アイナ 8
士官学校を後にすると、アイナは城へと向かっていた。地下牢から少年が脱獄し、王様が殺された、王都レグルスの看板とも呼べる王城へだ。
空を見上げて、大きく息を吸う。冷たい空気を味わうようにして、ゆっくりと息を吐いた。朝日が道の先を照らし始めた。
一人きりの時間を過ごすのは、久しぶりのような気がした。孤独は人の心を蝕むと聞いたことがあるが、アイナは一人でいることが平気だった。
物心ついた時から父は騎士団長として多忙の身だったし、兄は人と馴れ合う性格ではない上に、士官学校へ通い始め、騎士としての己を磨いていた。もっとも遊び盛りだった頃のアイナは、家で、ひとりぼっちでいることが多かった。アイナの心の空洞の部分を埋めてくれるのは、母しかいなかったのだ。
そんな母が先立ち、アイナは孤独であることの惨さを知った。
父も兄も近くにはいるが、心は遠くにいた。理想という高みへ向かって行ってしまった。目の前にある家族の形が、心が空っぽの人形劇を見ているようで、アイナは少し怖かった。
だが、恐怖というものには、いずれ慣れてしまうものだ。
気づけば、アイナの心は空っぽになっていた。人は孤独な生き物なのだと、そういった考えが、アイナの中に亡霊のように憑りついた。そうして、いつしか一人でいることが怖くなくなっていた。
レオニールへの報告をヘクターに任せ、アイナは単独で行動していた。
どうしても、気になることがあったからだ。
エミルと会い、会話をしてみてより強く思った。知らなければならない。あの夜、何が起きたのか、真実を確かめなければならない、と。
北区と中央区とを隔てる門を抜ける。城を円形に囲う塀に沿って、進んだ。
城の正面の門が見えてきた。早足で、門に向かった。
「やあ、久しぶりだね」
門をくぐろうとした時、声が聞こえた。手前に見える柱が喋り出したのかと思ったが違った。柱の陰に隠れるようにして、そこに何者かがいた。
その何者かが、姿を見せる。
大きな三角帽子を頭に被り、黒いローブを身に着けた少女だった。風になびいて揺れる髪が美しい。空色の瞳は世界中のあらゆるものを見通すことができるのではと思わせるほどの透明感があった。
可愛らしい外見と、その衣装から、おとぎ話に登場する魔女が連想された。只者ならぬ空気を纏った少女だった。
「あなた、ドロシーね」
少女に訊ねる。やけに落ち着いた声だなと、アイナ自身、驚いていた。
「うん。ボクの名前はドロシーだよ」
「ちょうどよかった。実はあなたを探していたの。どうしても聞きたいことがあってね」
「うん、何の用かな?」
ドロシーが首を傾げる。
「あなたと初めて会ったあの夜のことよ。私はあなたを城の地下牢に案内したけれど、その後のことは知らないの。何が起きたのか、あなたが何をしたのか、まったくね。だから真実を話してほしいのよ。私の質問に対して、正直に答えてもらえないかしら?」
「真実っていうのはつまり、あの日に城で起きたことをありのままって意味だよね?」
「ええ、そうよ」
アイナは頷く。
「まずは地下牢にいた少年のことよ。私はあなたが彼を逃がしたのだと思っているのだけれど、実際のところどうなのかしら?」
「うん。彼を連れ出したのは、ボクだよ」
ドロシーは、すんなりと認めた。あまりにも屈託のない声だったので、不意を突かれた気分だった。
「どうしてそんなことを?あなたの目的は何なの?」
「彼を取り戻すことだよ。その必要があったんだ」
「取り戻す?それはどういう意味なの?彼はあなたの知り合いだったの?」
ドロシーの余裕そうな表情を見て、焦る。早口になっていると自覚してはいたが、一度、言葉を詰まらせてしまうと、そのまま黙り込み、何もかもわからなくなってしまうような恐さが胸の内にあった。
「そもそもの話をするとね。ボクたちはレグルスを追ってきたんだ」
「追ってきた?」
「そのために、わざわざ『世界』を飛び越えてきたんだよ」
「飛び越える……?」
話が噛み合っていない気がした。何か大事なことをはぐらかされているのではないか。ドロシーの言うことはアイナの期待している答えとは、常に違う方向を指している。気がした。
「でもまあ、いろいろとトラブルがあってね。とりあえず、彼を助けるところから始めることにしたんだ。いやね、ボクは彼の魂がすでに消えかけていることを知っていたんだ。けど、レオがどうしてもって言うから、仕方なく——」
「レオ」と、その名をドロシーの口から聞いた途端、アイナは体中の毛が逆立つような寒気に襲われた。背筋がぴんと立ち、顔が強張ったのが自分でもわかった。
記憶という大海原を彷徨っていた小さな魚が、突然、網にかかり、そして引き上げられた。そんな感覚があった。曖昧に自分なりの答えを出して終わらせていたもやもやとしたものが、頭の中で蘇り、広がり、埋め尽くす。
二日前、ヘクターが言っていたことを思い出した。城の中で魔女のような格好をした少女と、兄――レオニールが一緒にいるところを目撃したというあの言葉を。
やはり、彼女たちには、何かしらの繋がりがあったのだろうかと思い直す。体の内側を引っ掻かれるような、つんとした痛みが走った。
「ああ、違うよ。レオというのは、キミの兄のことじゃないよ。いや、彼には『アイナ』という妹がいるんだけどね。キミのことではないんだ」
ドロシーは、考えていることを見透かしたような口調で言った。
マーベラスから聞いた話だと、彼女も魔女のようだが、魔女というものは皆こうなのだろうか。掴みどころがなく、異彩を放っている。
「どういうことなの?」
「ボクのいう『レオ』と、キミの兄は、同じ人間じゃないってことだよ。彼の名前は『レオンハルト・エレクストレア』だ。キミの兄、レオニール・エレクストレアとは、容姿こそ似てはいるものの、まったくの別人なんだ」
「容姿が、似ている……?」
「おそらく、妹であるキミにも見分けがつくかどうか微妙なくらいには、ね。まあ、この『世界』がそうやってできたからね。そればかりは、どうしようもないんだよ」
けらけらと、ドロシーは笑った。
初めて会った時も、そうだった。彼女は笑っていた。どれだけ深刻な状況であろうと、余裕の色をたっぷりと含んだ顔を見せていた。愉快な笑い声を響かせていた。
それが、アイナには不気味だった。不快でもあった。どうして、そんなにゆるりとした態度でいられるのかと疑問だった。
「……まあ、いいわ。とにかく、あの少年を連れ出したのが、あなただとわかったわ。それよりも、ここからが本題なんだけど」
「王様殺しの事件のこと、だね?」
「ええ。あの事件の真犯人を知りたいのよ」
触れるべき点は他にもいろいろとあるように思えた。一つずつ丁寧に、確かなことを辿っていけばいいとはずなのに、それでも、なぜか心が逸っていた。真実に向かって進むことが最優先だと。
ドロシーに語らせてばかりいては話が本筋から外れてしまう気がしてならなかった。今はとにかく早く、そして的確に情報を聞き出すことが大切なのだ。アイナは、そう強く感じていた。
「私たちは『ユウト』という名の少年が王様を殺したんじゃない。彼に罪を着せた真犯人がいると考えているの。あなた、あの夜同じ城にいたんでしょ。誰か怪しい人物を見なかった?」
「さあね。ただ、目星はついているよ。いや、これはほとんど確信に近い。悪い予感っていうのは、割と当たるものだからね。そう思わない?ボクはたぶん、この事件の真相を知っているんだよ」
「本当に?」
「嘘はつかないよ。隠しごとは多いけどね」
ドロシーが、ウィンクをした。
「あなたを信用してもいいのか、心配になってきたわ」
「信じてもらうしかないよ」
「そうしたいんだけどね。あなたがあまりに怪しい雰囲気を持っているから、どうしても疑ってしまうのよ」
「仕方ないよ、魔女だから。多少はミステリアスな空気を纏っている方が、なんかそれっぽくていいでしょ、ね?」
アイナを見つめるドロシーの目は、光に満ちていた。それは日々を楽しく生きている純粋な子供の——その澄んだ目に宿った輝きと、ちょうど同じであるかのように思えた。
彼女には、何事にもまっすぐな気持ちで取り組む子供の心のような、どんな時でも楽しむことができる余裕を持った心があるのだ。
それを、アイナは羨ましく思った。
多くのものを失い、自分が最後に心から楽しくいられたのはいつだっただろうかと想像してみる。想像してみて、虚しくなった。それほどまでに、遠い存在となってしまった感情だった。
「それで、犯人は誰だと思うの?あなたの推理を聞かせてちょうだい」
アイナは、ため息混じりに言った。
「キミたちに『ユウト』を捕らえるように命令した人物がいるでしょ?王宮の関係者であり、王様殺しの犯人を見たと言い張った人物——その外見の特徴をキミたちに教えた人物だよ」
「ひょっとして、エミルのことかしら?」
「そう彼女のことだ。でも気をつけた方がいい。彼女、その本質はボクと同じ——魔女だからね」
「え」
「正確には、魔女としての名前を失った、『元』魔女かな」
「何を、言っているの……?」
「とにかく、そのエミルって人物には要注意ってことだよ」
エミルが魔女。かもしれない。その推理はヘクターのものと同じだった。だが確証は、まだなかった。
たった今、魔女であるドロシーに示され、初めて証明されたのだ。
エミルは魔女だ。そして、そのことを隠している。二年前に突如、王宮に現れた彼女だが、一度としてそんな噂を聞いたことはなかった。たとえ自分を魔女だと言っても信じる者は少なかっただろうが、そうだとしても意図的に隠していたとしか思えない。
何を企んでいるのだろうか。王様を殺した犯人は、やはり彼女なのだろうか。だとすれば、ユウトは無実だという推理も正しいものになる。彼は今どこにいるのだろうか。王都の騎士と不用心に接触してはいないだろうか。
様々な考えが、脳裏を駆け抜ける。
目の前にいるドロシーの顔が、一瞬、歪んで見えた。眩暈に襲われたのだとは、すぐにわかった。今、この目に映っている世界は本物なのだろうか。そう疑いの念を抱いた瞬間に、世界が傾いていた。
「あ、そうそう。そういえばボクもキミに用があってここに来たんだった」
ドロシーの間延びした声が聞こえてきた。瞬きと共に世界の様相が正しく戻る。
アイナは口元をきゅっと結び、意識が朦朧としかけていたことを悟られないようにと、凛々しい顔をつくってみせた。
「何かしら。また強力してくれとでも言うつもりなの?」
「違うよ、王都の危機を伝えに来たんだよ。アークの機械生命体って知ってる?人工的に開発された生き物なんだけどね。その大軍を率いて、王都に攻め込もうとしている者がいるんだよ。おそらく――」
ドロシーの声を遮るように、衝撃音が耳に届いた。
音は士官学校の方からだった。見ると、士官学校のある北区の空に暗雲が漂っていた。どんよりと曇った空は不幸をもたらす前兆にも思えた。
「どうやら、来たみたいだね」
「来たって、何が?」
「機械生命体だよ。王都に進軍してきたんだ」
「どういうこと?」
「破壊や殺戮を行いたいという衝動に駆られたんだろうね。世の中にはね、そういった趣味を持った人間もいるってことなんだよ。ほんと、人間って面白いよね。自分の欲望に、とことん忠実だ」
ドロシーが、手のひらを天に向けて大きく開く。その手を、自分の足元に向けて振り下ろした。
すると、地面に巨大な魔法陣が描き出された。そこから白い仄かな光が噴き出る。魔力の塊のような光だった。触れるだけで指先にピリリと違和感が走った。これほどの魔力を感じたのは初めてだった。これが魔女の力なのだろうか。緊張で足がすくんだ。
ドロシーが、アイナの方を向く。よし、と意気込むように息を吐くと、くいっと腕ごと大げさに曲げ、出発の合図をするかのように手招いた。
「ボクが、あそこに連れて行ってあげるよ。きっと、キミの仲間も戦っているはずだ。さあ、急ごう」
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