ユーリ 2
ユーリは固いパンにかぶりついた。
それは空腹で腹を鳴らし、立っていることがやっとといった様子のユーリを見かねて、フードの男がくれたものだった。
「食料には限りがある。これだけしかやれないが我慢しろ」と彼は言ったが、ユーリは聞かずに、彼の手から奪うようにしてパンを取った。
礼を言う間も惜しんで、ユーリはパンを食べる。およそ二日ぶりの食事は、少年の廃れた心を癒すのには足りないが活力を取り戻すのには十分だった。
パンを飲み込むと、真っ暗だった意識の中に一筋の光が差した。気がした。崩壊した街を、心も体もほとんど死人のような状態で徘徊していたが、ようやく蘇ったようだ。心なしか力がみなぎってくる。忘れていた元気を取り戻したという充実感が体中を走った。
窓の外に目をやる。真っ赤に染まった街が視界に映った。覚醒した意識下で、改めてこの地獄のような光景を目の当たりにするのは、中々に堪えるものがあった。
ユーリは、男の風貌に注目した。
空腹で意識が朦朧としていたせいで気がつかなかったが、身に纏ったフードの下に見える装いは王都の騎士と同じものだった。よく見ると、彼の立つ傍の壁には一本の剣が立て掛けられている。
つまり、命を救ってくれたこの男は王都の騎士――レグルス騎士団の一人というわけだ。王都の騎士がここにいるということは、この事態の調査もすでに行っているのではないだろうか。ユーリは、そう思った。
男がフードを取り、素顔を見せる。この辺りでは珍しい黒い髪色と、睨まれるだけで震え上がりそうなほど険しい目つきをしていた。闇色の衣装を纏った様相は、騎士というよりは悪党かダークヒーローを彷彿とさせる。力強い眼光や凛とした態度には、どこか近寄りがたい印象を受けた。
だが、容姿に関しては、強面というには非常に整った顔立ちをしており、よく見れば、目を見張るほどの美青年であるようにも思えた。
男は、刺すような視線をユーリにやった。
「お前は近くの道で倒れていた。俺が気づいた時、まだ息があるようだったから、ひとまず、ここへ運び込んだわけだが、無事、回復したようだな」
「あんたが助けてくれたのか。ありがとう」
少しずつ心が落ち着いてきたユーリは、男に対して、素性も知らない不審人物だと警戒する心を捨て、彼は命の恩人だという信頼を寄せ始めていた。
「ここに立ち寄ったついでだ。もう時期、発つところだった。お前は運がよかった」感謝される筋合いはない、と男はそっぽを向く。
「一つ、訊きたいことがある」
「なんだ?」
「街がこうなってしまった、その原因が知りたい。あんたは知っているのか?」
ユーリの声には、まだ少し恐怖の感情が滲んでいた。
男の顔を見る。彼は一瞬だけ顔をしかめた。そして、すぐに睨み返してきた。
「ああ、おおよその検討はついている」
「それを教えてほしい」
男が目を閉じ、上を向いた。何を考えているのだろうかと訝しんでいると、男は息をふうと吐き、ユーリに視線を戻した。
「お前は『クラウン』を知っているか?」
「クラウン。願いを叶えるとかって言われている、あの?」
「そうだ。誰もがよく知る、クラウンの伝説だ」
男の口から出た言葉に、ユーリは眉をひそめる。
「クラウン」と聞いて、思い当たるものといえば、おとぎ話に出てくるクラウンのことしかない。
この世界に古くから伝わる有名な物語。それに、クラウンが登場する。語られているのは真実なのか作り話なのか、もはや誰にもわからなくなってしまったが、確かに語り継がれている一つのおとぎ話があった。
クラウンは、どんな願いをも叶えるという聖遺物——あるいは、呪物という解釈も一部ではあるようだが、とにかく、所有者の願望を満たす夢のような力を持った器であった。
手にした者の欲望のままに機能し、その力は何者にも抗えない。世界そのものでさえも変えてしまう可能性を秘めている。そんな人間の欲望が形となって現れたような代物だった。
「小さい頃、好きだったおとぎ話によく出てきた。でも、そのクラウンが何か関係あるのか?」
そう言いつつも、男の言わんとしていることには察しがついていた。クラウンという言葉を聞き、そのおとぎ話の内容を思い出したからだ。
しかし、それを受け入れたくないという心が、それ以上、考えることを放棄していた。はっきりと言葉で聞くまでは信じられないと。そんなことはあり得ないのだと。
「『クラウン・スラッシャー』という物語を聞いたことはあるな?」
男の言葉に、ユーリは頷く。やはり、想像していた通りだった。クラウンから連想されるおとぎ話は、それしかない。
「ああ、もちろんだ。クラウンの力の恐ろしさについて語られている話だろ」
幼い頃、母に何度も読み聞かせてもらった、おとぎ話のことを思い出す。
クラウンの力に溺れてしまった人間が世界を破滅へと導き、その悲劇を食い止めるために立ち上がった英雄の話だ。
物語として特徴的なのは、その壮大な世界観もそうだが、何より主人公の性格である。他のおとぎ話に比べると、見劣りするほどに主人公が平凡だったのだ。
その手の話の主人公は、子どもたちの興味を引くように強い正義感を持ち合わせていたり、悲惨な過去や運命を背負っていたりと、只者ならぬ設定が盛り込まれている。
しかし、クラウンにまつわる話では、主人公は辺境の村で暮らすごく普通の少年。特別な力を持たず、代わりに人並の恐怖心を持った一般人であった。私情に突き動かされて身勝手な行動を取ることもあれば、情けなく涙を流すこともある。
ただ、そんな人間らしい一面にユーリは惹かれていた。超人でなくても主人公になれるのだ。何の取り得がなくても輝けるのだと、物語の主人公に憧れを持っていた。
「そのクラウンの力が、本物だとしたら」
「え」
「クラウンの存在は、単なるおとぎ話ではないということだ」
男は平然とした口調で、奇妙なことを口にした。
「それは、どういう意味だ?」
「これを見ろ」
男が、どこからか黒い物体を取り出した。持ち手がなく、縦に長いカップのような形をしていた。しかし、カップにしては所々が欠けているようで、ユーリの目にはただのガラクタにしか映らなかった。
「なんだ、この小汚いものは?」
「クラウンだ」
「は?」
「正確には、クラウンだったものだ」
男は黒く薄汚れた物体を円を描くように回してみせる。
「これは、その残骸だ」
「何を言っているんだ?」
「クラウンは実在した。そして、この惨劇はクラウンの力の一端によって引き起こされたものだということだ」
「まさか。でも、それって、つまり——」
ユーリは息を呑む。
目の前の男がなぜそんなことを知っているのか、そして何者なのかはわからないが、嘘をついている様子は感じられなかった。
人の欲望を満たすために生み出された伝説が実際にこの世界に存在しており、そして、その力によってこの街に地獄のような光景が広がっている。
願いを叶える力。街の崩壊。これらの状況から考え得ることは——
「そう願った者がいるということだ。この街の破壊を」
「誰かが、街を……」
何者かの手によって意図的に仕向けられた悲劇だと知り、ユーリは慄く。
人の心があって思いつくようなことではない。首謀者の企みに嫌悪感を抱いた。いったいどんな理由があって街を破壊しようと思い立ったのだろうか、まるで理解ができない。
「この黒いガラクタは、クラウンが願いを受け入れたその名残りだ。一緒に燃え尽きてしまったのか、この通り焦げ付いている。とても願いを叶える器としての機能があるとは思えない」
「『街を元通りにする』といった願いなんかも叶えられないのか?」
「既に何度か試してみたが不可能だった。無論、他のどんな願いでもな。もはやこれは、クラウンとしての力を完全に失っている」
「そうか」
ユーリは頭を抱えた。クラウンがこの世界に実在しているということだけでも信じ難いというのに、故郷の街を襲った災厄が何者かがクラウンに願ったことにより引き起こされたものだったとは思いもよらなかった。
おかげで街は完全に崩壊した。伝説にある通り、まさに世界をも変えてしまう恐ろしい力だと思った。
男が背を向け、建物の入り口に向かって歩き出した。扉を開け、建物の外に姿を消す。ユーリは慌てて男の後を追いかけた。
外は熱風が吹き、体に重たくのしかかるような汚れた空気が漂っていた。辺り一面が真っ赤な炎に包まれており、その光景が、頭の隅に追いやっていた嫌な記憶を思い起こさせようとする。
「敵の狙いは、世界の破壊だ」
男が冷静に言う。その声に、嫌悪や憎悪といった感情は含まれていない。まるで、心を持たない機械のような人物だとユーリは思った。
「この世界を、破壊しようとしているのか?」
「ああ。文字通り、すべてを破壊し尽くすつもりだ。この街はその発端に過ぎない。このままだと、世界中で次から次へと同じような悲劇が起きる」
「なぜそんなことを?こんな残酷な破壊を繰り返して、何になるっていうんだ。敵の狙いは?」
「わからない。その真の目的は謎だ。世界の破壊。これを願っていることに間違いはないみたいだがな」
見ると、男の手が小刻みに震えていた。その力強く握られた拳には、様々な思いが込められているように思えた。
「だが、もう悲劇は起こさせない」
男が振り返り、言う。先ほどは機械のように冷たい心を持った人物だと感じたが、男の目には揺るぎない信念が宿っているのがわかった。
その時、頭上に光が発生した。
見上げると、何もない中空に突如、巨大な魔法陣が出現し、そこから這い出るように、光を纏った何かが飛び出してきた。その光は人の形をしていた。
眩しいものを遮るように、手を掲げて陰をつくる。ユーリは指の隙間から、光を目で追った。
光が弾け飛ぶ。目を凝らすと、そこには少女の姿があった。可憐といえるほど愛らしい容姿をしていて、つばの大きな三角帽子を被った不思議な格好の少女が、ふよふよと宙に浮いていた。
なぜ飛んでいるのだと目を丸くして見ていると、少女はこちらに気づいた様子で降下してきた。
「おーい、レオー。おまたせー」
「随分と遅かったな」
「レオ」と呼ばれた男は、突如として頭上に出現した謎の少女に向けて、平然といった様子で返した。
「ごめんね。ちょっと色々と立て込んじゃってさ。そっちの子は?」
二人と同じ目線に降り立った少女は、ユーリを指した。
「まあ、こっちも色々あってな。簡単にいうと、生き残りだ」
「ふーん」
興味なさげに少女は言うと、今度はユーリの顔をまじまじと見つめてきた。
少女は弾むような足取りでユーリに近づき、くるりと踊るように一回転した。そして、にこりと微笑む。そんな謎の行動を取った後、少女は崩壊した街の風景には似合わない、ピクニックを楽しむ子供のような明るい声で言った。
「初めまして、ボクの名前はドロシーだよ。キミの名前は?」
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