断が鈍り、隙ができるだろう。そう機械生命体が実際に考えたのかはわからない。が、戦闘における作戦とでもいうべきか、弱いところから攻め落とすのは定石だと、そういった思考回路があったに違いない。ジークが走り出し、背を向けたのと同時にユウトの周りを取り囲んだ。

 そんな機械たちを、ファフニールは一呼吸つく間に蹴散らした。

 体を揺らし、腕を振るう。機械たちの体を掻き集めるようにして、長い爪を地面に滑らせ、撃退した。彼にとっては、ほんのストレッチがてらといった感覚なのだろうか。余裕綽々とした様子で、群がる機械生命体たちをすべて払い除けてみせた。

 しまいには、「アークは、客をもてなす態度がなってないな」と軽口を叩く始末だ。

 何より恐ろしいのは、ユウトに覆いかぶさるようにして立つこの竜が、機械生命体たちを葬ることを楽しんでいることだった。ユウトを守るという使命感よりも、破壊という行為そのものに愉悦を覚えているかのようだった。

 ただ、ユウトにはそれを指摘するだけの度胸はなかった。話しかける勇気さえ、湧いてこない。機嫌を損ねると自分も機械生命体たちと同様、あっけなく屠られてしまいそうで怖かった。

 ジークの方に視線を戻す。

 群がる機械生命体たちを斬り伏せ、すでに時計塔の入り口付近にまで辿り着いていた。

 入り口の門の前にいる黒い髪の少女が、ここが最後の砦だと言わんばかりの面持ちで、ジークを睨んでいる。

 二人の距離が縮まっていく。衝突は近い。ジークが壁となって立ち塞がっていた最後の一体を斬り倒し、飛び込むように大きく踏み出した。

 その一歩に合わせるかのように、少女もまた、走り出した。

 剣と剣が、両者の顔の前で交差する。ガキン、と鋭い音が空に響いた。ジークの力の方が優っていた。交えた剣ごと、少女の体を突き飛ばす。

 少女は背中から地面に落ちたが、すぐさま片手をついて軸にし、飛び跳ねるように器用に起き上がる。

 ジークが追い討ちをかける。距離を詰め、大剣を水平にし、力任せに振る。少女は体を仰け反らせ、剣の下をくぐるようにして躱した。

 今度は少女が剣を前に構えた。しかし、躱された後に反撃がくることを予測していたのか、ジークは素早く剣を持ち替え、今、来た道をまた戻るように、逆向きに腕を振るう。剣先が体勢が崩れかけていた少女の頬を掠める。

 機械であるためか流血こそないものの、少女の白い肌には、表面の皮を切り裂かれた痕らしき黒い線が入っていた。

 凹凸の少ないつやつやとした美しい鉱石に亀裂が入ってしまったかのような喪失感に襲われる。同時に恐ろしくも感じた。その傷に同情してしまうほど綺麗な顔をしている少女が、魂を持たない機械であるという事実に。それらを生み出し、平気で人間の外見を装うアルフレッドの思想に。腹立たしく思った。

 少女は慌てた様子で距離を取る。時計塔の門に背を張り付けるほどに後退した。やはり、ジークを侮ってはならない。そう警戒しているようだった。

「やっぱり、痛むかい」

 ジークは体の前で構えていた剣を下ろし、少女に問う。

「痛覚などない」

「心だよ。君には、人間と似た心がある。昨晩、君は僕たちに怒りを感じていたし、先ほど、グラファイトや仲間たちが倒される光景を見て、悲しげな顔をしていた。心を痛めていた」

 図星だ、とユウトは思った。

 少女は返事に戸惑っていた。喉元まで出かかっている言葉を、あと一息で吐くことができることを、飲み込もうと努めているように見えた。

 それは、彼女の機械生命体としての存在意義のようなものと、人間に似た感受性豊かな心が争っている、心を持った機械生命体という異例の存在であるが故に起こる葛藤を胸の内に抱えているようであった。

「アルフレッドも酷なことをするな。君は僕たちと同じように、復讐すべき相手に怒り、仲間の死を悲しみ、そう感じている自分に戸惑う心を持っているんだ。グラファイトの態度を見る限り、君だけが特別のように思える。一体、何者なんだ、君は?」

 少女が、はあと息を吐く。剣を握る手が震えているように見えた。

「ジーク、お前の読みは正しい。私には、人間に寄せて作られた心がある。心を持ち、自分で考えて行動ができる。他の連中とは、まったく違う機械生命体だ」

 少女が、門から背を離し、一歩、前に進む。手にしている剣を両手で握り直し、ジークに剣先を向け、構えた。

「私の名は、クロム。アルフレッドの新たな研究の試行段階で生み出された、いわば、次世代のためのプロトタイプだ」

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