07 梟雄

 翌朝、の城は大騒ぎだった。

 井上が頓死していたからである。

 乗っ取ったとはいえ、城主である井上の頓死は、城中を騒然とさせ、そのうちに、心ある者が、今後はどうするか、ということを言い出した。


「どうする」


「井上どののお子を城主に立てるか」


「ばか、そんなことしたら、に井上家の城りぞ」


「そうだ、上意討ちされるぞ」


「いや待て。むしろ、この機にみやこの御当主さまの命を受け、他の重臣たちが、攻めてくるのでは」


「いやいや待て待て。重臣どころか、他の領主――他の土豪や国人が、この城に寄せてくるやもしれぬ」


「一戦まじえるか」


「ばか、誰が采配を取るのじゃ。死んだ井上どのか?」


「…………」


「いや、そもそも……今、井上どのがいないこの機会しおに……われら逆臣として、成敗されるやもしれぬ」


「何だと!?」


「井上どのがいない今、そう言われたとて、誰も抑えられぬ。ちがうか?」


「…………」


「…………」


 場を沈黙が支配する。

 そのうちに、誰ともなく、を口にし出した。


「……おい」


「何だ」


「あの若殿に、戻ってもらえば――」


「若殿? ああ、あのこじきの」


「さよう、こじき若殿だ」


「もとはと言えば、この城は、あの方のもの」


「であれば、若殿にこの城を返せば」


「われら、から、城をお返し申し上げたことになる」


「そうじゃ、そうじゃ」


「それじゃ、それしかない」


 ……さっそく、あばら家の若殿に向けて、使いの者を差し向けることになった。



 あばら家では、すっかり元気を取り戻した継母が、若殿の狩ってきた狐を料理していた。


「気持ち悪いのう」


「いや、母上、そんなこと言わずに……命をいただくのですから」


「さようなことは分かっておる! ……が、いざさばくとなると、やはりのう」


「なら、一緒にやりましょう」


 継母と若殿は、何とか狐を捌き、鍋に入れて、まきをくべた。


「……良かったのか、狩って」


「生きるためです」


「せっかく、昨日、仏心を現したというのにのう」


「生かしていただいただけのことは、するつもりです」


 若殿は念仏を唱えた。

 継母はその様子を見て、ふと思い出した。


「そうじゃ、伏せっておったから、今朝の念仏を忘れておった」


「……なら、表に出ますか。幸い、今日は晴れ」


「おうおう、お日様が出ておるなら、これ幸い……どれ寿、念仏十遍、やろうかのう」


「はい、母上」


 そして若殿――松寿丸と継母は、あばら家を出た。

 その目に――城から使いの者が駆けて来るのが、見えた。



 それからしばらくして――


 相模さがみ国愛甲郡毛利荘もりのしょう(現・神奈川県厚木市毛利台)。

 うららかな春の陽気の中、旅僧はいた。

 旅僧が村長むらおさおぼしき人物をおとのい、懐中から取り出したふみを見せた。

 村長は恐れ入ったように深々と一礼して、文を押しいただいた。

 旅僧は鷹揚にうなずき、村長に手振りでもういいと示し、口笛を吹きながら立ち去った。


 ……旅僧が歩いているうちに、ほどなくして、道の向こうに、ひとりの立派な侍が立っていた。

 侍は旅僧の姿を認めると、会釈をして、旅僧の方へ近づいてきた。


「父上」


「新九郎」


 父上と言われた旅僧は、侍に新九郎と呼びかけた。


「父上、かように……扇谷おうぎがやつ上杉朝良ともよしの言いがかりのために、そこまでせずとも良かったのに……」


「何、そろそろ泉下あのよからお呼びがかかってるでな。その前に、みやこ故郷くにをひと目、見ておこうと思うとったから、かまわん、かまわん」


「故郷……備中の荏原荘えばらしょうですか」


「そうよ……で、足を延ばして、安芸あきまで行って参ったわい」


「……御足労です」


「なんの、なんの」


 新九郎――伊勢新九郎氏綱(のちの北条氏綱)は、思い出す。

 先年、伊豆を平定した伊勢家は、相模へと食指を伸ばした。相模の守護を自任する扇谷上杉朝良は、実力で伊勢家に抗することができず、いつの間にか毛利荘のあたりまで浸食されていた。そして、苦しまぎれか、朝良は伊勢家に対し、無理難題の言いがかりをつけてきた。


「相模の毛利荘は、安芸あきの毛利家の本貫であり、毛利家の許可なくば、いかに扇谷上杉家といえども、伊勢家に渡せない。いわんや、毛利荘の村人をおいておや」


 本貫とは、その家にとって発祥の地であったり、姓の由来となった土地を意味する。必ずしも領土ではない。

 つまり、朝良の完全な言いがかりであったが、逆に氏綱の父――伊勢早雲庵宗瑞そううんあんそうずい(のちに北条早雲として知られる人物)は、これを好機と捉えた。

 この言いがかりにこたえてしまえば、扇谷上杉は、少なくとも名目上、伊勢家の相模支配に対して、文句を言えなくなる、と。

 氏綱は止めたのだが、早速、宗瑞は旅立った。宗瑞が発ったことを知った氏綱は、すかさず、腹心の忍びである風魔小太郎に後を追わせた。

 小太郎の必死の追跡にもかかわらず、伊勢宗瑞は上洛してしまい、かつての幕臣・伊勢盛時(平盛時)としての人脈を駆使し、そこで管領代としてみやこを仕切っていた大内義興に面会し、そして――義興の軍中に、その男――毛利興元おきもとはいた。


「……本貫? 毛利荘?」


 興元は、聞き上手の宗瑞に、つい、領地の悩みを語る。自身の疑心暗鬼と、権臣への遠慮から、曖昧な態度を取って、郷里の弟がことになってしまったことを。

 それを聞いた宗瑞は、ならばその悩み、拙僧が……と、なったのである。

 抜け目ない宗瑞は、義興の許しも貰い、安芸あきへと向かった。

 そこで――興元の弟・毛利松寿丸、すなわち若殿と出会ったのである。



「そういえば――書状が来ていました」


 氏綱は懐中から、それを取り出す。


「送り主は……多治比……たじひ、ですか」


「……ほう! もう来たか」


 宗瑞はその書状を受け取った。


「これはのう……、と読むのじゃ」


「たんぴ、ですか」


 氏綱は宗瑞の持つ書状の表をちらと見た。

 宗瑞が微笑みながら書状を読む横で、氏綱は言う。


「では送り主は……多治比たんぴ元就もとなり、というのですな」



 安芸あき

 多治比たんぴ猿掛城さるがけじょう

 早春の夜明け。

 山霧がただよう、山中のその城にて、その少年は朝日に向かって手を合わせていた。

 緑のにおいと、霧の冷たさ。

 その中で、少年は、ひたすらに念仏を唱えていた。


「南無……」


 少年、かつての若殿――多治比元就は、朝日に向かっての念仏十遍を終え、城内へと戻る。

 そこに、継母――杉大方すぎのおおかたが、朝餉あさげを作って待っていた。


「――大方さま」


「ここでは、わらわとそなただけ。母上、で良い」


 今や多治比どの、と呼ばれるようになった若殿。そしてその継母の彼女は、杉大方という敬称で呼ばれていた。

 母上で、良い……と言いながら、その実、母上と呼んでほしいというぐらいは、元就は理解できたので、「母上」と言い直す。


「……もう、朝の念仏十遍は終えられたので?」


「おお、おお……なぜか今日ははよう目が覚めてのう……」


 杉大方は浮き浮きとしている。「はて……」と元就が首をかしげると、そういえば、今日は宮島へ、厳島いつくしま神社へ、杉大方と共に、元服の報告に参る日であったと思い出した。

 昨日の元服の儀で疲れてしまって、深く寝入ってしまい、おかげで、すっかり忘れてしまったらしい。


「ささ、早う召され」


 いくつになっても、やはり女人にょにんというのは、物見遊山が好きなものだな、と思って元就は椀を取った。

 杉大方の凝視に気づく。


「何か? 母上?」


「……今、失礼なことを考えたじゃろう?」


「……え? ……は? さ、さようなことは……」


「そうか? 妾の年齢としのこととか、好んでもうでに行きそうだとか……」


「い、いや、け、けして……」


 動揺する元就に、杉大方は笑った。


「冗談じゃ、冗談……が、女子おなごの前で、そういうことを考えん方が良い……ばれるぞ、殿


「もう若殿は勘弁願いたいものですが……」


「失礼なことを考えた意趣返しじゃ」


「やっぱりばれているじゃないですか」


「当り前よ。妾はそなたの母じゃぞ?」


「これは一本取られましたな」


 今度は元就も一緒に笑った。

 ひとしきり笑ったあと、杉大方はふと真面目な顔になった。


「こたびの参詣でのう……妾には願いたいことがあるのじゃ」


亡父ちちの冥福ですか?」


「それもある……が、やはり、そなたのことよ」


「ほう」


「妾は……そなたが中国を取るように願うのよ」


「……それは」


 元就は、兄の毛利興元から分家を立てることを認められた身である。その名乗りのとおり、多治比の城を領する家として、毛利を支えることを絶対条件として認められたのだ。

 それが、中国地方を取るように願う――それは、下剋上では。


密事みそかごとじゃ……それはたしかに、兄君のことを考えると、不敬であり不逞じゃ……じゃが、子の栄達を願うは、母心。そういうことじゃ」


「…………」


 元就はちょうど食べ終えて、椀と箸を置いた。

 手を合わせ、ご馳走様と感謝の念を告げ、瞑目する。

 そして目を開けると、言った。


「……なら、母上、天下を取るよう願って下さい」


「……天下を?」


「さよう。私は凡人……なら、天下を取るよういそしんで、それで初めて、中国を取れるというもの」


「そうか」


 でははよう行こう、と杉大方は朝餉の膳を持って、そそくさと片づけに出て行く。

 廊下を早歩きする杉大方の目に、涙が見えた。

 こじき若殿と呼ばれ蔑まれた少年が、今、大志を抱いた。

 それがとても嬉しくて、たまらなかった。


「――母上、では、先に門の方に行っておりますぞ」


「おう、おう……片づけを終えたら、すぐ、行くでな……今少し、待ちゃれ」


 杉大方は涙をぬぐい、急ぎ膳を片づけに行った。



「――では、参ろう、大方さま」


「――あい、多治比どの」


 多治比猿掛城の城門にて。

 家来たちに見送られ、元就と杉大方は馬上、宮島へ向けて旅立った。


 ――山霧は晴れ、今や日は昇り、地にうららかな陽気をもたらしていた。


「良い天気じゃのう」


「駆けますか、母上」


「おう、そうじゃのう」


 二人は山道を一気に駆け下る。

 景色がうしろへ流れる。速く。


「……このまま、宮島の渡しまで、駆けますか?」


「そうじゃのう、どこまでも、駆けてゆくがよい」


 元就と杉大方は、やがて山を下り、早春の、緑萌え出づる安芸の野を、どこまでも、どこまでも駆けていくのだった。



 多治比元就。

 のちに毛利家を継ぎ、毛利元就として戦国に冠絶する名将の勇躍が、今、ここにはじまる――。






【こじき若殿 了】

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