ユーリ 8
のんびりと月を眺めることができるのは、これで最後になるかもしれないな。空に浮かぶ丸い月を見つめながら、ユーリはそう思った。
アーク・トゥルス・シティの中心区にそびえる時計塔は、街全体を見下ろせるほどに高く、その最上階は世界でもっとも月に近い場所であると思えるほどだった。
時計塔の中は研究室になっていた。
部屋には、人の形を模した金属や粘土でできた不気味な彫刻、赤く輝く鉱石などが散らばっていた。まるで、何者かに襲われて慌てて逃げ出したかのように、そこに大切なものをすべて置き忘れて行ったかのように、研究室には多くのものが残されていた。
「ここを使っていた研究者はもういないよ。というより、もはやこの世界には、ユーリとレオ以外の人間は誰一人として存在していないんだ」
ドロシーのその言葉を聞いた時、ただ漠然と、ああ、世界は終わったのだな、という絶望感だけがあった。胸の中にじんわりとした何かが広がっていくのがわかった。触れられないほどに冷たい雰囲気で、しかし慣れてくると、優しく包み込んでくれるような温かさがあった。
その何かが、ユーリの思考を冷静にさせた。
復讐を果たせたとして、その後どうなるんだ?
些末な問いかけが、自分の声となって頭の中に響いた。自分のことだからと甘えている様子はなく、ユーリという人間の生き方を客観的に見ている誰かの思いを代弁したかのような、落ち着き払った声だった。
続けて、崩壊した王都の街並みとそれを見下ろすように空に立つユートピアの姿が、脳裏に映し出された。
故郷の街を破壊したユートピアが許せない。必ず復讐をしてやる。そんな気持ちで、レオたちに同行した。ユートピアに接触できるチャンスがあると思ったからだ。
しかし、よく考えてみれば、本当に復讐することが目的だったのだろうか。
王都の崩壊はなるべくしてなったことだ。とは思いたくない。ただ、復讐を果たすことで何が変わるのかというと、自分の心が軽くなるかどうかだけなのだ。
街のみんなや大好きな母が、自分たちを襲った災厄を消し去ってくれてありがとうと喜んでくれることを妄想しているに過ぎないのではないか。と、思った。彼らの怒りを捏造し、自分の気が晴れるために利用しているだけなのではないか。それは都合のいい解釈で自分の心を騙す、人として、悪に当たる思想だ。とても卑怯な考え方だ。
しかし。
そうだとすれば、自分は何のために復讐をするのだろうか。何のためにユートピアを追っているのだろうか。
頭上で輝く月を眺めながら、ユーリはそんなことを考えていた。考えながら、悩んでいた。悩みながら、迷ってもいた。
あの月は、僕自身なんだ。
暗い夜の闇の中で輝き続けるものの、周りには誰もいない。静かさと虚しさだけが漂う空に、ずっと佇んでいる。たとえ今日の夜を超えたとしても、明日になれば、また新しい夜がやってくる。
孤独だ。哀しい冷気を運ぶ夜の風が執拗にユーリの頬に触れた。鬱陶しくは思わなかった。心地よくさえあった。孤独であるということを、噛み締めていた。不思議と、心は穏やかであった。
「また月を眺めているのか」
レオが隣に立ち、言った。
ふと振り返ると、室内にドロシーの影はなかった。たった一人いないだけでこんなにも静寂が身を包むのかと、ユーリは呆れ気味に鼻で笑った。そして、彼女の騒々しさを嘲った反面、物寂しくも感じた。
「見納めだ。今夜の月は、特に綺麗だったから」
開いた窓の向こうで、懸命に輝き続ける月に視線を戻す。
「この戦いが終わった後のことを、少し考えていたんだ」
「戦いが終わった後?」
「ユートピアを倒した、その後だ。すべてが終わった後に何があるんだろうって、ふと思ったんだ」
不安の念がこもった声で、ユーリは吐き出すように言った。
「ユートピアによる世界の破壊を止めたとして、クラウンのようの絶対的な力は存在しない。すでに破壊された街や自然は元には戻らない。死んでいった人々も。そういうことか」
「ああ。僕たちだけが、この世界に残されてしまうんだよ」
喉の奥から、何かが込み上げてきた。ぐっと力を入れ、堪える。それを飲み込むのは辛い行為だったが、吐き出してしまえば、自分を支えている大切な柱が折れてしまうような気がした。
「ユートピアは破壊の力のみを扱うようだからな。その反対の力は持っていないと考えていいだろう」
「なあ。それって、死ぬよりも怖いことなんじゃないのか?」
「死ぬよりも、怖い?」
レオの鋭い目が、ユーリをきっと睨んだ。
「僕たちは、何もない孤独を生きることになるんだ。安心して過ごせる場所はない。笑い合う仲間もいない。復讐を果たしたという充実感だけを味わいながら、その最後の光を頼りに、ただ、そこに生きているんだよ。その灯火が消えないよう、守りながら、死んでるみたいに、生きているんだ」
切なげな声で、ユーリは続ける。
「それって、なんて虚しいことなんだって思わないか?今、生きているはずの僕たちが、どうして死人のような生き方をしなきゃいけないんだよ」
「余計なことは考えるな。ユートピアに殺された者たちのためにも、俺たちは戦わなければならない」
「……それが、戦う理由にはならないって言っているんだ」
沈黙が、二人の間に割り込んできた。
レオは、ユーリの言ったことをまったく理解していないという様子ではなかった。しかし、簡単に認めるわけにもいかないというスタンスだった。それは彼なりの、レオという男の正義感に基づいているのだろうと、ユーリは思った。
王都の人たちの思いを継ぐ必要がある。彼らの「死」に、意味を持たせる必要がある。それができるのは、生き残った自分に他ならないのだ。だから戦うのだ。そんな強い思いが、ひしひしと伝わってきた。
それと同じくらい、彼には葛藤があるようにも見えた。その心の中には、騎士としての誇り高き正義と人間の浅ましい欲望とが混在しているようだった。家族や友人、世界中の人たちのためにも、ユートピアを倒す。それは、ユーリの中に芽生えていたささやかな復讐心と何一つ変わらない感情だった。
ドロシーの言った言葉を思い返す。
レオも自分の欲望に忠実に生きているのだ。唯一の家族であった妹を失い、騎士団の仲間も失った。自分の手の届かないところで消えてしまったのだ。躍起になるはずだ。実際、そうだったのかもしれない。
それでも彼は、自分の心が負の感情に取り込まれてしまわないように律していた。使命感を持った騎士団長としての自分を必死に生かし、復讐心に満ちたもう一人の自分を殺そうとした。己の内で膨らみ続ける欲望を、抑え込もうとしていた。
結果、半端な心を持った状態に陥ってしまった。これは、もっとも危険な状態だ。精神が壊れてしまいかねない。
不憫でならないな、とユーリは思った。自分を縛り付けているその鎖から解き放たれればどれほど楽なことかと、いっそ諭してやろうとも思った。
「キミたちは、同じ心を持っているくせに、歩もうとしている道が反対なんだよ」
夜の涼風に運ばれ、ドロシーの声が耳に届いた。
見ると、ちょうど窓を挟んだ外側に、彼女の姿があった。さも当然のように、ふよふよと空中を浮遊していた。「魔女なら空を飛んで当たり前でしょ」とでも言いたげな得意な表情に、ユーリは少し、むっとする。
ドロシーの周囲を白い光が漂っていた。魔力の塊のようだった。彼女の体から溢れて放出されていくように、体を纏っていた衣が剥がれていくように、するりと流れるような動きだった。
やがて白い光は夜の闇に呑まれ、アークの空に消えていった。
「ドロシー、どこに行ってたんだ?」
ユーリは、浮遊しながら近づいてくるドロシーに向かって訊ねた。
「クラウンが創造した『新しい世界』だよ。この世界がまだ存在しているから、不安定のようだけどね。少しばかり、様子を確認しておこうかと思って」
ドロシーが窓枠に足を掛け、そのまま室内に飛び込む。
「いざという時の最後の手段だよ。もしこのアークの街が破壊されれば、『この世界』は崩壊を始めてしまう。誰にも止めることができなくなってしまう。その巻き添えになるのは嫌でしょ?だから、あらかじめ逃げ道を用意しておこうかと思ってさ」
「ユートピアは必ず倒す。世界を破壊させてたまるものか」
「まあ、念のためだよ。キミたちがユートピアに勝つことができるのなら、ただの取り越し苦労だ。ボクも心の底では、そうなることを願っているよ」
ドロシーは、服についた埃を払う仕草をした。
「……でも、今のキミたちじゃ、おそらく、それは無理だろうね」
「人間には、魔女を殺すのは不可能だって言いたいのか?」
ユーリは、昔、母に読み聞かせてもらったおとぎ話を思い出した。
世界に現れた魔女を倒すために、人間たちが力を合わせて立ち向かった話だ。しかし、魔女の力の前に人間はあまりに無力だった。魔女と渡り合うためには、魔女の力そのもの——つまり、彼女たちと契約して、その力の一部を手に入れる必要があった。
魔女の力に対抗できるのは、魔女の力だけだ。いくら剣士として腕が立つとはいえ、ユーリとレオの二人が魔女に敵うはずがない。そう、ドロシーは言いたいのかと思った。
「キミたちは同じ道を進んでいないんだよ。たとえ話をしてあげる。想像してごらん。キミたちは今、二人で協力して大きな山を登ろうとしているんだ。でも二人とも見ている方向がバラバラだ。ユーリは山道の先に続く未来ばかりを気にして、崩れかけている足元の危うさに気づいていない。レオは後ろを振り返っては過去に囚われていて、本当に進むべき道は霧の中だ。完全に見失ってしまっている。それじゃダメだよ。ユートピアには勝てない。今、この時を見なきゃ。時の流れの中で、魂と体を伴って過ごすことができるのは人間のいいところじゃないか。キミたちが見るべきなのは未来でも過去でもない。『今』なんだ」ドロシーが、ユーリとレオを同時に指差す。「キミたちは、互いを信頼し、共に同じ道を歩む。そうしなくちゃ、ユートピアを倒すことなんてできるわけがないよ」
いつにない真面目な意見に、一瞬、戸惑いはした。だが、もっともだとも思った。
遥か先のことを考えて何になるというのだ。未来を予知する力があるわけでもない。今、この時のことだけを考えるんだ。目の前にある出来事を乗り越えなくては、山頂など拝めるはずもないのだから。
ここは、険しい山道だ。危険は常にそばにある。足踏みはしていられない。迷っている暇もないのだ。未来への不安を抱き、悲嘆に暮れるくらいなら、足元に転がっている石を一つずつ退かしていこう。それが賢明だ。一歩一歩、確実に進んでいくことが大切だと思う。そのうち、恐れていた未来に辿り着いているはずだから。勢いのままに、すべて振り切れているかもしれないじゃないか。
「今の僕に、できることは何だ?」と、心の中で呟く。
「ドロシー、頼みがあるんだ」
ユーリはドロシーの顔を見る。
すると、こちらの考えを見透かしているかのような顔をしていた。魔女には、人間の考えを読み取ることができる力でも備わっているのだろうか。その達観した態度が、ユーリはどうも苦手であった。
――――
背丈を軽く凌駕する門のような佇まいをした大きな扉を開き、時計塔から外に出た。
土の匂いが混じった生温い風が、首元を通り抜けた。顔を上げる。月の姿がうっすらと消えかかっていた。遠くに見える山の端に、眩い輝きが見えた。それらが夜の終わりを告げていた。
線のように伸びた陽光が、時計塔を照らした。
外から見ると、頂上付近には、模様の入った円盤が四方から見えるようにして埋め込まれていた。円盤には長さの違う二本の剣が、柄を中心にして取り付けられていた。これが一定の間を過ぎると振れ、刻の経過を知らせるらしい。なるほど、よくできた仕組みだなと、ユーリは思った。
「ドロシーが言ったことを、よく考えて反省したんだ。大切なのは『今』を見ることだっていう、あれだ」
薄暗い道を進みながら、ユーリは言った。隣にはレオがいた。同じ歩幅で、歩いている。
「正直なところ、僕はドロシーのことが苦手だ。何を考えているのかよくわからないし、すべてお見通しだって感じのあの振る舞いが好きじゃないんだ」
「あいつは魔女だからな。思考や性格も含めて、俺たち人間とは一線を画すのだろう」
「そういった異質なのが人間の姿をしているってのが、また憎らしい。魔女を生み出したクラウンには、人の心がないんだ」
「人ではないからな。クラウンは、人間の姿をしていない」
「ああ、それが何よりの救いだ。もし、クラウンが人間の姿をしていたなら、面倒なことになっていたのは目に見えている。たぶん性格が悪くて、自分勝手だ。隠しごとは多いだろうし、共感性は低い。僕なら友達にはならないかな」
「言えてるかもな」
レオは、素っ気ない口調だったが、わずかに口元を緩ませているような雰囲気があった。
高い建物の間から日が差し込み、無数に地面を照らし始めた。
世界は夜を乗り越え、新しい朝を迎えていた。暗がりに怯え、寂しさに体を震わせる時間は、終わった。気持ちを新たに、みなぎるような希望を糧に、今日を力一杯、生きてゆくのだ。
「レオンハルト・エレクストレア。それが、あんたの名前だろ?」
「……ああ」
レオは、頷く。
「聞いたことがあった。レグルス騎士団には、かつて王都を救った英雄と呼ばれた男がいたことを。僕も、そんな姿に憧れて騎士を目指していた」
日差しが、ユーリたちの行く先を照らした。
道はまっすぐに伸び、アークの街中に続いていた。ここを辿ると、住宅街らしきエリアに向かうことができる。
その先は、どこに続いているのだろうか。
ふと頭をよぎったが、すぐに振り払う。足元に視線を落とす。未来を見通す必要はない。何よりも確かな「今」を生きるのだ。それだけだ。それだけでいい。
ふうっと呼吸を整える。ユーリは、目の前に転がっていた石ころを、道の端に蹴飛ばした。
「あんたには、感謝している。崩壊した王都の街で、野垂れ死ぬはずだった僕を生かしてくれた。命を救ってくれたから」
ユーリが感謝の意を伝えると、レオは足を止めた。
「魔女との契約は何を意味しているのかわからない。契約をした者がどんな最期を迎えるのかは、誰にもわからない。俺たち、生き残った者が思い描く『幸せの形』とは、程遠いものかもしれない」
「そうかもな」
「嫌な予感さえしている」
レオは、ユーリの顔をじっと見ていた。一瞥されるだけで身震いしそうになるほどの鋭い目つきだ。
しかし、その瞳の奥には、やはり温もりが感じられた。柔らかい輝きがあった。信頼できる心が、そこにあった。
「魔女に関わるとロクなことにはならないんだ。そんなことはわかってる。ユートピアにはすべてを破壊され、ドロシーとは話しているだけで調子を狂わされる」
「そうだな」
「でも、ドロシーはまだマシかも。ユートピアと一緒にいる方が気疲れしそうだ。やつは相手の気持ちを推し量ろうとする能力が絶望的なまでに欠如しているから」
「ああ。俺も、そう思う」
「そういえば、あんたたちの馴れ初めを詳しく聞いたことがなかったな」
「おかしな言い方をするな」
レオは、呆れ気味に息を吐いた。
「ドロシーと、どうやって知り合ったんだ?」
「王都の街が崩壊した直後だ。どこからともなくドロシーが現れた。そして、言った。協力してあげるよ、と」
「それだけ?」
「それだけだ。俺は敵の正体を知るために、その調査をドロシーに任せた。一日、二日と時間をかけ、少しずつ情報を手に入れていった。そして、いよいよ王都を離れ、ユートピアのもとへ向かおうとした。その時、お前と出会った」
「ああ、あの時か」
ユーリは、空を見上げた。つい先日のことが、遠い昔にあった出来事のように思い出される。
「体はボロボロだが、その目はまだ死んでいなかった。怒りと悲しみと優しさが混じり合った、世界に希望を求める力を宿した目だった」
「おかげで僕は今、こうしてここにいる。ユートピアを、この手で直接、倒すことができるチャンスを得た。本当に、ありがとう」
「よかったのか?」
レオが、訊ねる。違和感があった。彼の声は、今まで聞いたどれよりも、恐怖や絶望といった負の念がまとわりついているように思えた。
「魔女との契約は身を滅ぼす結果になるかもしれない。後悔はしていないか?」
「先のことは、考えないようにしたんだ」
「『今』を、大切に生きるためにか?」
「死んでるみたいに生きることは、もう嫌なんだよ」
視界が、ふっと明るくなる。日が高く昇り、白みがかった美しい空が頭上を覆った。
アークの街が、命の炎を灯したように見えた。
「ドロシーと契約したことに後悔はないさ。この腕が、これからの戦いでどう役に立つかはわからない。でも、今の自分に出来ることを考えた時、これが一番の答えだったんだ」
左腕に視線を落とす。見た目の変化は特にない。
しかし、腕の中を何かが這いずり回っているような気味悪さはあった。ドロシーが言うには、確かに力が宿っているとのことだ。
「過去も、未来も、今の僕には関係ないことだ。死んだ人たちのために、この世界のために、生きていかなければならない。そんな使命感のような考えは、捨てることにしたよ。僕は——」
顔を上げる。レオの目をまっすぐに見つめた。
「僕は、僕のために——僕が生きてるみたいに生きるために、戦うことにしたんだ」
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