日が沈む。夜が姿を現した。

ユウト 8

 アークに到着した頃、すでに日は昇りかけていた。

 スピカの森を走る時は足元が見えず、思わずつまづいてしまうこともあったが、狭い獣道を抜け、少し開けた場所に出た時、明るくなった緑の景色に感動を覚えた。

 スピカの森は、その懐に立ち入った王都のような高い家々の建ち並ぶ街で生まれ育った人間は、豊かな緑に神秘を感じ、妖精の姿を見たとうそぶく者もいると聞くが、村育ちであるユウトから見ても、神の魂が眠っている地と讃えられるのが納得できるほど美しい世界だった。

「ジークさん、どこにいるんだろう」

 森から続く山の高台から、街へ降りる。アークの街は静かに眠っていた。昨夜とは違う街の一面に、わずかに戸惑う。不快に空気を震わせる音はなく、霧のように街を包む煩わしい煙も発生していない。

 早朝は活動を停止しているのだろうか。機械の仕組みはよくわからないが、街はすべて機械と化しているのではないか。そう思えるほど、自然から生まれた命を感じられないような、虚しい風が吹く街だった。

 昨夜、来た時と同じ、住宅街らしきエリアに降り立つ。そのまま、建物の間の小道に身を隠しながら移動した。大きな通りを避け、路地裏の道を進むことにした。

 アークでは、ほんの短い間に二度も襲撃に遭った。それが忘れられなかった。

 堂々と通りを歩いていようものなら、どこからか刃が飛んでくるのではないか。何者かに見つかり、指を差され、居場所を知らされ、あの機械生命体の少女のような危険な連中にあっという間に包囲されるのではないか。そんな不安があった。


 轟音が、空を叩いた。

 街に住み着いていた静寂たちが、慌てて物陰に隠れた。つられるようにして、山の端から朝日が顔を覗かせた。見えにくかった足元が明るく照らし出された。

 目を凝らしてみると、通りに何かが散らばっているのがわかった。

 何だろうかと近づき、拾い上げる。硬い。光沢のある物体だった。鉱石のような触り心地だったが、それよりも遥かに頑丈にできているようだった。何かの破片にも思えた。

 腰を下ろし、破片を集める。パズルのように丁寧に形を合わせ、組み立ててみると右腕が出来上がった。人間のものではない。機械生命体の腕のようだった。

 ユウトは、それを道の端に投げ捨てる。

「まさか……」

 音の聞こえた方に、走った。

 昨夜と同じような道を辿る。朝日に照らされ、明るい雰囲気の漂うアークの街は新鮮だった。陰鬱な空気は朝焼けの空に溶けていった。ユウトの知らない街の姿が、そこにあった。

 駆け足のまま、正門の前に躍り出る。騎士の恰好をした謎の男――アイシャが言うには、レオニールという人物と出会った場所だ。そして、彼に襲われた場所だった。そこに彼の姿がないことを願いながら、進む。

 正門をくぐるのには勇気が必要だった。この門の向こう側は住宅街とは違い、血生臭い雰囲気があったからだ。

 この門が最後の砦だ。越えてしまえば、後には引き返せない。

 それでもお前は進むのか?目の前の正門が、そう語りかけてくる巨人のように見えた。

 片方の手を首の後ろに回し、付け根に触れる。首を片側に捻ると、ごきっと音がした。続いて肩を回す。その場でステップを踏み、体を上下させた。

 速くなる鼓動を鎮めるために、息を吐いた。吐いて、大きく吸う。湿った空気が、体内に入り込んできた。不快感はない。早朝、特有の清々しい空気に、体が浄化されるような気分だった。

 握った右の拳を、じっと見つめる。

 山の陰から昇った朝日のように、ゆっくりと指を動かす。親指が天を差すように、ぴんと立った。ふっと鼻から息が洩れる。

「大丈夫、何とかなる……だよね」

 自分で暗示をかけるように、何度も繰り返す。コランの言葉はいつもユウトに勇気をくれた。もう一度、呼吸を整える。

 よし、準備は万端だ。いつでもいいぞ。そっと自分に言い聞かせた。

「ユウトくん?」

 声が聞こえた。見ると、ジークが面食らったような表情をして立っていた。

 手には大剣を握っている。あれだけの大きさの剣を片手で振り回せるとはどんな腕力なのだろうかと一瞬、呑気なことを考えた。

 ジークは安全を確認するかのように辺りを見回し、ユウトの元へ歩み寄った。

「こんなところで、何をしているんだい?」

 詮索している様子はなかった。ただ純粋に、なぜここにいるのかと疑問に思っているようだった。

「実は、ジークさんに伝えておくことがあって」

「伝えておくこと?」

 ユウトは、自身の持つ予知の力について、そして、その予知によって、ジークが、このアークの地で何者かと戦っている光景が映し出されたことを説明した。

 ジークは、ユウトからの話を聞くと、ふむ、と腕を組み、顎に手を添え、考え込むような素振りをした。

「君の見た予知では、僕が何者と戦っていたのかまではわからなかったのかい?」

「はい、とても暗い場所だったので。それに、相手はまるで影そのもののような真っ黒い何かでした。人間のようでもあり、獣のようでもある異形の何かでした」

「なるほどね」

 ジークは、正門の向こう側へと視線を移した。ユウトも同じようにして、見やった。この街の象徴とも呼べそうな高い塔のような建物がこちらを見下ろしていた。

「もしかすると、それは、アルフレッドかもしれないね」

「アルフレッド?」

「発明家の名だよ。優秀な人なんだけどね、やりすぎちゃうところがあるんだ。そのせいで、昔、王都を追放されたこともあった。僕の調査によると、今はこのアークの街のどこかで新たな研究に勤しんでいるらしいんだ。そして、彼は自分の才能を認めなかったレグルスへの復讐として王都に攻め込もうとしている。そのために兵器を開発しているという噂もあるんだ。どうやらそれが危険なものらしくてね。君の予知で僕が対峙していたのは、彼の発明した兵器なんじゃないのかな」

 予知の光景にいた、あの影を思い出す。アルフレッドの発明というのが何を指すのかはわからないが、あれは何者かによって生み出されたものなのだろうか。どちらかといえば、野生的な生き物といった佇まいだったが。

「わからないですけど、俺の予知は絶対みたいなんです。これからジークさんは、その黒い影と戦うことになるんです」

「そうか。わざわざ教えてくれてありがとう。いずれ戦うつもりだったけれど、おかげでちゃんと心構えをすることができたよ」

 優しく、笑う。彼の表情には、人を安心させる不思議な力があると感じた。仮に今、何者かに襲われたとしても大丈夫だ。そう強気にさせてくれる頼もしさがあった。ガルラやコランにも似た、信じられる大人の逞しさだ。

 正面にそびえる巨大な建物を見上げた。頂上付近には、時を刻む機械仕掛けが施されていた。時計塔のようだ。名前だけは聞いたことがある。ユグド村やリフナ村にはなかったが、一日の時間をいくつかに分割し、それを視覚的に認識するための画期的な仕組みとなっているらしい。

 模様の入った円盤に短剣と長剣が取り付けられていた。剣の柄の部分が、円盤の中心で重なり合うようにして固定されている。この剣先がある一定の時を過ぎると、円盤の端をなぞるようにして動き出す。そうして時の流れを見ることができるらしい。なるほど、よくできている。

「そうだ、ユウトくん。もしまた会えたなら、どうしても一つ聞いておこうかと思っていたことがあったんだ」

 ジークが、ユウトの方を振り返り、訊ねた。

「何ですか?」

「変なことを聞くかもしれないけど、君はもしかして、王都で指名手配されているんじゃないか?」

 返事に戸惑った。予想していなかった問いかけに、どんな表情を浮かべればいいのかさえ、一瞬わからなくなった。そして沈黙していることがまずいことのようにも感じた。

 ジークは、王都の王様が殺され、ユウトが指名手配されていることを知っている人物だった。迂闊に名乗るべきではなかったと、今になって悔やんだ。昨日までの自分の危機感のなさに嫌気がする。これからどうしたものか、ユウトは必死に頭をはたらかせた。

「ああ、困らせてしまったのなら謝るよ。いや本当、深い意味はないんだけどね、少し気になってしまって。実は数日前、王都で王様が殺されるという事件が起こったんだ。幸い、犯人が現場から逃走するところを目撃したという人物がいたらしくてね。彼女の証言から、ちょうど君のような外見をした『ユウト』という名前の少年が指名手配されたんだ」

 知っています、王都で配られていた号外で確認しましたから、とは正直に言えるはずもなかった。

 ジークの顔を見上げる。王様殺しの事件を知っているということは、彼は王都の人間か、もしかするとレグルス騎士団の一員なのかもしれない。

 よく見ると、鎧を纏っているかのような外装は、かの騎士ふうの男――曰く、レオニールのものと似ていなくもない。確かレオニールはレグルス騎士団の団長だと、アイシャが言っていた。

 そもそも、こんな人気の少ない重苦しい雰囲気を放っている街に一人で乗り込んできている時点でおかしいと思うべきだったのだ。王都の騎士ではないかと疑うべきだったのだ。

 これ以上、関わりを持つことは危険な気がした。すっとぼけたふりをして、この場をやりきるか。それとも、望み薄ではあるが、王宮の関係者による真犯人説を唱え、彼が味方についてくれる可能性にかけるか。どちらが正しいのだろうか。熟考している余裕はない。

「俺は、何もやっていません」

 ユウトの口から自然と、その言葉が出ていた。

「うん。僕もそうだと思う」

 意外な返事だった。

「え、俺の言ったこと、信じてくれるんですか?」

「何をそんなに驚いているんだ。君が今、自分で言ったんじゃないか。そうだよ。僕は君の言葉を信じる。確かに僕の聞いた情報から推察すると、君は王様殺しの犯人である可能性が高い。だけどね、そういった客観的な情報以上に、何より自分を信じることも時には大切なんじゃないかって僕は思うんだ。君と出会って、まだほんの短い時しか流れていないんだけどね。僕は君の中に、美しい正義の心を見たんだ。昨晩、君はここで倒れている機械生命体を見て、顔を苦痛の色に染めていた。僕にコアを譲ってくれと懇願してきた時もそうだ。大切な人の命を救うために、必死になって行動していた。君が人殺しをするような人間とはとても思えない。だから僕は、君を信じようとする自分を信じることにしたんだよ」

 客観的な情報以上に、自分を信じることが大切である。それは、今の自分がもっとも心掛けるべきことなのではないかと、ユウトは思った。

 ラプラスの目による予知に縛られている気がした。自分を信じることを忘れているんじゃないかと不安になった。予知は必ず当たるものだが、これからもそうだとは限らない。

 希望があるのではないか。自分を信じるべきではないか。心の中で自問し続けていると、不思議と勇気が湧いてきた。冷静になって考えてみれば、王都ほどの巨大な街が一瞬のうちに崩壊するはずがない。

 それに、予知を見るに至った状況もいつもと違って特殊だった。眩暈がし、辺りの人間がすべて消え去る。気づくと、未来の光景を目の当たりにしている。今までの予知は、そういった一連の流れがあった。

 だが、今回、王都の崩壊を目撃したのは夢の中でのことだ。前日に、ドロシーからラプラスの目の力のことを聞いたばかりだったので判断を早まってしまったが、あれはただの夢だったのではないだろうか。だんだんとそんな気がしてきた。

「ジークさんは、何者なんですか?」

「僕は、レグルス騎士団に所属する騎士の一人だ。今は訳があって団を離れているんだけどね。もともと、アークの調査が目的でここに来たんだ」

「そうだったんですか……」

 彼に伝えておくべきではないか。王宮に真犯人がいるという可能性を。

 そう、ユウトは思った。根拠と呼ぶには弱いかもしれないが、ちゃんと理由もある。彼なら耳を傾けてくれる。戯言だと無視されたり、問答無用に捕まる心配もない。はずだ。

「ジークさん、聞いておいてほしいことがあるんです」

「ん、何だい?」

「王様殺しの犯人についてです」

 自分から、この話題を切り出すことにした。ユウトは、ジークからガルラやコランと同じ雰囲気を感じ取っていた。

 ユウトにとって、それは特別な存在であることを意味していた。ユウトの世界観では、大人というのは力のある存在だった。

「実は、王都で配られていた号外を見たことがあるんです。指名手配されていた犯人像は確かに俺と似ていました。でも、俺はやっていません。そして、真犯人は王宮の関係者だと思うんです」

「ふむ。そう思う理由を聞いてもいいかい?」

 穏やかな声だった。その声に、彼の人柄が滲んでいた。器量や包容力といったものが、音になって伝わってくるようだった。

「左の肩に火傷したような痣があると、そういった特徴が記されていました」

「そうだね。僕たちもそう聞いているよ」

「肩の痣は、たぶん、これのことなんですけど……」

 衣服をずらす。ユウトは、首元にある火傷痕のような痣を、ジークに見せた。顔をしかめ、ああ、と息を吐いた。

「痛みは、しないのかい?」

「今は、大丈夫です。それより、この痣のことなんですけど、実は、この痣に気がついたのは、ごく最近のことなんです。王様殺しの事件が起きたのと同じ頃なんです。それまで俺を含め、故郷の村でも、痣ができていることに気づいた人はいませんでした。俺は王都に行ったことは一度もありません。でも、この痣のことをなぜか知られていたんです。つまり、その目撃証言をした人物こそが、俺に王様殺しの罪を着せようとした真犯人じゃないかと疑っているんです」

 しかし、その人物は、どうやってユウトの痣のことや名前を知ったのか、と返されると言葉に詰まっただろう。

 自分はやっていない。不可解なことがある。怪しい人物がいる。だから、そいつが犯人だ。

 それでは、目撃証言をした人物と、やり方と考え方が同じではないか。あくまで一つの可能性としての意見だということで話してはみたが、的外れなことを言ってしまったのではないかと思った。

 見ると、ジークは「なるほどね……」と、難しい顔をしていた。

「実はね、ユウトくん。その犯人の目撃者というのが、不思議な力を持った子でね。一目見た相手のことを知ることができるんだ。それで、君の名前や痣のことも知っていたのかと思っていたけど、聞いた感じだと、君は王都に行ったことがないのかい?」

「ええ、一度も。故郷の村から外に出たことはありますけど、大人たちに怒られるから遠くまでは行きませんでした。村の周りにある森がせいぜいです」

「ならば、その子に会ったことはあるのかな。エミルという名の少女なんだけど——」

「エミル」

 その名を聞いた途端、ユウトの頭の中に、小さなグラスが現れた。そのグラスはおかしな造りをしていて、底から水が湧き上がってくる。その水に溶けるようにして、どこからともなく曖昧な記憶が広がってきた。

 エミル。彼女の名を、忘れていた。

 いや、思えば頭の片隅にずっと住み着いていた。それなのに思い出せなかった。彼女との思い出を、頭に思い描くことすら出来なかった。

 まるで、思い出すことそのものに背徳的な意識があるかのような、彼女のことを浮かべるだけで後ろめたい気分になった。どうしてだろうか。彼女に謝らなければいけないような、そんな気がした。

「やっぱり、知り合いなのかい?」

「俺の友人であり、家族です……」

 エミルとの、思い出が頭を埋め尽くした。

 幼い頃、森の中で迷っていた少女をユウトが見つけたこと。帰る場所がないからと、村に連れ帰ったこと。村においてやってくれとガルラに頼み込み、家族になったこと。そういった大切な記憶が、グラスから溢れた水のように、勢いよく噴き出してきた。

「エミルを置いてきてしまった。そうだ、俺はあの日、一人で村を飛び出したんだ。それで……」

 エミルと最後に会話をした場面を思い出した。それは、ユウトが、ドロシーと出会う直前に記憶していた場面だった。

「どこに行くの、ユウト?」

 いつものように、こっそりと村を抜け出し、森を探検しようとしていた。後ろから、エミルの声が聞こえた。

「探検だよ。今日こそ、コランに自慢できるような『発見』をしてみせるんだ」

「でも、もうすぐ暗くなるわ。夜の森は危険だから、明日にした方がいいんじゃない?」

 エミルは、困り顔を浮かべていた。

「暗くなる前に戻ってくるよ。それに、夜の方が意外と発見が多いかも。ガルラにバレると面倒だから、もし俺のことを訊かれたら、それとなく誤魔化しておいてよ」

 そこで、頭の中の水の流れが途絶えた。それから、まだ何か大切なことがあったような気がしたのだが、それ以上、思い出すことは出来なかった。

 森に入り、気を失い、気がつけばドロシーと出会ったあの場所だった。そう、記憶が繋がった。

「俺の故郷の村——ユグド村っていうんですけど、そこで、一緒に暮らしていました。でも、俺と同じで王都に行ったことはないはずです。ジークさんの言った人物とは、別人なのかも」

「ユグド村だって?」ジークの顔色が、変わった。

「二年前、あの惨事が起きたユグド村のことかい?」

「二年前……?」

 そうして、二年ほど昔のことを思い返してみる。惨事と呼べるほど、特別なことは何もなかったような気がする。

 そういえば、一昨日の晩、ララティアも同じようなことを言っていた。二年前、辺境の地にある小さな村が崩壊し、世界中に知れ渡っていた、と。

 ジークやララティアから、憐れみの目を向けられる意味が、わからなかった。つい数日前まで、自分がその村にいたのだ。二年前に崩壊したという事実などあるはずがない。

 だが、繋がりがあるとは思えない二人が同じことを言っているのだ。それだけ、信憑性があった。

 真実を、確かめる必要があると思った。

 早いところユグド村に戻らなくては。村のみんなを心配させたくはなかった。

 エミルも待っていることだろう。

 ガルラには夜明けから日が暮れるまで怒られるだろうが、聞き慣れたその怒鳴り声は、恋しくさえなり始めていた。

 コランには、この数日で体験した多くの発見を土産話にしてやろう。ぽかん、と口を開けた間抜け面が目に浮かぶようだった。自然と笑みが溢れてくる。

 もう一度、時計塔を見上げた。盤に取り付けられた剣の位置が先ほどよりも移動していた。つまり、時間が経過している。ということだ。

 急がなくては。世界の命運がかかっているのだ。あまり意識してはいなかったが、まるで、おとぎ話の主人公のような、壮大なことを成し遂げようとしているのではないかと思った。それは、ユウトの「発見」に飢えた心を揺さぶった。

 揺さぶり、突き動かした。

 顔を叩き、目を見開く。今はとにかく行動しなければならない。

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