ユーリ 6

「大変だ、村に火が放たれた」

 ドロシーの声で目が覚めた。

 頭の中で爆発音が響く。寝起きは、調子が上がらない。そのせいかひどい耳鳴りがした。気がした。

 音は現実のものだった。派手な目覚まし音というわけでもなければ、まどろみの中で聞いた子守り歌でもない。

 顔をしかめる。村の広場の方から聞こえた音だとわかるのに、時間がかかった。森の神様の怒号が、聞こえてくるようだった。

 ユーリは飛び起きる。急いで窓の外の見る。立ち上る黒い煙と、燃え上がる真っ赤な炎が視界のすべてを奪った。再び、爆発の音。近場だった。捨て去ろうと努めていた記憶が、忘却の彼方から蘇ってきた。王都の惨劇が、脳裏をよぎる。

「ユーリ」

 部屋の扉が勢いよく開き、レオが顔を見せる。

「レオ。状況は?」

「戦えるかどうか、それを聞きに来た」

「敵は?」

「一人だ」

「たった一人だけか?」

「ああ。やつは一人で十分らしい。ユートピアだ」

 全身の毛が逆立つような寒気がした。続けて、自分の中に潜む獣のような殺気が湧き上がってくるのを感じた。本能的なそれとは少し違ったが、それでも、確かな邪悪に塗り固められた悍ましい感情だった。復讐を果たすという力強い意志だった。

 とても乗りこなせるとは思えない。暴走してしまうのではないか。ユーリ自身、自分の体を侵食しつつあるこの闇が、魔女の存在と同じくらい恐ろしく感じていた。

「ユーリ、これを」

 レオから剣を受け取った。鞘から抜くと、黒い剣身に自分の顔が映り込んだ。不安に駆られ、恐怖に慄いた弱気な顔つきだった。

 顔を振り、臆病に映った自分を消し去る。

 渡された剣は漆黒のオーラを放っていた。レオが持っていたのとは、違うもののようだった。

「それはヘクターの使用していたものだ。お前が使うといい」

 ユーリは何も言わず、剣を鞘に戻した。

 レオがどんな思いでこの剣を渡してきたのか。深く言及する必要はないだろうと思った。余計な詮索はしない。それよりも、今の自分には他に優先すべきことがあるだろう。そう言い聞かせた。

「ユートピアは、どこにいるんだ?」

「来い」

 レオの後に続いて、宿を飛び出す。

 村はひどい有様だった。見ると、近くにある家はすでに焦げ落ち、炎は村のあちこちに広がっていた。夜の静けさや寂しさを焼き尽くすほどの勢いのある灯りのようだった。

 村を囲う木々は轟々と音を立て、夕日よりも真っ赤な炎に包まれていた。

 逃げ場がない。ユーリはドロシーの姿を探した。先ほど彼女の声が聞こえた。どこに行ってしまったのだろうか。

「ドロシーは村の皆を非難させている」

「じゃあ、ララティアさんたちは無事なのか」

 ユーリは、ほっと安堵の息を吐く。

「他人の心配をしている場合じゃない……見ろ」

 レオの指した先に視線をやる。

 林冠にまで燃え上がる炎、それを纏うかのようにして空に立つ何者かの姿があった。

 月を背にし、浮遊していた。炎に照らされた赤い目で村を見下ろしていた。この世界のものとは思えない異形の存在にも感じるほど迫力のある眼光が、ユーリに鋭く刺さる。

「やつが、ユートピアだ」

「あいつが……」

 ユーリの声は震えていた。圧倒的な存在を前にして怯んでしまったからなのか、復讐すべき相手にようやく出会えたと浮かれていたからなのかは自分でもわからない。

「そこに、人間がいるな」

 空から声が降ってくる。夜空を裂く、その力強い声の主はユートピアだった。

 白銀の髪が夜風に揺れていた。一見、端正な顔立ちをした美人の女性とも思えるが、ユーリの目には、彼女の内から滲み出る魔女としての力か、ユーリ自身の殺気のせいで、怪物のように物騒なものにしか映っていなかった。

 ユートピアがゆっくりと地上に降り立つ。

 天から遣いが来たのだと見紛うほどに神々しい雰囲気だったが、その正体を知るユーリとレオにとってみれば、神を殺して堕ちてきた悪魔だ。災厄そのものだった。

「村の者は非難したようだぞ。貴様らは逃げないのか」

 挑発するような言い方を、ユートピアはした。

「お前を止めるために、ここで退くわけにはいかない」

 レオが応える。

「そうか。では、そちらの男は?」

 ユートピアが、ユーリを見た。

「僕はお前を殺すために、ここにいる」

「不可能に挑むことを美徳とする人間特有の奇妙な感性か。なるほど。私にはわからん感情だが、叶うといいな」

 ユートピアは、眉一つ動かさず言った。

「あんたが王都を崩壊させたからここまで追ってきたんだ。復讐を果たすために」

「王都。ああ、あの街か。なるほど、貴様はあの街で生き残った者というわけか。運がいい男だ。その命、大切にするといい」

 そう言って、ユートピアはどこかへ去ろうと、ユーリたちに背を向けた。

「待て!」

「早まるな人間。私にはまだこの世界を破壊する役目が残っている。それが終わった後でちゃんと殺してやるから、今のうちに残された生を謳歌しておけ」

 その言葉を聞いた途端、ユーリの中で、何かがプツンと切れたような感覚があった。

 目の前にいる魔女が憎い。故郷の街を破壊したユートピアのことが、心底、憎い。

 生まれた時から王都の街で暮らしていた。この世界でもっとも安らぐ場所は母と過ごす我が家なのだと、ユーリは信じて疑っていなかった。

 そんな心の平穏をユートピアは奪ったのだ。

 それを気にする様子もなく、王都を襲ったことを仕事のように、今度は世界を破壊するのだと言い放ってみせた。朝起きて顔を洗うのと同じことのように、日常を当たり前に過ごすような感覚で、破壊を行うと言った。

 もはや確定事項だと言わんばかりの、そのやたらと落ち着いた口調に、ユーリは吐き気がした。この魔女ならばやりかねない。冗談ではない。王都を一瞬にして焼き払ったほどの力を持つ存在なのだから。

 憎悪、殺意、興奮、そういったものたちがユーリを満たしていた。恐ろしさなど、もうない。心の繊細な部分を食い破る負の念に、快楽さえ感じ始めていた。

 気づけば、レオから受け取った剣を手に、ユートピアに向かって飛び掛かっていた。

「そんなに死にたいのなら、その願い、私がクラウンに代わって叶えてやろう」

 ユートピアが、正面に手を伸ばした。

 ユーリに向けられた指先に魔力の輝きが集まり始めた。それを目撃した瞬間、ユーリの頭の中に「死」という言葉が、力強く映し出された。

 あっけなく、終わってしまう。求めていたものをようやく見つけたというのに、ここで終わってしまう。

 不思議と、後悔の念はなかった。

 死んでしまった後は、どうなってしまうのだろうか。

 昔、読んだ本に、人間は死んだ後、魂という目には見えない存在に変わり、世界を彷徨うのだとあった。

 それは自分という存在を失い、途方のない旅をするということなのだろうか。

 王都の街で味わったあの絶望を繰り返すのかと思うと、ぞっとする。魂となった後でも意識は残っているのだろうか。

 かつての友人や母の魂とも触れ合うことはできるのだろうか。

 どんなに暗い地の底であろうと、一人でないのであれば怖くはない。むしろ、またみんなと会えるのならば、それも悪くはない。死ぬことは、悪いことではないのでないか。そんな複雑な思いが、夜風のように涼しく脳裏を通り過ぎていった。

「あれ、どうしたの?そんな今にも泣き出しそうな、子供みたいな顔をして」

 目の前に、ドロシーの姿があった。

 隣には、レオが立っている。呆然としているのか、言葉はなかった。

 見ると、ユートピアに向かって走っていたはずが、いつの間にか元の位置に戻っていた。

 ユーリの頭の中は混乱していた。何か言い出そうとしたが、言葉は見つからなかった。その様子を見て、ドロシーは嬉しそうに笑った。

「間一髪だったね。あれをまともに受けていたら、文字通り、消し炭になっていたかもよ?」

 ドロシーが、二人の背の方を指す。

 振り返り、視界にとらえた景色に、驚愕した。

 先ほどまで、リフナ村にいたはずだ。ユートピアが現れたことで、村は、かつて王都を襲ったのと同じ炎に侵されていた。はずだった。

 だが、そこには何もなかった。

 灼熱に染められた大地と黒煙に飾られた空。それ以外に何もなかった。何も残されていなかった。

 村のあった場所なのだと、その面影さえない。殺戮の赤と絶望の黒に満ちた世界。そんな恐ろしい世界だけが、ユーリたちの前に広がっていた。

「村は……」

「消えたね。いや正確には消し飛んだ。うん?消し飛ばされたの方が正しいか」

 ドロシーは笑っていた。不快感を与えない、爽快な声だった。魔女からしてみれば、なんてことはない、ただの光景なのだろうか。

 怒りや哀しみを捨てた慈悲なきモンスターと、対話しているような気分だった。

 正面に視線を戻すと、ユートピアがいた。感情の読めない顔をしていた。破壊を楽しんでいる様子もなく、喪失感に心を痛めている様子もなかった。

「貴様は」

「やあ、ユートピア。こうして顔を合わせるのは、初めましてだよね」

 ドロシーがユーリとレオの前に立ち、楽しそうに言う。まるで何年も連絡を取り合っていなかった友人にばったりと出くわしたかのように、自然を装って。

「ドロシー、空間を飛び越える力を持つ魔女か。なるほど。その力で、そこの人間たちが私の力で消滅するより一瞬早く移動させ、守ってやったということか」

 初めてドロシーと出会った時もそうだった。彼女は何もないところから、突然、姿を現した。

 今も同じようなことが起きたのだろう。

 ユートピアの手から発せられた衝撃波のようなものがリフナ村を災厄の炎ごと消し飛ばし、森の中にこもった煙を空の上に追いやった。

 それに巻き込まれずに済んだのは、ドロシーのおかげだった。

 彼女がユーリとレオの体を自分の生み出した空間に引き入れ、守ったのだ。それは、一瞬の出来事だ。二人の魔女による、戦いの一端だった。

 魔女の力と、魔女の力。そこに人間が立ち入ることは、果たしてできるのだろうか。

 想像を絶する力を持つ者同士のぶつかり合いに、声を上げる暇もなかった。叶わぬ野望なのではないか。たったの一瞬で、そう思ってしまった。たった一呼吸、瞬きをする間に、世界から、希望の光が消失した。

 倒せない。どうやったって、殺されるのがわかる。感覚として、わかる。

 隣に立つ、レオを見る。

 剣を握った手に力が入っていた。小刻みに震えている、それがわかるほど、強い力が込められていた。

 恐怖を感じるタイプとは思えない。ならば、悔やんでいるのだろうか。自分には、決して勝てない。今、手にしているこの剣を、やつの体に突き立ててやることができない、と。

 レオも、ユーリと同じように、いざユートピアの力を目の当たりにし、体験したことで、人間と魔女との間にある、この虚しいほど確かな力の差を知ってしまったようだ。

 しかし、ユートピアを睨む鋭い目からは、まだ光が失われてはいないように見えた。希望を捨てていない者の目をしていると、ユーリは感じた。

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