第7話 承の転

 梅雨の時期に差し掛かっていた。3回目にして、「生け椿」の棚にワインが並ぶようになった。ひょっとすると、「ごまだれ」さんがしょっちゅう通うようになったのかもしれない。

 ちなみに、チワワさんに買ってもらった本たちは、10冊ちょっと読み終わっていた。普段はあまり読書をしないのに、頑張ったもんだ。褒めてほしい。チワワさんは「まだ読み終わってなかったんだ」って感じだったけど……読み終わるかーい!


 父親が倒れて入院費が工面できない男の話。

 俺が改めて提出した短編小説は、あまり評価されなかった。チワワさんが、俺の小説が表示されたパソコンの画面を指してしゃべる。

「もちろんさ、『泣ける話』は、ハッピーエンドでもバットエンドでもトゥルーエンドでもメリバでも構わない」

「あ、あの……メリバって、メリーバットエンドの略ですよね? 聞いたことはあるんですけど、実際どういうのなんですか?」

 「スマホ太郎」さんと「ごまだれ」さんが、「信じられない」って感じの顔でこっちを見る。仕方がないじゃないか、分からないんだから。おそらくまだ出会ってないし! 小説を読んだからといってこの界隈の用語を覚えられるわけじゃないってのがよ~く分かったよ。

「傍から見るとバットエンドだけど登場人物たちにしてみればハッピーエンド、ってことになると思うんだけど……そうだな、例えば……」

 チワワさんは、パソコンのキーボードを叩き始めた。


〈メリーバッドエンド〉

 2人で泣いた。涙が下へ落ちていった。それを追いかけるように、手を繋いで2人で落ちていった。頭の方から自由落下していった。2人で涙に追いついた。僕らの顔と顔の間で、2人の涙が絡み合って、ハートの形を成した。普通の人にはそうは見えないだろうけど、世界に逆様に存在する僕たち2人にだけは、心の臓の形に見えたんだ。涙の奥を僕と同じスピードで落ちる君は、涙をじっと見て、それから僕を見て、微笑んだ。きっと僕も同じだった。それだけで、僕らは幸せだった。


「こんな感じかな」

 チワワさんは、エンターキーを叩いた。即興でこんなの思いつくのか。あるいは、頭の中に、こういう物語のストックがたくさんあるのかもしれない。

「問題はエンドの作り方じゃなくて」

 チワワさんは、一呼吸おいて、言った。

「『泣ける』小説の主人公は、頑張らなくちゃいけない」

 これじゃあ、ただの不条理劇にすぎない。と。

「お前の書く主人公は、苦しんでるだけなんだよ。苦しんでる人間に奇跡が起きるから感動するんじゃなくて、苦しんでる人間が苦しんで苦しんで苦しみ抜いて足掻いてもがいて苦労して必死に何かを掴み取ろうとすることに、人は涙を捧げるんだよ」

 まだ厚みが足りないな、と言われた。


「『スマホ太郎』さんは、この独特な言い回しは、癖なんですね」

「はい、自分が文章を書き始めた、30年前からの」

 今何歳ですか! 道理で、書き慣れてる感じがするわけだ。

「でも、文章の一部として溶け込むようになってて、前よりずっと読みやすくなってるんじゃないかと思います」

 絶対に自分より長い間文章を書いている人と相対しているのに、チワワさんは全く物怖じすることなく意見を言う。まるで編集者みたいだ。


「『ごまだれ』さん、誰が喋った台詞なのか明示するのは、そんなに難しいことじゃないんですよ」

 また、パソコンに、文章を打ち込み始める。


<台詞>

 太郎君が、

「え、目玉焼きにマヨネーズですかー?」

 と、言った。


「これで良いんです」

「え、これで良いんですか?」

「単純で良いんですよ。もちろん、こういう時のレパートリーが多くて困ることはないですが、読み手にきちんと伝わることが1番なので」

「シンプルですね」

「『地の文』っていうよりは、むしろ『ト書き』でしょ?」

「はい、そうですね」

 と、チワワさんと「ごまだれ」さんが真面目な話をしている間、俺と「スマホ太郎」さんはと言えば、

「チワワさん、この例文好きですよね~」

「目玉焼きにマヨネーズかける派なのかもね」

「今までに言われてショックだった言葉なのかもしれないっすよね~」

「伸ばし棒とクエスチョンマークの組み合わせは、『渋々の承諾』だったよね」

「お、よく覚えてるっすね!」

「なんかさ、『え、目玉焼きにマヨネーズですかー? 別に構わないですけどー』って感じじゃないかい?」

「確かに! わっかりやすい! なるほど、後に続く言葉をイメージすれば良いんですね!」

 本編とはあまり関係のない雑談で盛り上がっていた。


「でも、文末の表現は多様性が増しましたよね」

「そこは、かなり意識したので。読む人に、自分の意図したことが正確に伝えられないのは、困るな、と思ったので」

「色々議論はありますけどね、俺自身は、使えるものは記号でも何でも使えば良いと思ってるんですよ」


 なんか、みんな進化していくなぁ、と思った。長年文章を書き続けてきた人でさえ、1ヶ月で文章が変わる。俺だけ置いていかれた気分だ。文末の表現は俺も考えて書いてみたし、物語の深みってのも考えて見たし、本もあれだけ読んだのに。

 まずいな。焦ってきた。

 来月末までには、もっと良いものを作らないといけない。

 でないと、参加した意味がない。何かを掴んで帰らないと。

「主人公は頑張らないといけないのか……大変だな。俺は、主人公になりたくないな」

 俺が呟いた時、「スマホ太郎」さんが俺の独り言に耳を傾けていたことに、この時俺は気付いていなかった。


 ヤケのように酒を呑んで、潰れたんだろう。目が覚めたら朝だった。店員さんが「お、お目覚めですか」と冷たい水をくれた。頭がガンガンしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る