アイナ 4
「アイシャって、誰だっけ?」
隣の席に座るヘクターが、決まりが悪そうに苦笑いを浮かべた。
アイナは、はあ、と息を吐く。騎士としての腕は確かに本物なのだが、たまに抜けているところがある。もっと自覚してほしいものだと思った。
「アイシャは、一時期、私たちと協力関係にあった研究者よ。王宮に所属していたこともあったわ。ある時、姿を消してからまったく見かけなくなったけどね」
歴史に関する本を出した人よ、と付け足す。ヘクターが、そうだった、と後頭部を掻いた。
彼女の本を、アイナは実際に目にしたことはなかったが、当初、王都でも話題となったことは知っていた。世界の核心に触れている画期的な書物だと各方面から大げさに騒がれていたからだ。世界の成り立ちを暴くヒントになるぞと一人で盛り上がっていた団員のことを思い出す。
王都の歴史の中の王宮が隠している深い部分まで読み解いてしまったことが災いして、王宮での研究者としての立場を追いやられてしまったのではないかと、団員たちの間で噂が流れたことがあった。
そんな出来事もあり、その名を知る者は多い。ヘクターのようにド忘れすることなど、本来ならあり得ないほど有名な人物だ。
「王宮を離れた後も、時折、連絡は取り合っていた。今はスピカの森のどこかで研究に打ち込んでいるようだ」
向かいに腰掛けたレオニールが言う。腕を組み、瞑想するように目を閉じている。
入店し、席についてすぐに注文したコーヒーはまだ届いていなかったが、気にしている様子はなかった。
「スピカの森。東の方にある、あの巨大な森のことですか?」
ヘクターが、とぼけた声を出す。
「ああ、そうだ。スピカの森の深部にある巨大な木の近くに住んでいるらしい。詳しくは知らないが、そう聞いたことがある」
アイナたちの席に、三人分のコーヒーが運ばれてきた。頼んでから随分と経つが、湯気はしっかりと立っていた。
ミルクの入った小さな食器に一瞥をくれ、アイナはコーヒーのカップを手に取る。それから、冷ますためにと念入りに息を吹いた。
「アイナちゃん、熱いの苦手なの?」
からかうような言い方を、ヘクターがしてきた。
「まあ、ちょっとね……」
「意外だな。こう言っちゃ失礼かもだけど、ちゃんと可愛らしいところもあるんだね」
「ええ、とっても失礼ね」
アイナはわざと不機嫌そうな言い方をしてみせた。ヘクターは、ごめんね、と苦笑する。その平気で人を誑かそうとする癖もどうにかならないのか、とアイナは思った。
ヘクターには天然たらしの一面があると、アイナは気づいていた。相手のことを気遣い、彼なりに丁寧に接しているつもりなのだろうが、それが逆効果にもみえる。
美しく整った顔と、身を委ねたくなるような甘い声に心を奪われる女性も多い。彼と共に王都の街をパトロールしていると、そういった、彼に会うことを目的としたファンに声を掛けられ、時間を取られることはよくある。
実際、それが彼の魅力なのだろうが、本人が無自覚であるのだから、たちが悪い。将来、女性との関係に苦労するぞ、といつも思っていた。
そして、その時は思い切りからかってやるつもりだった。
良き友人の一人として、相談に乗りつつ、彼の困り顔を拝むことができる日がくるのが、そうやって呑気に笑える日がやってくるのが密かに楽しみだった。
「それで、レオニール団長。そのアイシャって人がどうかしたんですか?」
話を逸らそうとした素振りはなく、ヘクターが言う。
「先ほど、アイシャから連絡が届いた」
「いったいどんな?」
「例の黒い髪の少年について、情報を提供するから来てくれ、と」
「それって、王様殺しの犯人ですか?それとも……」
ヘクターと目が合う。彼の言わんとしていることが、アイナにはわかった。
王様殺しの犯人として手配されている「ユウト」という名の少年。そして、地下牢に囚われていて、アイナが脱獄を手助けした少年は、確かに外見的特徴は似ていた。しかも、彼が脱獄したその後で、王様殺しの事件は起きた。
普通に考えれば、この二人の少年は同一人物であり、アイナが少年を逃がしたことにより事件が起きたのだと推測できる。だから、アイナは責任を感じていた。
しかし、彼らは別々の人間だというのが、レオニールの見解だった。
彼には真実を見抜く力があった。レグルス騎士団としては、これらは別々の事件であるとして捜査を進めており、王様殺しの犯人と脱獄した少年は違う人物だという共通の考えを持っていた。
「わからない。詳しいことまでは教えてもらえなかった。だが今回、アイシャが王宮を離れてから初めて、我々との接触を求めてきた。いつもと違う何かがあるのかもしれない」
レオニールが、二人を交互に見た。
「そこで、二人に頼みたいことがある」
「レオニールさんの頼みなら、僕、何だってやりますよ」
聞くより先に、ヘクターが言う。
「アイシャに会い、その情報を手に入れてきてほしい」
「わかりました」
ヘクターが握りこぶしを高く掲げ、立ち上がる。僕たちに任せてください、と揚々と意気込んでいた。
「アイシャから、場所の指定とかはなかったの?」
「彼女のラボだ。スピカの森の奥深くにある『コユグの木』が目印だそうだ。その辺りに研究施設としてのラボを構えているらしい。行けばわかると言っていた。とにかく、まずはコユグの木を目指してくれ」
「コユグの木って、どこにあるのかしら。ヘクターは知ってる?」
「ううん、知らない。具体的にどこにあるんですか?」
二人はレオニールの方を見た。
「これを持って行くといい」
レオニールが、水晶のような半透明の球体をヘクターに手渡した。
「オーブ?でもこれ、何のオーブなんですか?」
ヘクターは受け取ったオーブを持ち上げたり、手の上で回したりしていた。
「アイシャが王宮を離れる時に置いていったものだ。いつか使い道があるかもしれない、とな。アイシャのいる場所を輝きで示してくれる特殊なものだ。これを持っていれば、彼女のおおよその位置が掴めるだろう」
「妙なもの持ってますね、あの人」
「とにかく、これで大体の居場所はわかるわけね」
「二人とも、任せたぞ」
揃って返事をする。ヘクターと顔を合わせ、頷く。
ヘクターが突き出した握り拳に、アイナも拳を当て、返した。僕たちなら大丈夫だと、彼の目が語っていた。
――――
「昨日、アイリスがうちを訪ねてきたわ。渡したい物があったみたいで」
ヘクターが出発準備をするためにと、一度店を離れた隙を見計らい、アイナはレオニールに昨晩の出来事を話していた。
「渡したい物?」
「これよ」
アイリスから受け取った赤いブローチを、テーブルの上に置く。
「それは……」
「お父さんが大切にしていた、お母さんの形見のブローチよ。今じゃお父さんの形見でもあるけどね」
レオニールは、そうか、と意味ありげに呟いた。
「……ねえ、兄さんは知っていたの?」
コーヒーに口をつけ、一呼吸おいてからアイナは訊ねた。
「ああ、アイシャから聞いていた。元騎士団様はアークの地に眠ったぞ、と一報届いたことがあってな」
「相変わらずというか、嫌な言い方をする人ね」
アイシャには、あまりいい印象を持っていなかったことを思い出す。
人のことをぞんざいに扱っているというか、自分と自分の研究以外に興味を示さない、そのぶっきらぼうな態度が、アイナはどうも苦手であった。
「他人に興味がないだけだ、気にすることはない。そういった人間もいるということだ」
「だとしても、あれは結構ひどいと思うけどね。兄さんも不愛想なんだから、同じ風にはならないでよね」
「ああ、善処しよう」
「そういうところを直してほしいんだけど……」
レオニールには聞こえないように、そっと呟く。
空になったコーヒーのカップに視線を落とす。この話題を自分から切り出すのには、少しばかり勇気のいることだと思った。
まだ、気持ちの整理ができていないというか、なぜか不安な気持ちばかりが募っていた。
「……お父さん、アークに行ってたんだね」
俯いたままま、アイナは言う。
「ああ、アークに妙な動きがあるという情報が入ったんだ。見知らぬやつだったが、嘘をついている様子はなかったからな、念のためにと調査に向かった」
「知らない人?それもアイシャからの情報じゃなくて?」
「いや、ドロシーという名の少女からの情報だ。大きな三角帽子を被った、魔女のような恰好をした少女だった」
「ドロシー」
王都で出会った、いつかの少女を思い出す。
城から帰る途中、夜道を歩いていた時に後ろから声をかけられた。聞き覚えのない声に警戒しながら振り返ると、彼女はいた。
暗闇から這い出てきた魔物のような、得体の知れない不気味な雰囲気をした少女だった。耳元で囁く悪魔を思わせる甘い声が聞こえた。
「やあ、僕の名前はドロシーだよ。ねえ、キミに頼みたいことがあるんだけど」
瞬きすると、少女の姿が消える。店内に戻ってきた。レオニールと目が合った。
「知り合いか?」
「いえ、知らないわ……」
兄の前で嘘をついたところで、簡単に見抜かれてしまうことは承知していた。しかし、彼女の素性を知らないのは本当のことだった。
「兄さんは、ドロシーと知り合いなの?」
「いや、知らない。会ったことがあるのも、彼女が情報を提供してきた時の一度だけだ」
「ヘクターから、聞いたんだけどさ」
レオニールの口からドロシーの名が出た時から、昨日、士官学校からの帰り道に、ヘクターの言ったことが頭に浮かんでいた。
「昨日の昼間、士官学校での集まりより少し前、兄さんと見知らぬ少女が、城にいるのを見たんだって」
「俺が……?」
レオニールが訝しげに眉を曲げた。アイナには他人の嘘を見抜く力はなかったが、自分の兄が嘘をつく人間だとは思っていない。
しかし、秘め事がある様子がないのであれば余計に混乱する。ヘクターの言っていた人物は誰だったのだろうか。
「大きな三角帽子とローブを身に着けた、魔女のような恰好をした少女なんだって。兄さんが会ったことのある、そのドロシーと同一人物じゃないかしら」
ついでに、自分が出会った少女も、と心の中で呟く。
「ああ、それはドロシーで間違いないだろうが、一緒にいた人物が気になるな。ヘクターとは長い付き合いだ。おまけに、あれでもよく周りを見ている。一瞬、見かけただけとはいえ、俺の姿を見間違えるとは思えない」
「じゃあ、やっぱり兄さんじゃないの?」
アイナは口調を強くして訊ねる。
「ああ、違う。あの時、俺は用があって王都を離れていた。城の中で見かけるのは、あり得ないことだ」
「でも、それじゃあ、ヘクターが見たのは……」
「俺と似た容姿をした、別の人間なのかもしれないな。聞いたことはないか?この世界のどこかには、兄弟姉妹、家族以外でも、自分と似た、中には見分けがつかないほどそっくりな人間がいるという話を」
「見分けがつかないって、そんなことがあるの?」
言いながら、例の黒い髪の少年のことを思い浮かべる。
王様を殺した「ユウト」という名の少年と、城の地下牢から脱獄した少年もよく似た容姿をしているようだが、別の人間なのだ。容姿がそっくりな人間だっているかもしれない。可能性がないわけではない。
「あくまで可能性の話だ。俺に瓜二つな人間がいてもおかしくはない、ということだ」
「うん、わかった。ただ、ヘクターがそう言ってたのが気になったから、一応、報告しておこうかと思って」
「そういったことがあったというのは頭に入れておこう」
レオニールは、真面目な顔で頷いた。
ヘクターを待っている間は、時間の流れが遅れているように感じた。
こうして兄と二人きりで話すのは、いつ以来だろうか。若干の、緊張感があった。
アイナは幼い頃を思い出す。
昔は、父と母、そして兄とアイナの四人で仲良く食卓を囲っていた。父は騎士団長で、兄は士官学校の優等生だったが、どこにでもある一般的な家庭環境であり、それなりに幸せな暮らしだった。
母を失った、あの時からだった。この平穏な家庭に変化が訪れたのは。アイナは、そう思っていた。
父はいつも以上に任務に明け暮れ、兄は自分にも他人にも厳しくなっていった。父も兄も、顔には決して出さなかったが、心は泣いていた。アイナには、それがはっきりとわかっていた。
だからこそ、変わらなければならないと思った。
アイナの夢は父のような立派な騎士になることだった。いつまでも父や兄に頼ってばかりで、甘えてばかりいては、大切な人を守ることができなくなってしまう。それだけは嫌だった。
アイナは独り立ちすることを決意した。強くなることを、その時、誓ったのだ。
「兄さんはさ、不安とかなかったの?」
アイナは訊ねる。胸の中にある、このもやもやとした感情を吐き出すのは、兄と二人きりの今がいいと思った。
「不安?何にだ」
「お父さんが騎士団を辞めた後、兄さんが団長を務めることになったよね。その時に、団長としての心構えというか、責任というか、そういうのを感じたりはしなかったのかなって」
「なるほど、責任か……」
レオニールは顎に手を当て、斜め上の方に視線を向ける。
当時の心境を思い出しているのか、あるいは、気遣った答えを模索しているのかはわからない。しかし、どういった答えが返ってくるのか、ある程度、予想はできていた。
「団長としての責任というのは俺なりに考えているが、それが理由で不安になったことはない」
「自分の行動が、団長として正しいのかどうか、わからなくなったりはしなかった?」
「何が正しくて何が間違っているのかは、誰にもわからない。自分は正しいと信じるしかない。その辺りは割り切っている」
「そう。やっぱり、兄さんはすごいな……」
アイナは目を細め、微かに笑った。昔からよく知っている、何でもできてかっこいい自慢の兄が、今もここにいるという安心感を噛み締めていた。
「私は時々、不安になるの。自分の行動は本当に正しかったのかって」
例の少年の脱獄に手を貸したことが頭にあった。
「後悔しているのか?」
見透かしたように、レオニールが言う。
「まだ、少し……」
アイナは俯いた。
「騎士として、本当に正しい行いだったのかなって思うことがあって。考えれば考えるほど、間違っていたんじゃないかって怖くなって……」
「騎士として、あるべき姿というのに囚われているな、アイナ」
「うん、そうかも」
アイナにとって、騎士としての理想は父の姿そのものだった。父の行動には間違いがなかったし、何でもやってくれるという頼もしさがあった。だからこそ、騎士というものは常に正しい行いをするものだという考えがアイナの中にあった。
「たまに思うことがあるの。もし、お父さんならどうしたのかなって。もっと上手く解決していたんじゃないかって。兄さんやヘクターなら、何とかしてくれたんじゃないかって。どうして、私だったんだろうって」
あの夜、ドロシーが現れたのが自分の元でなければ、こんな思いをすることもなかったのではないかという考えがよぎる。
「違う、きっと君じゃなきゃ駄目だったんだ、アイナ」
顔を上げる。鋭くキレのある目付きだったが、その瞳の奥には、たしかな温もりがあるように感じた。
「俺は、誰よりも強くなろうと決意した時があった。母を失った、あの時だ。大切な人を守るためには力が必要だと、そう思い込んでいた。レグルス騎士団に入団し、この街を守るために様々な任務を行った。力を認められ、一部隊の指揮官を任され、やがて、副団長となった。だが、ふと周りを見た時、気がついた。誰も俺の隣を歩いている者はいないのだと。目標としている人間は常に前にいて、俺はその背中を追いかけている。慕ってくれる者たちは少し後ろだ。後ろから、いつも俺の背中を支えてくれている。だが、友と呼ぶべき同志は俺にはいなかった。士官学校で共に学んでいた者たちも、入団当初に同じ部隊で活動していた者たちも、いつのまにか俺の傍から消えていた。俺は強くなることに固執するあまり、人としての大切な何かを忘れてしまっていたのだ。だから、俺じゃ駄目だった」
「でも、それなら私だって……」
「いや、君だったからこそだと俺は思う。君は優しい子だ。その優しさは騎士として、人として大切にしなければならない心だ。自信を持っていい。誇っていい。アイナ、君はすでに、誰もが認める立派な騎士なんだ」
大きく息を吸い、吐く。
兄とはいえ、いや兄だからこそなのか、涙を見られるのは少し恥ずかしく感じた。呼吸を整えることで何とかこらえる。吐き出した息は自分でもわかるくらいに震えていた。
「兄さんがそんなことを言ってくれるなんて珍しいね。何かの前触れかも」
からかうような言い方が、精一杯の照れ隠しだった。
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