ある自殺事件

 まだ図師とのやり取りが耳に残っているが、近藤隊長の案内で警備隊に向かった。車内ではしきりに今回の事案のことを説明する近藤をしりめに、外を眺める自見に、ある出来事が走馬灯のようによぎった。


 大同は社長時代、大規模な改革を行ったが、その一つが昇任試験だった。当時大同警備は、現場主義を重視し現場責任者が退任するときは、その後任者は現場責任者が指名していた。これでは情実が入り、本当に実力がある者に陽が当たらない。


 そこで、大同はまず筆記試験で篩い落とし、次に面接し、そこで普段の仕事ぶりを加える昇任試験を段階的に取り入れた。上級管理職となるには3段階の試験制度を採用した。

 その最後の上級幹部試験は、本社常務が直接本人を諮問することになっていた。


 32歳で中途入社した自見にその試験制度は幸いした。入社後10年で中級幹部、世間で云えば係長クラスとなった。

 中級幹部は、交代で支社の当直をする。季節は夏のある日、警備隊から連絡が入った。屋上に自殺者が発見されたので、見にきて欲しい、と。

 駆けつけると顔見知りの落合隊員が、7階食堂から漏れる照明の先に浮かぶ一個の影を指さす。駅前はビルが連なり、大同警備はその一連のビルの警備を受注していた。

 食堂の従業員も恐々顔を覗かせ様子を伺っている、まだ警察は来ていない。自見は落合隊員が指さす影に近寄り、懐中電灯を照らした、時刻は夜の9時、当直勤務に就いて4時間後の事案発生だった。


 そして、そこに見たものは何と柔道仲間の倉石隊員だった。状況は隣接する12階のビルから飛び降りたらしい、その音を聞いた食堂の従業員が落合隊員に知らせ、落合隊員は当直幹部の自見に連絡したのだ。


 間も無く警察官2名が鑑識係を連れてやってきた。簡単な現場検証のあと、準備した袋に死体を収納し、自見にも手伝いを求め、自見は混乱する頭の中でその処理を手伝った。地下まで運び、亡骸となった倉石隊員が警察の死体安置所に運ばれるのを見送った。


 さて、それからが大変だった。このことを支社長や警備課長に連絡し、本社報告の事件、事案報告書も作成しなければならない。徹夜で報告書を纏め気付いた時にはもう夏の夜は明け始めていた。


 冷房が利かないので、窓を開け放していたが、四季咲き金木犀の香りがし、その密かな香りがまたあの時の凄惨な現場を思い起こさせ、何故倉石君は自殺したのだ、どうして、どうして、何故俺に悩みを打ち明けてくれなかったのか、と悔恨が頭を駆け巡った。


 支社を代表して支社長と警備課長が葬儀に参列した。倉石隊員の自殺に至る経緯は詳しく調査されなかった。もう30年前だが、それにはその調査を阻む社会情勢があった。


 当時、警備業はそのニーズが認められ飛躍的な発展を遂げていた。どの警備会社も慢性的な人員不足、今なら顰蹙を買う超過勤務も当時は当たり前。大同警備もご多聞に漏れず、月の残業が100時間は誰もが経験していた。


 倉石隊員もその状況が入社以来慢性的に続き、幾度となく有給休暇を申請していたが、誰も休めない状況では、その要求は空しいものだった。

 結論は、それを悲観しての突発的な自殺と判断され、深く追及されることなくこの事案は終了した。そんなことを思い出していたら、「自見さん、着きました」と近藤が声を掛けた。

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