05 懇望

「お願い申し上げます、お願い申し上げます」


 若殿は、城の門をたたいていた。

 すでに日は暮れ、夜のとばりが下りていた。

 敲く音が宵闇に響く。

 城門が重々しく開き、中から老人の顔が見えた。


「井上」


「何か」


 あからさまに迷惑がっている顔だ。

 おそらく、若殿に門前で騒がれると、外聞が悪いから、早々に追い払うために出て来たものと思われる。


「井上、いや、井上、頼みがある」


「…………」


 へりくだったのが功を奏したのか、井上は黙っていたが、城門は閉じられなかった。

 若殿は、継母の窮状――病と薬を必要としていること――を、手短に述べた。


「――と、いうわけなのだ、井上どの。どうか薬を」


「断る」


 遜ったのをいいことに、井上は敬語をつかわず、そして拒絶した。


「しかし――」


「若殿の言うとおりにして、わしに何の利がある? 薬は貴重。ましてや、その薬は高価なもの。おいそれと譲られぬ」


 その高価な薬を入手したのは、亡き私の父であろう、と若殿は言いたかったが、言う前に呑み込む。頭を下げる。


「井上どの、これ、このとおりじゃ。薬は高価なのは分かる。分かるが、それが今無くては、継室、いや――」


 若殿がそこで言葉を切り、言いなおす。


「いや――が、母が危ないのだ。井上どの、貴殿とて母がおったであろう? であればこの心情きもち、ご理解あれ」


「…………」


 井上は胡乱な目をして若殿を見た。見たが、何も言わなかった。

 若殿はそれを、井上の心中に逡巡があると見た。そこで、道中考えた策を用いた。


「井上どの、井上どのの、このの城に居ること――これは、兄上も存じていることであろう?」


「……どう、いや――」


 井上の目が見開く。どうしてそれを、と言いかけたのを黙ったところは、さすがに貫禄の勝利と言えるだろう。


「いや、これは私の独り言だ、井上どの。そのようなこともあろうか、と思って、つい口走っただけのこと――だが、ついでに言わせてもらおう」


「…………」


 井上はもはや、若殿の発言から逃げることはできない。

 若殿は古代の唐土もろこしの縦横家のように、弁舌を駆使する。


「この城、正式に井上どのに渡したことにしても良い。証文も書こう。それに――」


 そこで若殿がひと呼吸置く。

 井上は、もう若殿の次の言葉が待ちきれないとばかりに、いつの間にか城門の外に出ていた。


「それに――兄上にこう伝えて欲しい。私は兄上を下剋上するとか……つまり兄上の留守をいいことに、家を乗っ取るつもりとかは、無い。許されれば、別の家を立てたい。歴史のない、新しき家を、別の姓で」


「それは――」


 井上がうなった。若殿の発言は正鵠を射たものだった。井上は、何も無策で、そして何も考えずに城を乗っ取ったのではない。

 井上は、京にいる若殿の兄の心中の、穏やかならぬことを見抜いていた。


 下剋上渦巻くこの世の中。

 京にいる大名を差し置いて、領国の一族や家臣が、その領国を乗っ取ることは日常茶飯事。

 ならば。

 若殿もまた、この領土を乗っ取るのではないか。

 

 若殿の兄は明言こそしなかったが、そういう危惧を抱いていた。

 そこを――井上につけ込まれた。

 井上は、若殿に対しては「後見のため」と告げての城に入り、若殿の兄に対しては「牽制のため」と称しての城の乗っ取りの黙認を暗に要求した。

 若殿の兄は「万事よしなに」と、どうとでも解釈できる返答をした。

 こうして井上は、下剋上を憂う若殿の兄を利用して、若殿に下剋上を仕掛けることに成功したのだった。

 ただし――若殿の命を奪うことは躊躇ためらわれた。殺してしまうと、若殿の兄が心変わりをして、成敗に出るやもしれぬ。それに、弟である若殿が殺されたとあっては、さすがの主君も、若殿の兄に帰国を許さざるを得ない。

 そうなれば――城を返すどころではない、謀叛むほんの疑いありとして成敗という流れになる。

 だから、井上は若殿を城外に放置したのだ。そして困窮の末に死んでしまったとあれば、ある意味、若殿の兄も共犯である。少なくとも、成敗にはなるまい。


 それが――。


「分家を立てるということで、どうか、どうか兄上に取り次いでもらいたい」


 その提案を呑むということは、井上にとって危険だった。ある意味、名目上、の城の城主を若殿にしているからこそ、である井上が城に入って領地を治めるという図式が成り立っている。

 今、若殿が別の家を、分家を立ててしまったら、若殿との城は離れる。離れてしまったら、後見である井上が城に入っている理由が無くなってしまう。

 若殿は城を井上に譲る、書面にしても良いと言っているが、それをあからさまに実行するわけにはいかない。まず、他の家臣から物言いが出る。なぜ、非の無い若殿に城を譲らせるのか、と。

 それに、若殿の兄と若殿は、今は亡き正室から生まれたが、庶子の若殿の弟たちが、その母親の実家の後押しを受けて、なぜ自分たちではなく井上を、と言ってこよう。


 これは、危うい。

 そう思った井上は、城を譲る分家になると言い立てる若殿をひとまず帰らせることにした。


「……分かった、分かり申した」


「では、井上どの、紙と筆を……」


「いや、いや、今すぐに返事は出来ぬ……出来ぬが、薬は渡そう。それで、今日のところは帰ってくれぬか」


「……おお」


 若殿としては、まずは継母の命を救いたいので、否やは無かった。

 井上は家来に命じて早速、薬を持ってこさせ、半ば押しつけるように若殿に渡した。

 若殿は喜色満面にして、薬を握りしめ、一路、あばら家へと疾駆していった。

 あとに残された井上は、心中から込み上げる感情を、どういったものか把握しかねていたが、歯みし、拳を握り締めている自分に気づき、その感情の正体を悟った。


 ――これは、憎悪だ、と。


 ……今日のところは薬を渡してしのいだが、継母の病状が落ち着いたら、また若殿は、城を譲るだの、分家を立てるだの言ってくるに相違ない。


「さようなことを……させる……ものかッ」


 井上は、罪のない城門の扉に拳を叩きつけ、声を荒げて家来たちを集めるのであった。

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