アイナ 6
「もしマーベラスの話が本当なら、僕たちはとんでもない勘違いをしていたことになる」
走る馬車の中で、アイナに向かってヘクターは言った。
急ぎの用だと御者に頼み込み、できるだけスピードを出してもらっているため、時々、体が跳ね上がるくらいに車は上下に揺れていたが、さほど気にしていない様子だった。
深刻そうな面持ちで、広大な大地の空に怪しげに輝く月を眺めていた。
「彼女、魂を操ることができるって言ってたわよね」
少し前、アイシャのラボを訪れた時、そこで待っていたのは魔女を自称する「マーベラス」という名の少女だった。彼女は魂を司る魔女だと言っていた。魂という曖昧なものに干渉できるのだ、と。
魂というのは人間の中に眠る真の部分であり、その人物の生きている証のようなものだ。そういった教養程度の知識はあったが、聞いた様子だと、彼女の言うそれとは、とらえ方が違うような気もした。
「ちょっと聞いた話を整理してみるよ。つまり、彼女の力で人間の魂を他の人間の体に入れることができる。そうすることで、記憶は魂に刻まれたものをそのまま、体は別の人間が誕生するってわけだ」
ヘクターの前髪を弄るその仕草は、真剣に考え事をしている時の彼の癖だった。
「ここで問題になるのが、例の地下牢の少年だ。あの少年、アイナちゃんから見た感じだと、黒い髪と目をしていたんだってね。そんな人間、この辺りでもかなり珍しいし、世界中を探し回っても滅多に見つからないよ。でも、王様を殺した犯人の人物像と一致している。肩に痣があったかどうか見ていないかい?」
「暗くてよく見えなかったわ。それに拷問でも受けていたのかしら、彼、体中が傷だらけで、かなりボロボロだったわ」
私と同じくらいの歳だったのに、可哀そうに、と続けると、ヘクターも同情するような眼差しを、足元に向けた。
「名前が『ユウト』だったよね。レオニールさんの推測だと、例の地下牢の少年と指名手配されている彼は別の人物だってことだけど、もしかしたら、ある意味では同じ人間なのかもしれないね」
「マーベラスの話を聞いた感じだと、その可能性があるってことよね……」
マーベラスは、自分のことを魔女だと言い張り、アイナたちの前で、その人間離れした力を見せつけた。
彼女は人間の魂に関与することができるらしく、アイナたちも抗うことのできない得体の知れない力を身をもって味わった。
彼女曰く、人間の魂を他の人間の体に入れることができる力もあるらしい。実際に、その力を見せてはくれなかったが、自慢げに語る様子は親に自分の成績を語る子供のようで、愛嬌があった。
「地下牢の少年が脱獄したすぐ後に王様殺しの事件は起きた。つまり、流れはこうだ。例の少年が脱獄をする。すると何らかの縁があって、マーベラスがその少年の体に、ユウトという人間の魂を入れる。そのユウトが王様を殺す。それを目撃され、少年は『ユウト』の名で指名手配される、と。あれ、ちょっと待てよ」
ヘクターの表情が曇る。
視界が少し暗くなったような気がした。馬車の窓から外を見ると、月が雲の陰に消えかかっていた。
「王様を殺したって言われている少年——指名手配されている彼は、どうして名前が割れているんだ?」
「言われてみれば、そうね」
「王様が殺されたという衝撃で細かいことには目を向けていなかったけど、よく考えてみれば、おかしなことじゃないかな。犯人の目撃者は誰だった?」
「エミルよ、王宮魔術師の。二年前にふらっと王宮に現れて、王様にとても気に入ってもらえた子よ。すぐに側近になったそうよ」
妬いているわけではないが、アイナは含みのある言い方をした。
「ああ、彼女か……あまり話したことはないけど、変な子だよね。いつも不機嫌そうな顔をしているし、この前、城ですれ違った時に挨拶したんだけどね。無視されちゃったよ」
ヘクターは清々しく、笑い飛ばした。
エミルはフードのついた大きなコートに身を包み、素顔を拝むことができる機会はほとんどない。そもそも、あまり人前に顔を出さない性格であり、騎士として王宮を訪れた時くらいにしか遭遇することもなかった。
ヘクターの言う通り、根暗な印象が強い。いつも小声で話すし、周囲の人と一定の距離を保とうとする。他人と馴れ合おうとしないその無愛想な性格が、アイナはあまり好きではなかった。
「エミルは、どうして王様を殺した犯人の名前を知っていたんだろう?」
「犯人と直接、話したのかしら」
そんなことはないだろうと頭の中で思いつつも、アイナは言う。
「犯人が自分で名乗ったってことか。でも、そんなことあるのかな?」
「まあ、ないでしょうね」
「それともドロシーから聞いたとか?彼女、例の黒い髪の少年――つまり、ユウトを脱獄させた後、一緒に行動していたんでしょ?」
「そこまではわからないわ。あの夜、私はドロシーを城の地下牢まで案内しただけなの。どうやって彼を連れ出したのか、詳しくは知らないわ。でも翌朝には王様が殺されていた。たった一晩のうちに、二つの事件が起きたのよ。私は自分がとんでもないことをしてしまったのだと思ったわ」
「なるほどね。まあ、とりあえずはエミルだ。彼女に話を聞く必要があるね」
アイナは無言で頷いた。
ただアイシャから情報を受け取ってくるだけの任務だったのだが、思わぬ収穫だった。結局、例の黒い髪の少年についての情報は何も教えてもらえなかった。もともとそんな情報はなかったのかもしれない。ただレオニールを呼び寄せるための口実にすぎなかったのだろう。アイシャも留守にしていたし、日を改める必要があるかのように感じた。
馬車が王都の門をくぐった。
門兵の騎士たちと挨拶を交わす。夜勤は辛いと愚痴をこぼす彼らに労いの言葉をかけ、愛想笑いを浮かべた。
東区にある馬車乗り場で下車し、レオニールの待機する士官学校へと急いだ。
王都の街並みが――パトロールをする時によく通る道が、いつもと違って見えた。街全体に霧でもかかっているのだろうか。視界がぼやけているようで先の見えない恐怖のようなものが潜んでいると感じた。
王都の街は背の高い建物が多いため、夜になると黒い影に覆われる。街灯の輝きと月光だけが、道を照らす導となっていた。
ヘクターの方に目をやる。険しい表情をしていた。戦いを見据え刃を研ぐ達人のような、殺しを目前に控え深呼吸する暗殺者のような、空恐ろしい目つきだった。
「どうかしたの?」
「いや、なんとなく嫌な予感がして」
「嫌な予感?」
ヘクターの悪い予感は大抵が当たる。何を考えているのか、アイナは知りたくなった。
「それと、気になることがあってさ」
「何が気になるの?」
「マーベラスのことを考えていたんだ。魂を人間の体に入れることができるっていう力のことをね。それで僕たちの想像の通り、あの地下牢にいた少年の体にユウトという別の少年の魂が入ったとしよう。でも、それなら他に疑問が出てくる。マーベラスは、そのユウトという人物の魂をどうやって手に入れたんだ?そして、今、ユウトの体はどこにあるんだ?彼の体に入っている魂は誰のものなんだ?」
もっともな疑問だと、アイナは思った。マーベラスは魂を司る魔女で、人間の魂に触れることができる。しかし、それは生きている人間から魂を抜き取ることができるというわけではない。あくまで、死んだ人間の魂を捕まえ、管理する程度だと教えてくれた。
つまり、マーベラスが手にする魂――その人物は、もともと死んでいなくてはならない。ということだ。
それならば、疑問はもう一つある。
マーベラスが、ユウトという人物の魂を持っていたとするなら、ユウトは、一度、死んでいる人間なのではないか。
アイナは夢のことを思い出す。
森の中で獣の群れに襲われ、逃げ惑うあの夢だ。
どこかで見覚えがあったかと思っていたが、うっすらと記憶が蘇ってきた。夢の中でアイナを救ってくれた人物――彼が、地下牢に囚われていた少年と、似ていたのだ。
この世界には、兄弟姉妹、家族以外でも、よく似た人間が存在しているという。
まさか、という考えが脳裏を走り抜ける。彼らは同一の人物なのではないだろうか?
「もし、同じ人物だとしたら、どうするの?」
アイナは、自分で自分に問いかけた。
そして考える。何も思いつかない。どうすればいい?どうすることもしない。それが答えのような気もした。
空を仰ぎ、月を見る。地面を蹴る。レオニールの元に急いだ。
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