4:朏の帰還

 プロメテウスが自らを追ってきたゲルラと戦闘を繰り広げ始めたのと同時刻、魔女領クライネシュヴァルツェの中心地である「七夜の宴」の開催地にて。一人の老婆が祭壇の前に跪いていた。

 青紫の長衣ローブに包まれた矮躯は所々が不自然に膨れており、全身が瘤に覆われた老木のような佇まいである。

「…アリア様、わらわはようやっと、この地に戻ってこれました」

 祭壇は石材でも金属材でもない漆黒の「何か」で出来ており、老婆はそれに手を伸ばし、しきりにその滑らかな表面を撫でている。

「魔女狩りに教会裁判、非魔術師による国家建国、大陸の覇権争いと分断…幾世にも亘る迫害と戦乱を乗り越え、再び此処に生きて辿りつけようとは思わなんだです」

 祭壇の中心にはこれまた材質不明な正七角形の角柱が立っており、そこには文字が刻まれていた。

「アリア様の生きておられた内にお目にかかれなんだ妾を御許しください。そして願わくば、妾がこの『七夜の宴』にて貴方様の御許に逝くことを御許しください」

 角柱に刻まれた文字は、伝説の魔女アリアの署名と、「魔女の掟」の全文であった。

 老婆は角柱に向かって深々と頭を下げると、祭壇を降りた。

「…この老い先短い婆の静寂を乱すは何者じゃ」

 老婆が森の一角に目を向けると、茂みががさりと揺れ、一頭の狼が姿を現す。その双眸は赤く血走っており、一見して普通の状態にないことは明らかだった。

「…外で何らかのまじないを受けてこの地に辿り着いた孤狼かね」

 まじないを受けたと思しき狼の口はだらしなく開かれたままで、涎がその荒い呼吸と共に地面へと常に滴っていた。奇妙なことに、涎が落ちた地面はどす黒く変色している。

「其方のまじないを解く力は妾にはないが、この孤狼を放っておくわけにもいかぬ」

 そう老婆が呟く間にも、呪われた狼はその肉を喰らわんとギラつく目を向け、喉笛を噛みちぎらんと脚を撓めている。

「ふむ、妾を喰ろうても美味くも何ともない…いや寧ろ毒じゃろうが…、此方も近付いて貰わねば術が出せぬものでな」

 狼が一声吠え、老婆に飛びかかるのと同時に、老婆も不自然に大きな瘤の出来た左手を狼の口元に突き出した。

「悪いが、おまえさんのまじないに付き合ってやるつもりも、おまえさんに噛み付かれてやるつもりもないものでな」

 老婆の手の瘤が弾け、溢れ出した液体が狼にかかると途端に地に伏し、苦しみ悶え出した。

「あまり苦しませてやるつもりはなかったのじゃが… まじないの所為で死ぬに死なれん状況になっておるようじゃな」

 ならばもういっちょ、と声をかけて老婆が再びその掌から溢れ出した液体を倒れた孤狼の開いた口に注ぎ込むと、呪われた獣は絶命したようでそのまま動かなくなった。


「…アリア様。『魔女の掟』に背きし行為かと躊躇いはしましたが、『魔女領内の生物が己に危害を加えんとした場合のみ魔女領内の者による防衛・討滅を許可する』という文言に従いて妾はまじないをかけられた獣を討滅しました」

 老婆は再び祭壇に向かい、角柱に向かって報告する。

「妾の魔術の性質ゆえ、この獣を救えなんだことをお許しください」

 再び祭壇に向かって深々と頭を下げると、老婆は絶命した狼の骸に向かって右手を伸ばす。

「この獣を死に至らしめた病魔と呪毒を『みかづきの魔女』ネオ=プ=ラジアの名の下に、妾の右腕で回収せん」

 狼の骸の心臓の上に老婆が右手を置くと、まず掌が、そして手首が、前腕が、肘が、上腕が、ボコボコと不自然に膨れ上がり順番に瘤を作る。最終的に瘤は右肩に留まり、狼を覆ったまじないと老婆による攻撃は彼女に取り込まれた。


 一連の術式を終えた老婆は、

「『七夜の宴』前に新たな武器を手に入れられるとは思わなんだが、これで老い先短い妾の勝ち目も少しは上がったやも知れぬ」

 などと満足げに言いつつ、祭壇付近の岩に腰を下ろして『七夜の宴』の他の参加者の到着を待つことにした。

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