アイナ 1

 「王都レグルス」の中心区にそびえ立つ巨大な城。そこには、地下牢があった。

 その存在は公にされていなかったが、城の地下には牢獄があって、捕まった罪人はそこに永遠に幽閉されるのだと、いつからかそんな噂が広まっていた。

 単なる妄想だという声もあれば、それは時におとぎ話のように語られ、「悪さをすると、日の光も届かないほど暗い場所に閉じ込められてしまうぞ」と、子どもたちに罪悪を教育する場に用いられたりもした。

 実際には国家レベルでの大罪を犯した極悪人を閉じ込めておくための場所であり、王都の長い歴史を振り返ってみても、この地下牢に囚われたことがあるのは一人しかいなかった。

 そもそも王様の直属の組織である王宮の関係者であっても、この地下牢を知っている者は少なく、その存在自体が都市伝説のようなものであった。




 ――――




 地下牢に人影があった。

 清廉さを感じさせる純白の装いに、後ろで一つに結った鮮やかな深紅色の髪がトレードマークの少女が一人、暗がりの中に立ち尽くしている。

 彼女の名は、アイナ。

 父親譲りの強い正義感を持った、王都の騎士であった。

 空っぽの牢の前で、アイナは息を吐いた。

 自分のやったことは間違っていたのだろうか。胸に手を当て、自問する。心に迷いが生まれた時、アイナは決まってそうしていた。返ってくる答えは、いつも同じだった。

「正義のためよ」

 刺すような、冷たい声がした。

 自分の声だ。心の中に生まれた、正義感に満ちた、もう一人のアイナ自身の声だった。

 その言葉は、自分の過ちを正当化するための甘い言い訳にも聞こえた。

 「自分の行いを正しいと信じて疑わない人間こそ、本当に大切なものを見失うのだ」と、まるで、世界の真理を悟ったかのような堂々とした口ぶりで語っていた父の言葉が脳裏に蘇る。

 今の自分は、それに当てはまっているのではないだろうか。何かを見失っているのではないだろうか。そんなことを考える。父からの教訓は、アイナの心の支えになっていた。

 アイナの父は、王都で活躍する騎士団の団長であり、英雄と呼ばれた男だった。

 彼女はもちろん、騎士団の誰もが彼の背中に憧れており、王都で彼のことを知らない人はいないほどの有名人であった。

 騎士と聞いて誰もが思い浮かべるのが、王宮に仕える『レグルス騎士団』である。

 王都内での武器の保持が認められ、逮捕権を有する彼らは、実質的に王都の治安を守る唯一の存在だった。王都の各地で活躍し、長年に渡り街を支えてきた彼らは、王都の正義そのものだとも言われていた。

 ただ、頭部を除き、全身を鎧のような装備で包んだ姿は見る者に威圧感を与えた。

 さらに騎士団の素性は正式には明かされておらず、構成人数、活動内容も不明なため、任務で出向いた先の住民たちからは警戒されることも多々あった。

 そんな騎士団の近寄りがたい印象を覆したのが、アイナの父だった。

 王都に住む人たちと積極的に交流し、少しづつ信頼を築いていった。騎士団長という立場上、任務や団への指導など多忙ながらも、王都の人たちの声には真摯に耳を傾けていた。

 たとえば、母親にプレゼントをあげたいという少年のために、危険な魔物が潜むという洞窟に鉱石を取りに単身で踏み込んだこともあった。

 騎士団長がいなくなったと王都ではちょっとした騒ぎになったが、何日か経った後で、平然とした顔で還ってきた時には皆が安堵し、同時に、彼の人としての器に感心した者も多かったという。

 勝手な行動はしないでほしいと部下たちから説教され、しょげた子供のように謝る姿は人々に好感を与える結果に繋がった。

 そんなお人好しな一面があり、同じ騎士団の仲間に迷惑をかけることも度々あったが、多くの者から信頼を寄せられていた。街を守るヒーローとして、子供たちからの人気も高く、老若男女問わず、王都の人々から愛されていた。


 だからこそ、彼が命を落としたという現実は王都中を震撼させた。

 平和の象徴として輝いていた希望の太陽を失った世界が、いかに暗く沈み込んだものになるのか、アイナは身をもって味わった。街全体が死んでしまったかのように、冷たく、寂しい世界が広がっていた。

 目を瞑ると、瞼の裏にその姿が浮かんでくる。優しく笑う父の顔は、温かい光を放っていた。

 英雄と呼ばれた男。

 世界の希望とされた男。

 誰もの憧れであり、自分にとってのヒーローだった偉大な存在。大好きだった父が、もうこの世界に存在しないという事実は、受け入れがたいものだった。

 目頭が熱くなっていることに気づく。死んだ父のことを思い出したからなのか、牢獄の暗闇を怖れたからなのかはわからない。

 ただ、空虚に彷徨っていた頭に意識が戻った時には、いつの間にか視界が霞んで見え、頬を一滴の涙が伝っていた。

 こんなことで取り乱しているようでは駄目だ。騎士としての自覚が足りていないのではないか。アイナは自分の心の弱さを責めた。

 父のような立派な騎士になるために、自分に一番足りていないのは、何事にも動じない胆力、そして、強い精神力なのだ。

 父は、その最期には立ち会えなかったが、世界を守るために立派に戦ったと聞いた。死を恐れることなく、強大な敵に立ち向かったという。己の信念を決して曲げず、まっすぐに生きる姿を示してくれたのだ。

 その意志を、継いでいかなければならない。自分には、その使命があるのだ。そう、アイナは考えていた。


 目覚ましに両頬を軽く叩き、正面に向き直る。

 光を飲み込む暗黒の牢の壁は、まるで自分の行く末に立ち塞がる巨大な壁であるかのように圧倒的な存在感があった。

 人生の道標なるものを失い、心に大きな傷を負っている今となっては、この眼前のちっぽけな暗闇さえも世界を脅かす悪魔に見えてくる。

「誰?」

 何者もそこにはいないはずなのに、牢の壁に寄りかかって呻く、とある罪人の姿が見えた。

 牢獄の暗闇に溶け込む黒い髪と邪悪で冷たい目をした少年だった。

 どういった経緯で捕まっていたのかは知らないが、覚悟を決めた只者ならぬ雰囲気があった。拷問でも受けていたのか、生々しい痣や切り傷が体中にできていた。若者とは思えないほどやつれた頬は、見ていてとても痛ましかった。

 少年は鋭い眼光を放ちながら、こちらを睨み付けている。牢の檻の中にさえいなければ、今にでも飛びついて首を噛み千切ってやろうか、と言わんばかりの気迫がビリビリと伝わってきた。

「ここから出してくれ」

 どこからか、か細い声が聞こえた気がした。少年の声だ。ボロボロになった体を壁に預け、生きていることがやっとのような弱々しい姿で、確かに訴え続ける。世界を救うのだ、と不思議なことを言いながら、必死に体をよじっていた。

 アイナは、その様子をじっと眺めていた。

 同情していたわけではない。だが、彼を嘲笑っていたのとも違う。何か思うところがあり、その少年を気にかけずにはいられなかったのだ。

 彼はいったい何者だったのだろうか。どこかで見たことがある気がしたが、結局、わからず終いだった。

「こんなところにいたんだ」

 背後から声がした。振り返ると、白い髪の青年が腕を組んで立っていた。

 逞しいという言葉が似合わない痩身で、だが頼りない印象とは縁遠い体つきをしている。鎧を模したデザインの服装は、王都の騎士特有の動きやすさを重視した軽装であり、彼の瞳と同じ、夜のイメージが似合う青紫色だった。

 滑らかな曲線を描く眉、小さく愛らしい口元、見る者すべてを惹きつける官能的な瞳。整った顔のパーツは大人の女性にも引けを取らないほどの色気を放っていて、男性ながらに神秘的な美しさを持っていると思える容姿をした青年だった。

「ヘクター、どうかしたの?」

「君を呼びに来たんだよ」

 蠱惑的な笑みを浮かべながら、ヘクターが言った。

「招集がかけられた」

「もしかして、王様殺しの事件のことかしら?」

 心当たりのある言葉を返し、反応を見る。

 それは先日、王都内で起きた殺人事件のことだった。国王であるレグルスが、何者かの手によって殺されてしまったのだ。

 犯人は未だに捕まっておらず、それらしき人物の大まかな外見の特徴は割れていたが、幾度と調査を繰り返すも、真相は明かされないままだった。

 その事件について何か進展があったのかもしれない。今、集まることがあるといえば、それくらいしか思い当たらなかった。

 だが、予想に反し、ヘクターは首を横に振った。

「いや、たぶんだけど、そのことじゃない。いつもみたいに王宮から呼ばれたわけじゃないんだ」

「じゃあ、誰が――」

 何のために、と続けようとして、アイナの頭の中に、牢に捕らえられていたあの少年の姿がよぎった。突然、胸が強く締め付けられるような感覚に襲われ、ヘクターから顔を逸らす。

 彼は、あの少年のことを知っているのだろうか。もし知らないのであれば、伝えておくべきだろうか。小さな葛藤が、アイナの胸の内に生まれた。

「今回、僕たちに招集をかけたのは、我らがレオニール団長さ」

 レオニール団長。ヘクターの言葉に、アイナは顔を上げた。

「珍しいわね。何の用かしら?」

「さあ。僕も詳しくは聞いてないんだ。集合場所は北区にある士官学校だってさ。知ってるよね?あれ、そういえば君の出身もあそこじゃなかったっけ?」

「ええ、そうよ」

「じゃあ、久しぶりに母校に行くわけだ」

 ヘクターは、なぜか嬉しそうだった。

「まあ、指導官としてなら訪れたことはあるんだけどね」

「ああ、そっか。あそこは特別指導官みたいな制度があって、時々、うちから何人かが出向くんだっけ」

「ええ。それで一度、行ったことがあるわ」

 そう言って、士官学校へ足を運んだ時のことを思い出した。


 士官学校を卒業してから、二年ほどが経っていた。

 正門は相変わらず見上げるほどに大きく立派で、手前にある校舎から右奥に見える訓練施設は健在のようだった。王都の広い土地を活かして作られた施設で、開放的な空間は実践向けの訓練には最適だった。

 学校全体を囲う塀の近くには、斬撃に強い特別な素材でできた人形が数体、等間隔で立っている。剣技を学ぶために、毎日毎日、何百何千と叩いてきた人形だ。

 土埃に汚れ、体の所々が破け、死線をくぐり抜けた騎士のように、ボロボロの状態になりながらも明日もまた、殴られるために胸を張っていた。

 顔がないのは不気味だからと、茶目っ気のある担当指導官がつけた顔のパーツのおかげで、人間味が増して、より不気味に見える。片方は愛くるしいつぶらな瞳で、もう片方には、ウィンクをしているかのように斜め線が書き込まれている。当時からずっと同じ表情のようだ。変わらない笑顔のまま、生徒に斬られ続けているのだろう。

 あの頃は世話になりました。何度も斬り刻んでごめんなさい、と頭でも撫でてやりたい気分になった。

 施設を抜けると、校舎の裏口を横にして寮へと続く道が見えてくる。アイナは込み上げてくる何かをぐっと抑え、そのまま学校の敷地内を周った。

 校舎や寮には改装が施されたような形跡はなく、入校し、学び、卒業するまでに過ごした当時のままの姿が残されていた。自分がいた頃と何も変わらないのだから、久しぶりにやって来たとはいえ特別思うこともないだろうと高を括っていたが、仲の良かった寮の管理人と鉢合わせた時には、包容力のある、その膨よかな腕の中に飛び込みたいという衝動に駆られたりした。

「大きくなったねえ」と涙声で言う、体格も服装も、くしゃっと潰れた笑顔も、何もかもが昔のままの彼女を見て、懐かしさに浸って感傷的になり涙が溢れそうになった。

 今は指導官として、王都の騎士の手本として訪れているのだから安易にみっともない姿は晒せないと、突然、湧き上がってきた妙な意地でこらえる。それから「お元気そうで何よりです」と、ありきたりな再会の言葉を口にしただけで、その場を去ってしまったのは、苦い思い出である。

 そんな士官学校に、半年ぶりに行くことになろうとは。もし、また寮の管理人に会うことがあれば、必ずお礼を言おうとアイナは心に決めた。


 顎に手を当て、考え込む素振りをする。

 アイナの父に代わり、レオニールが団長となってから、彼から騎士団に招集がかけられるのは初めてのことだった。

 普段は城内にある王宮に招集され、その後の活動方針を定めたり、新たに任務を受けたりしていた。

 しかし、王様の亡き今、それも難しいことなのかもしれない。

 現在、王宮は関係者の中でも特定の地位にある人物しか立ち入ることができない状態となっていた。それは騎士団でも同じようで、団長であるレオニールしか近づくことを許されていなかった。

 そんな彼が騎士団に招集をかけたということは、王宮から何かしらの任務を受け取ってきたのかもしれない。そうなると、やはり王様殺しの犯人についてだろうか。

 アイナは小さく息を吐いた。

 推測が正しければ、王様殺しの事件が起きた原因は自分にある。調査に進展があったとすれば、騎士として、道を外れた行いをしてしまったことが明らかになるかもしれない。その不安から、自分が精神的に弱っていることは何となくわかっていた。

 視界が暗くなる。鼓動が早まる。不安に圧し潰されそうになり胸が苦しい。これほど心が強く締め付けられる感覚は、父の死を耳にした時の絶望の気持ちにも似ていた。

 いくつもの障壁が現れ、行く手を塞がれる。容易には逃れられない圧迫感があった。アイナは、自分の未来への道に陰りがさすのを感じていた。

「それにしても、こんなところに一人でいるなんてね」

 ヘクターの声に、一気に現実に引き戻されるように目を見開く。足元を彷徨っていた視線が、彼の方へと向いた。

「私だって、一人になりたい時くらいあるわ」

 見栄を張り、心の迷いを隠そうと声を出す。絞り出したような非力な声だったが、ヘクターは気にしていないようだった。

「わざわざ、ここじゃなくてもいいのに」

 ヘクターが苦笑する。嫌味たらしく聞こえるが、彼の性格をよく知った上だと、わざと言ったわけじゃないことは、すぐにわかる。

「この地下牢、街の人たちにはあまり知られていないんだよね。昔から、都市伝説みたいになっていたしさ。実際、僕もそうだと思ってた。騎士になって初めて、ここの存在を知ったんだよ」

「私も同じよ」

「やっぱり、みんな信じてないよね」

 言いながら、ヘクターは辺りを見回していた。普段、滅多に足を踏み入れることのない場所に新鮮さを感じているのか、注意深く暗闇に目を泳がせている。

 その視線が、アイナの前にある牢で止まった。獲物を眼前にとらえた獣のような、威圧感のある目つきをしていることに気づいた。

「彼、脱獄したらしいね」

 脱獄という言葉に反応し、肩がぴくりと動く。それが何を指しているのか、アイナにはわかった。

「あの黒い髪の少年のことね」

「うん、ここに捕まっていたんだってね」

「そうよ。何をしでかしたのかは知らないけどね。この牢の中に囚われていたわ」

 しらばっくれるのは得意ではなかった。昔から、嘘をつくことが嫌いだったからだ。相手にはもちろん、自分自身にも背を向けているようで、それこそ、何か大切なものを見失っているような気がした。

 ドキドキと胸が割れそうな音がする。呼吸のリズムは正常だったが、声は震え、手には冷や汗をかいていた。

「そうだ、一つ聞きたいことがあるんだけどさ」

 横目で見ながら、ヘクターが言う。

「何かしら?」

「その少年のことさ。どうして、逃したりしたの?」

 ヘクターの顔をきっと睨む。バレるのではないかという不安など、あっさりと消え去り、今度は彼に対する敵意にも似た情がアイナの内にはあった。

 彼は知っていたらしい。ここに捕まっていた少年がいることを。

 そして、その少年の脱獄を手伝ったのが、他でもないアイナであることを。

「何が言いたいの?」

「そのままの意味だよ。君ほど正義感の強い子が、こんな地下牢に幽閉されている罪人を逃すだなんて」

「私の正義は、あなたが思うほど立派じゃないってことよ」

 言った後で少し後悔した。自分の生き方と、何より父の正義を否定しているようでいい気はしなかった。

「いや、そうは思わないから、こうして訊ねてみたんだよ。純粋に疑問なんだ。勘違いしてもらいたくはないんだけどさ、僕は君たち家族のことを信じている。アイナちゃんの正義感は本物だ。それを疑ってはいないよ。でも、だからこそなんだ。だからこそ、何かワケがあったんじゃないかなって思ってさ」

 ヘクターは気の荒い動物を宥めるように、両の手のひらをこちらに見せ、小さく振った。その仕草を見て、アイナは自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。無理もない。自覚があったからだ。騎士として、人として外れた行いをしたという自覚が。

 そして、それを誰かに指摘されるとは思ってもいなかったので、焦燥感が生まれ、気が立ってしまった。

 ヘクターがどのようにして知り得たのかは定かではない。だが確信を持っている口振りではあった。

 彼は信頼できる人間だ。ならば、下手に隠そうとするより、すべて話してしまった方がいいのではないか。アイナは、そう考え始めていた。

「まあ、話したくないならいいよ。無理に聞き出すつもりもないし。もちろん、他言する気もないから」

 ヘクターが、ゆるりとした口調で言う。

 アイナは言葉に詰まった。彼の性格からして、本当のことを言っているのはわかるが、気を遣わせてしまったことを悟り、申し訳ない気持ちになった。

「ごめんなさい」と、アイナは呟く。あの少年を逃がしたこと、それを黙っていたこと、そして、質問に答えるわけにはいかないこと、すべてに対する謝罪の言葉を、自然と口にしていた。

 それを聞いて、ヘクターはまた笑う。「謝らなくてもいいのに」と首に手を当てる彼には、地下牢に蔓延る重たい空気を浄化させる力があった。

 暗闇の中で、自分の力だけで輝ける彼の逞しい心に、アイナは父の姿を重ねる。確かに彼の態度には、父と似つかわしい点があるようにも思えた。人を思いやる心だ。ヘクターは騎士として、理想とも言える正義の心を持った人物だった。

「それよりもさ、今この城にいるのって、アイナちゃんだけ?」

 ヘクターが明るい声で言った。気まずく沈んだ空気を戻そうとしているのか、当たり障りのない話題を始める。

 地下牢の天井を見上げていた。何を考えているのか、見えない影を追いかけるかのように視線を遠くへとやった。

「ええ、そうよ。団の人たちなら、ここにはいないわ」

「へえ。そっか」

 ヘクターが一瞬、顔をしかめたかに見えた。

「どうかしたの?」

「いや、何でもないよ」

 にこりと、ヘクターは微笑む。何かを隠している作り笑いのようにも見えたが、その真意はわからなかった。

「それじゃ、騎士団の招集、北区の士官学校でね。確かに伝えたよ」

「了解よ」

「僕は、まだ少し用があるから、また後でね」

 そう言って、ヘクターは城の廊下へと続く階段を上って行った。

 その後ろ姿を見届けて、振り返る。人工的な暗闇の中は、一人でいるには少し心細い、と改めて感じた。

 アイナは、鍵の開いている牢を見つめた。

 途端、違和感が体を走る。自身の生き様とは相反するような謎の存在が、腹の奥底に湧き上がるような感覚があった。

 得体の知れない不気味な塊だ。それは自分の中に眠っていた罪悪に汚れた何かで、生まれてから一度も向き合ってこなかった、人としての邪悪な感情そのものだった。

 自分の犯した過ちを否定しようとする強い意志――アイナの人生の導となっていた正義が、それを吐き出そうとする。

 だが、自身の罪を認めようとしない正義感こそが何よりの罪なのではないかと、そんな疑心を抱くたびに気分が悪くなっていった。

 やはり、自分がやったことは間違っていたのだろうか。アイナは目を閉じ、再び自問してみた。

「あなたは、自分の信じる正義のために決断したの」

 そんな声が、聞こえてきた。

 正真正銘、自分の正義を正当化するための答えだった。

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