アイナ 3

 悪い予感は当たるものだ、とアイナは思った。

 玄関先に現れたアイリスを見る。月光を背にして立つ姿は騎士としての輝きよりも、彼女の隠し持つ闇色の雰囲気が際立っていた。

「こんばんは」と、その声には緊張感があった。眉には少し力が入っている。

 わざわざこんな夜遅くに、彼女は何をしに訪ねてきたのか。おおよその検討はついていた。

「こんな時間に押しかけて、すみません。アイナさんと少しお話したいことが」

 いつも見せている柔らかい表情が、今だけは硬くなったように見えた。強敵に挑む心構えをした勇者のような、揺るがない意志を持った目をしていた。

 やはり、気づいていたようだ。アイナの頭にあったのは、昼間、ヘクターに指摘された、地下牢に囚われていた少年のことだった。

「君ほど正義感の強い子が、こんな地下牢に幽閉されている罪人を逃すだなんて」

 ヘクターの言葉が、頭をよぎる。彼の目には、自分は正義感に満ち溢れた立派な騎士のように映っていたのだろうかと、アイナは思った。

 言葉からは、信じていた者に裏切られ落胆したような純粋な失望の念が感じ取れるが、ヘクターの場合だとそうは思わない。憎しみだったり恨みという言葉とは縁のない性格をしているので、他意のないただの感想であることが予想できる。

 それよりも、自分の正義と信じてきた心が誰かに伝わり認められていたのだと思うと、秘密がバレてしまったと焦る気持ちと同じくらい、嬉しくもあった。

 アイリスを家へ招き入る。

 扉を閉めると、すぐ正面に見える広間に案内した。

 ダイニングテーブルに彼女を座らせ、キッチンからマグカップを取ってくる。中に注がれたコーヒーの香りが、室内をあっという間に満たした。それをアイリスの席の前に差し出す。食後にと用意していたものだったが、まだ温かい。天井に向けて立ち上る濃い湯気が、二人の顔を遮るカーテンのように揺れていた。

「いただきます」

 アイリスが、ふうっと数回、息を吹きかけ、マグカップに口をつける。ゆっくりと味わうように、コーヒーをこくりこくりと飲む。その様子をアイナは向かいの席につき、眺めていた。

 邪悪な雰囲気ながらも不思議と目を引く黒い髪と、病的なまでに白く神秘的な美しさのある綺麗な肌。合わせて人間であることを疑ってしまうほど精巧に整えられた顔立ちは、まるで人の手によって作られた人形を思わせるが、太陽にも負けない輝きを孕むその瞳には、彼女の人としての強い意志が垣間見え、一人の人間として、彼女が生きているのだということを認識させられる。

 そして、普段は明るく元気な態度が目立つ彼女だが、心の深いところには何か闇を抱えているのではと錯覚させる表情も、時折、見かける。光と影。外見だけでなく性格の面においても相反する二つの要素が混じり合っていて、このアンバランスさが彼女の魅力であり、人間の持つことが許される最大の美であるようにも思えた。

「ここが、アイナさんの下宿先なんですね」

 マグカップを机に置き、アイリスが言う。

「ええ、本来は宿屋なんだけどね。隅にある小さな空き部屋を使わせてもらっているの」

 言いながら、アイナは天井を指した。

 王都の南区の住宅街、その一角にある二階建ての小さな宿屋。そこが、アイナの現在の家だった。

 宿は横に長い造りとなっている。一階に広間、浴室などが共同のスペースとして設けられており、誰でも自由に利用することができる。

 二階へ上がると、左右に伸びる廊下がある。廊下の右側には部屋が二つ、向かい合うようにして入り口があり、左側には突き当たりに扉が一つの計三つの部屋が使用できるようになっていた。

 アイナが自室として使用しているのは、階段を上った左側の突き当たりにある部屋の、そこからさらに右に曲がることができ、奥にもう一つ用意されている部屋だ。L字型の奇妙な形をした廊下だが、ここの管理人もなぜこうなったのか、詳しくはわからないらしい。とにかくもっとも奥にある部屋を、アイナは使わせてもらっていた。

 しかし宿屋として営業しているものの、利用者はほとんどいなかった。外部からの旅人が時々、訪れることはあるが、それも片手で数えられる程度だ。大抵の人は繁華街が近くにあったり、中央区に簡単にアクセスできる東区のほうに泊まることが多い。

 せっかく設備も整っているのだから、部屋が余るのももったいないということで、アイナが一室を利用させてもらっていた。宿の管理人とは面識があったため、快く許可してくれたのだった。

「管理人の方は、どこかへ?」

「さっき帰ったわ。今、この宿には私一人だけよ」

 言いながら、昼間にもヘクターに似たようなことを聞かれたなと思い出す。

 近くに誰かいないか訊ねてくるのは、他の人に聞かれると困ることを話そうとしているからだ。彼女もきっとその類のことを言いたいのだろう。見ると、アイリスは落ち着かない様子で、マグカップを触っていた。

「わざわざ、私の下宿先まで来て、どうかしたの?」

 アイナは先に切り出す。アイリスが言おうとしていることは想像がついていた。

 だが、彼女が優しい心の持ち主だということも知っていた。誰かを傷付けてしまうと判断すれば、表に出さず、そっと胸にしまう癖があった。だから自然な流れで会話ができるようにと、きっかけをつくってやることにした。

 「相手を傷付けるくらいなら、私一人で、その方の苦しみごと抱えます」と語っていた時は、この子はなんて思いやりに満ちた清らかな心をもっているのだろうと感心したが、そんな性格であるが故に、相手への気遣いがかえって邪魔になる場面もある。

 たとえば、今のような時だ。相手の気持ちを考えすぎるあまり、はっきりと意見を言い出せない。言ったとして、相手を傷付けてしまったのではと自分のほうが思い悩むのだ。

 アイリスは優しい子である。そして、優しすぎる子だった。善の心でのみつくられたその優しさが、彼女自身を苦しめているとはなんと皮肉なことだろうか。そんな彼女の不器用さに気づいている自分こそが、せめて彼女の助けになろうとアイナは思っていた。

 ただ今回は、例の少年について黙っていたことへの罪滅ぼしのような気持ちもないわけではなかった。

「はい。その、どうしてもお伝えしておきたいことが」

 アイリスが、声を振り絞るようにして言う。

「何かしら」

 平然といった風を装い、アイナは訊ねた。

 張り詰めた空気が、肌に伝わる感覚があった。温かい室内に潜む冷たさは、足元から這い上がってくるように、じわりとじわりと、確実に追い詰めてくる圧迫感さえ伴っていた。居心地の悪い空気感だった。

「これを、アイナさんにお渡ししたくて」

 アイリスが、何かをテーブルの上に置いた。

 一瞬、それが何かわからなかった。いや、本当はアイリスが何を取り出したのか、すぐにわかった。

 しかし、それがどうしてここにあるのか。そして、どうしてアイリスが持っていたのかという疑問に頭の中が埋め尽くされ、咄嗟になんと返すべきかわからなくなってしまっていた。

「どうして、それを……」

「やっぱり、そうだったんですね」

 アイリスは、何か確信めいたものを感じ取るように、そっと言った。

 テーブルの上に置かれていたのは、ブローチだった。

 丸い形をした小型のもので、金色の縁に赤い鉱石が埋め込まれた、綺麗な色をしたブローチだ。

 それは、すでに帰らぬ人となった母の形見として、父が大切にしていたものだった。

 母をなくした時、アイナはまだ幼かった。母の死にいまいちピンとこず、大好きだった母ともう二度と会えないという事実をも、なぜだか自然に受け入れていた。無知であるが故に余計な悲しみさえも抱くことがなかったのだと、今になって思う。

 反対に、それから数日、父はかなり落ち込んでいた。騎士団長としての責任感も重くのしかかっていたのだろう。表向きにはいつも通りの父に見えるが、心は確実に弱っていた。いつもの力強いオーラも、その時ばかりは消えかかっていた。

 父と母の馴れ初めの話を聞いたことがあった。その話を聞く限り、父がどれだけ家族を大切に想っているかがわかり、子どもながらに照れ臭く、くすぐったい気持ちになったことも覚えている。家族のことを心から愛していたのだ。

 どんな時も、任務の時だって肌身離さず持っていると言っていた。そんな母の形見であるブローチがなぜアイリスの手から転がり込んできたのか。その理由を訊かなければならないと思った。

「それ、お父さんの……」

「そうです。王都の英雄。かつての騎士団長であり、あなたの父の所有していたものです」

 アイナは思わず、立ち上がる。椅子が倒れ、床に勢いよく、ぶつかる音がした。

「どうして、あなたが持っているの、アイリス」

「彼から、託されました。世界にかける想いと、未来への希望と共に」

「何を、言っているのかしら……?」

 アイリスの言葉が、遠ざかって聞こえるようだった。現実を受け入れまいとする心が、彼女の声を錯覚だと思い込もうとしている。

「私は、彼の最期に居合わせたんです」

「え」

 急に、体が落下する感覚に襲われた。足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。

 父の死を、まだ受け入れていない自分がいたのだと自覚した。

 あくまで報告にあっただけで、実際にその最期を見届けたわけではない。王都を見回る途中に聞こえてくる噂話も、根拠も信頼性もなく、というより、人によって話の内容が違っていたりしたのでデタラメだという可能性に傾きつつあった。

 実は、父はどこかでひっそりと生きていて任務を遂行中なのだと、そう思うようにしていた。死んだという報告は相手の油断を誘うためであり、今こうしている間にも父はどこかで立派に戦っているのだろうと、半ば現実逃避のような考えをしたこともあった。

「彼が言っていました。王都の騎士団に娘がいると。正義感の強い、優しい子だと。ただ、一人で何でも抱え込もうとする癖があるから。周りを頼ることが苦手な不器用な正義感があるから、助けになってやってくれと言っていました。このブローチと共に、彼からあなたを託されたのです」

 アイリスと目が合う。この現実と共に、思わず視線を逸らしたくなった。もう一度、ブローチを見る。間違いない。正真正銘、父のものだった。

「昼間に皆さんの前でも言いましたが、私はアークの出身です。アークはとある人物の独裁的な政治が敷かれていました。彼は、何かを発明することにおいて腕が立ち、機械生命体という人工的な命を生み出しました。そして、機械生命体を自分の配下に置き、アークを支配していました」

「ひどい、わね……」

 椅子を起こし、席に着く。呼吸を整えながら、アイリスの話を聞く。

「人々は街を追いやられていました。廃棄物が流れ着くスラムと呼ばれる地域でしか生きていられないほどに、街はひどい状態だったのです。でも、そんな街を救ってくれたのが――」

「私の父だった……と、いうわけね」

「はい」

「そして、それが父の最期だった。なるほど。私の父は命を懸けて、アークを救ったのね」

「はい……」

 項垂れるアイリスを前に、アイナは冷静を装っていた。アイリスに勘付かれないように深呼吸しながら、体の中で何かが爆発しそうになるのを必死にこらえていた。

 喉奥に違和感がある。指先が震えている。寒気がするが、きっと気のせいだろう。今は耐えなければならない。アイリスに心配をかけたくないこともあるが、何より心を強く持たなければ、世界を支配する闇のような禍々しい何かに呑まれてしまいそうで怖かった。

 テーブルの上にあるブローチを手に取る。

 両手で優しく握り、胸の前で祈るようにして持った。こうすることで、彼方にいる父と心を通わすことができるような気がした。

 どこからか声が聞こえてくる。「この国を——世界を救うんだ」と、優しくて、温かい声だった。


 しばらくして、アイリスが帰った。

 彼女がアークの調査に出向くのは明日だ。早く寝て準備をしてもらわなければと言い訳をして、帰宅してもらった。

 扉を閉める。一人、残された部屋には虚無感が巣食っていた。

 ブローチを握った手に力が入る。父から託された想いを、形あるものとして感じ取っていた。懐かしい安心感があった。同時に、自分の中にある大切な何かを手放してしまった儚い感覚もあった。

 切ない思いが、胸の中に広がる。いつの間にか、頬を水滴が伝っていることに気がついた。父のことを思うといつもこうだ。

 涙を拭い、窓の外を見やる。

 王都を照らす月の明かりが、暗雲の中に消えていった。王都の上空に浮かぶ、この夜の景色が世界を覆う闇のように見え、アイナは不安な気持ちになった。

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