アイナ 7
士官学校には旧校舎があった。本校舎とは別棟に存在するそれは、取り壊す予定もなく綺麗に整備もされているので、レグルス騎士団はその一室を使用する許可を得て、活動していた。
特別指導官として士官学校に訪れる際も、控えの部屋として利用することがある。まだそれほど足を運んだわけではないが、すでに馴染みのある部屋のように思えた。
扉を開けると、そこにレオニールの姿はなかった。
しかし、窓際には人影があった。
男性ではなく、女性だ。大人ではなく、子どもだった。フードのついたコートを羽織り、佇んでいる。静かに窓の外を眺めていた。目には微かに潤いがあるようで、悲しげな影が滲んでいた。
「エミル」
「こんばんは」
フードの人物――エミルが振り返る。前髪の陰から覗く目は、骨董品を鑑定する専門家のようにギラリと光って逞しく、また卑しくもあった。
「こんな時間まで、ご苦労様です」
エミルはフードを脱ぎ、頭を下げた。
礼儀正しい少女、それが第一印象だった。涼しげな目元が少女らしい外見にそぐわない冷静さを感じさせた。丁寧な口調もそうだ。彼女は誰にでも物腰柔らかな態度をとる。王様に気に入ってもらえたのもそれが影響しているのだ。と思う。彼女は王宮魔術師として、二年もの間、ずっと王様に仕えている人物だった。
王都レグルスの国王であるレグルスは、一言で表すならば自尊心の高い男だった。もう一つ加えるなら、プライドが高くもあった。
自分こそが正義だと、自分の行いを正しいと信じて疑わない盲目的な考えを持っていた。また、慕ってくれる人間をとにかく気に入ったし、自分の周りにおきたがった。特にお気に入りの者には城に居場所を与え、住まわせた。それは半ば束縛のような形で、とにかく手放したくなかったのだろう。
「覚悟のある者だけでいい。命を賭して、すべてを失ってでもこの街を守るという覚悟のある者だけがいればいい。それ以外の者は私の元にはいらない」
騎士団の一人として王宮に訪れた際に、王様が王宮の関係者たちに向かって言い放っていたことを思い出す。大袈裟だなと他人事のように思っていた。周囲は、しんと静まり返っていた。
突然、王宮の人間を解雇しては、すぐに新しい人員を補充する。そんな横暴を繰り返していたこともあり、解雇された元部下の一人に恨まれたのではないか。だから殺されたのではないか。王様殺しの事件が起きた当時、誰もが一度はそう思った。
エミルが、犯人の目撃証言をするまでは。
「レオニール団長は?」
ヘクターが問う。声に力がこもっている。今度は無視しないでくれよと念じているのか、いつもの調子がいい態度ではないように感じた。
「ここにはいません。前に依頼した、アークの調査に向かったのだと思います」
おや、と頭の中に疑念が浮かぶ。アークへの調査はアイリスたちの部隊が向かったはずだ。彼女たちからの調査結果が届いてもいないのに、レオニールが単独で動くとは思えない。
エミルは部屋の中央に構える机に沿うような形で、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「アイシャのラボへ、お邪魔していたのでしょう?何か事件の進展に繋がる手掛かりはありましたか?」
エミルが言うと、何かが体を通過し背後へ駆け抜けて行ったような感覚があった。
胸に手を当てる。違和感はあったが、特に変化はなかった。エミルの貫くような視線に圧され、思わず体を退いてしまったのだと気づく。
「いえ、僕たちが到着した時、アイシャは留守だったようで、大した情報は得られませんでした」
「そう、ですか」
エミルが、噛み締めるようにして言う。
「ええ、残念なことにね」
嘘だ。アイシャ本人に会うことができなかったことは本当だが、情報が得られなかったわけではない。マーベラスの話は、むしろ有益だったと思う。
だがヘクターは、マーベラスがいたということさえ、エミルに話すつもりはないようだった。彼女を信用していないのだろうか。爽やかに言ってみせたが、腹の奥底に隠している物を探っているかのような、そんな声にも聞こえた。
「そうだ。そういえば、一つ気になったことがあって」
まさに今思いついたのだ、といったふうなわざとらしい言い方だった。ヘクターが何を言おうとしているのか、すぐにわかった。もう本題に入るのかと、心構えもした。
「何ですか?」
「王様殺しの事件、あなたが第一発見者なんですよね」
「はい。現場から逃げようとする犯人の姿も目撃しました」
エミルは、それがどうかしたのかという顔をしていた。
「それ、なんですよ」
ヘクターは語調を強めて言った。
「それ、とは?」
「素朴で、純粋な疑問なんですけどね。エミル、あなたは犯人の姿を目撃した唯一の人間だ。だから僕たち騎士団はあなたに事情聴取を行った。あなたは偶然見かけた犯人の外見の特徴を事細かに教えてくれた。犯人の名前もね」ヘクターが腕を組む。少し顎を引き、ふうっと息を吐いた。鋭敏な探偵さながらに、どんな小さな謎も見逃さまいとする強い意志が宿った目を、エミルに向けていた。
「どうして犯人の名前を知っていたんですか?彼、知り合いだったんですか?それとも本人が名乗ったとか?」
王様殺しの事件について、ヘクターは、ある結論を出した。士官学校を目指す途中で、それを話してくれた。
「もし、エミルが嘘をついているとしたら、どうだろうか」と。
すなわち「ユウト」という人間など存在しない、ということだ。
突拍子もなく、何を馬鹿なことをと一蹴されそうな考え方だが、彼の顔は至って真剣だった。「ユウト」とは、エミルの生み出した架空の人物。この世界には決して存在しない者の名前だ、というのだ。
そして、ここからが僕の推理の本題なんだけど、とヘクターは言葉を続けた。
では、なぜエミルは嘘をついたのか、だ。
その答えは、アイナにもすぐにわかった。いや、もしかするとアイナ自身、本当はそうなのではないかと疑っていた。かもしれない。
ただ、時期が悪かった。王様殺しの事件が起きた日、その前の晩に、アイナは地下牢にいた例の黒い髪の少年の脱獄に、直接的ではないにせよ手を貸していたのだ。ドロシーをあの地下牢に案内していた。
「ここから出してくれ……」
少年の声が、耳の奥に響いた。
言い訳をするなら、彼が本気で脱獄を企てているのか半信半疑だった。
しかし、彼の意志の強さが、正義に向かって進む心が、アイナにはしっかりと伝わっていた。それは、レオニールやヘクターのような、騎士として、人として見上げるべき心だった。立派だと思った。自分にはない気高い精神だった。
だから、彼を見逃した。
それは、リレーでバトンを託すような思いで、アイナは彼に、己の正義を託した。そんな気になっていた。
少年が脱獄した、そのすぐ後に、王様が殺されたと聞いた。
彼がやったのだと直感的に悟った。信じた正義に裏切られたような気分だった。
その自責の念が強く胸の内に滞在していたため、事件の真相を見抜く活力を失っていたのかもしれない。もっとも初歩的な推測を怠っていた。
つまり、ヘクターが言いたいことは、こうだ。
王様を殺したのは、他でもないエミルだ。
そして、他の者に罪を着せようとした。
動機はわからないが、いつまでも王宮に仕えていることへの不満、加えて、他の者のようにいつ解雇され、見捨てられるのかという不安や恐怖、それらが募りに募って溢れた。彼女の心の器から溢れ出した。といったところだろうか。
推測した事件の流れを、ヘクターは簡潔に説明した。
エミルは王様を殺してしまった。すると何の偶然か、ちょうど同時期、地下牢から黒い髪の少年が脱獄した。そして、それをエミルは目撃した。
エミルは考えた。彼に罪を着せてしまえばいいのではないか。自分自身が事件の第一発見者になり、証言してしまえばいいのではないか。脱獄した彼を王様殺しの犯人にしてしまえばいいのではないか、と。
悪い予感は、当たるものだ。
ヘクターの場合は、特にそうだ。
ただそれは、単に彼の勘がいいのではなく、洞察力や思考力、推理力が優れているからこその賜物であり、故に、彼のことをよく知っている人間ほど、彼の予感には信頼できるものがあると理解していた。
だから、ヘクターのその推理もあながち間違いではないのだろうと、アイナは思った。
「私は、対面した相手の力を見抜くことができる魔法が使えます」
エミルは、両手の指を交互に重ね合わせ、そのうち、親指同士を擦りながら、そっと言った。
「相手の素性や能力、過去に至るまで、そのすべてが、見えます」
「ああ、あれだ。巷で流行っている占いとかっていうやつ」
「同じようなものだと思っていただいて結構です。この力を持つためか、先見の明があるとレグルス王にも気に入っていただきました。ただ、私の魔法は、相手の現在やこれまでを知ることが精一杯で、たとえば、その者がこれから経験することであったり、未来であったりを予知できるわけではないんですけどね」
エミルが自嘲気味に言う。似たようなやりとりを何度か経験しているのだろうか。慣れたものだ、といった余裕が声色の中に垣間見えた。
「じゃあ、その力で、現場から逃走する犯人の名前も知ることができたというわけか」
「ええ、その通りです」
にわかには信じられなかったが、そんな幼稚な嘘をわざわざつくとも思えなかった。
「僕は、あなたが嘘をついているんじゃないかと疑っているんですよ」
ヘクターが、堂々と言った。
追い詰められた犯人がどういった行動に出るかは予想できない。開き直ってすべてを語るか、あるいは、自暴自棄になって襲ってくるかもしれない。
仮にエミルが犯人だとしても、そうじゃなったとしても、今ここで、彼女に向かって直接訊ねるのは得策ではない気がした。
ヘクターの方を見る。怯むことなく、まっすぐにエミルを見つめていた。肝が据わっているなとアイナは感心した。
「そう、思うのが普通でしょうね」
意外にも、エミルは落ち着いていた。
本当に犯人ではないからなのか、はたまた、王様を殺した事実はあるが、まだ何か策を弄しているからなのかはわからないが、とても冷静だった。
真実がどうであったとしても、疑いを掛けられたことに対して、無礼者だと叱責されるとか、何かしら反発してくるものだと思っていたが、それもなかった。命の輝きが灯っていない空虚なものが、彼女の瞳の奥に見えた気がした。
「私が犯人を目撃したのは事実ですが、それを証明できる者は私しかいません。もちろん、私が王様を殺したという可能性だって、ないわけではありません。実際、あなたたちはそう思っているのでしょう?」
一瞬、押し黙った。心のうちをあっさりと見透かされたような妙な気分だった。彼女の言った、相手の力を見抜く魔法というものを使って、心の中で考えていたことを読み取られたのか、と思った。
「だとすれば、どうしますか?何か、あなたが犯人じゃないという証拠を見せてもらえるとありがたいのですが」
「いいえ、それはできません。私の言葉を信じてもらうしかない。ただ、それだけです」
「それなら、王様殺しの事件について、何か決定的な進展が望めるまでの間、あなたのことを監視していても構いませんか?」
ヘクターが強気に言う。この男は恐れというものを知らないのか、とアイナは思った。たとえエミルが犯人だとして、それを疑っていることを知られると警戒されるに決まっている。
それに犯人じゃないとわかれば、仮にも王宮魔術師であり王様の側近であったエミル本人の前で、あなたに疑いをかけていると告白したのだ。不敬に値するとして、何かしらの処罰を受けることになるだろう。
何か考えがあっての行動なのか、それとも先のことまでは深く考えていないのか。
おそらく後者に当たるのだろう。ヘクターは、人一倍正義感の強い男だ。平和のために、この国のためになら自分の地位や立場など簡単に手放すことができる。それだけの覚悟がある人物だった。無鉄砲な考え方かもしれないがそういった心が、世界を正しい方向へと導くのだとアイナは強く信じていた。
自分はどうだろうか。ふと、考える。
かつての過ちを悔いて、後ろばかりを見ていた。過ぎたことをいつまでも追いかけて、人生という長い道のりを逆向きに歩いていた。光は見えない。道の先にあるものは、かつて自分が捨ててきた闇の塊ばかりだ。
それじゃ駄目なんだよ、やっぱり。
父のような、兄のような、ヘクターのような、真の正義でありたい。
正義とは自分一人、ただそれだけなのだ。欲望に素直になるのだ。自分を正しいと信じて疑わない心こそが、真の正義なのだから。
「問題はありません。私としても、事件について、早急な解決を望んでいますから」
顔色を変えることなく、エミルは言った。
「それは、私たちも同じです」
「そのためにも早く、ユウトを見つけ出してください」
「彼に会えば、すべてがわかる」
「ええ、彼を捕まえることができれば、すべてが、終わるのです。頼みましたよ」
心なしか、エミルの言葉の裏に、黒い何かが揺れ動いた気がした。
それは、彼女の正義なのだろうか。だが、とても正しい心のようには見えない深淵のような闇色であることを、アイナは感じ取っていた。
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