第29話 茜色の陽だまりの世界 -03-

 何が起きたのか、全く理解が追いつかなかった。


 メルと繋いでいた手が離れてしまい、慌てて振り返った時には、メルに向かって天井が落ちようとしているのがわかった。


 けれど、身体が動かなかった。それなのに……


 突然、目の前に現れたテオが、転んだメルを拾い上げて、そして私に放り投げてきた。


 ”高い高い”をした時に、一度だけ、メルを私の方へと放り投げてきた、あの時のように。


 ただ、あの時のように、私は笑えない。あの時のようにメルの笑い声は響かない。あの時のように、尻餅をついた私たちに手を差し出してくれるはずだった人は、一瞬にして目の前から消えてしまった。


 メルを守って、テオは崩れ落ちた瓦礫の下敷きとなった。


 祈っても、もう届かなかった。あの時に願った幸せは、もう二度と叶わなくなった。


 テオは私とメルを守る騎士様だから。


 メルを励ますつもりで言ったその言葉が、私の脳裏に蘇る。孤児院を出るメルを勇気付けるために私が言った言葉だ。


 約束通り、テオがメルを守ってくれた。



 アラン様が、呆然と座り込む私をメルごと抱きかかえて安全な場所へと避難してくれた。


 屋敷はあっという間に崩壊して、今では見る影もない。


 怪我を負った騎士様たちが集まる場所で、私は現実を目の当たりにする。


 全部、私のせい、また、私のせいで……いや、逃げちゃだめだ。私がやらなきゃ、守ってもらうだけじゃだめなんだ


 アラン様に支えてもらっていないと立っていられなかった。けれど、私は祈りを捧げる。


 聖なる魔法が、騎士様たちの怪我を癒してくれた。


「ソフィア、ありがとう」


 アラン様の言葉に、ほっと胸を撫で下ろし、私はゆっくりと頷いた。けれど、うまく笑顔は作れない。


 瞳から、再びポロポロと涙が零れ落ちるのがわかった。同時に、嗚咽混じりの小さな呟きが私の耳に届いたから。


「うぅっ……メルの、せい……ごめんな……」


 泣き噦るメルを見て、私は自身の涙を拭う。


「メルのせいじゃないよ。テオは格好良い騎士様だから……騎士様だから、メルのことを守ってくれたんだよ」


 私の声を聞き、メルは少しだけ落ち着きを取り戻すも、メルの涙はまだ止まらない。


「でも、テオお兄ちゃんが守るのはソフィアお姉ちゃんでしょ? 本物の聖女様は……ソフィアお姉ちゃんだもの」



 聖女様は格好良い騎士様に守ってもらわなきゃ。ね、テオ



「メルには、ソフィアお姉ちゃんとテオお兄ちゃんが交わしたあの時の約束には、メルを含んでいないことくらいわかってた。テオお兄ちゃんは本物の聖女様のソフィアお姉ちゃんを守るという意味で約束をしたんだって」

「そんなはずないわ。テオもメルのことをすごく可愛がっていたもの」


 私の言葉にメルは首を左右に振る。


「メルはね、テオお兄ちゃんがソフィアお姉ちゃんを守ってくれるってだけで嬉しかった。メルの大好きな二人が幸せならそれで良かったの」


 メルのあの時の満面の笑みは、テオが私を守ると約束してくれたことが、ただただ嬉しかっただけだという。


 けれど、メルの言葉に私は首を左右に振った。


「メル、メルは私とテオにとって間違いなく聖女様だったよ。いつも笑顔で私たちの心を癒やし続けてくれた。本物の聖女様だったわ」

「ソフィアお姉ちゃんはメルに聖なる魔法が使えるわけがないことがわかっていても、本物の聖女様だね、って優しく笑いながら言ってくれたよね。メルは、その言葉が本当だっていうのは知ってた」

「メル?」

「メルね、人に触れるとその人の心が読めるの。それがメルの魔法なの」

「え?」

「テオお兄ちゃんは知ってた。メルの魔法のこと。そして、メルとソフィアお姉ちゃんを救うためにメルを聖女だって偽ったことも」

「え? 待って、どういうこと?」



 メルはテオお兄ちゃんを救ってあげる。悪い者からテオお兄ちゃんを解放するの



「メルね、知ってたの。テオお兄ちゃんが悪い人だって」


 メルは、あの時にはすでに知っていた。テオが人身売買の組織の一員であるということを。


「メルのことを可愛がってくれたことも嘘じゃないし、メルのことも守りたいって思ってくれたことも知ってたの。メルを聖女と偽って、悪い人に報告するって、全てテオお兄ちゃんが教えてくれたから」

「メルを身代わりにするなんて、どうしてそんなことを?」

「メルのことも助けたいって思ってくれたから。メルとソフィアお姉ちゃんと三人で幸せになろうって思ってくれたからなの。でも、一番は絶対にソフィアお姉ちゃんを守りたいから。テオお兄ちゃんはソフィアお姉ちゃんのために生きていたから」

「メル……」

「だからね、メルは、もしもテオお兄ちゃんとソフィアお姉ちゃんが二人だけで逃げても、二人が幸せになってくれるなら、メルだけが犠牲になってもいいって思ってたんだ」


 私はメルに何も言えなかった。


 守ってもらうのが当たり前の5歳の女の子が、まさかそんなことを考えていたなんて、私は全く気付いてあげられなかったから。


 それどころか、反対に守られていたなんて思いもしなかったから。


「でも、テオお兄ちゃん言ってた。ソフィアお姉ちゃんはもしかしたら来れないかもって。それでもいいか? って聞いてくれたの。一番辛いのはテオお兄ちゃんだったのに、メルに聞いてくれたんだ。メルね、ソフィアお姉ちゃんが幸せならそれでよかった。だから、今度はメルがソフィアお姉ちゃんの分もソフィアお姉ちゃん以上にテオお兄ちゃんを大好きになろうって決めたの。ううん、もう大好きだったんだ。でも、テオお兄ちゃん、ソフィアお姉ちゃんが辛そうだからやっぱり連れてきたって。テオお兄ちゃんが一番大切なのは、やっぱりソフィアお姉ちゃんだった。だから、だからね、テオお兄ちゃんが自分の命を犠牲にしてまでメルを守ってくれるなんて、そんなことは全く思ってなかった……テオお兄ちゃんごめんなさい。ソフィアお姉ちゃんごめんなさい。メルのせい、全部メルのせい……」


 言葉に詰まり震えるメルの手を、私は優しく手に取り、そして、ぎゅっと握りしめた。


「ごめんなさいなんて言わないで。テオはメルを守るって言ってたじゃない。格好良かったじゃない。それにね、メルの魔法がどんな魔法でもメルはメルだよ。私の大切なメルに変わりはないんだから」


 メルはぐっと唇を噛み締め、そして絞り出すように、私に伝える。


「テオお兄ちゃんから、ソフィアお姉ちゃんに最後の伝言だよ。『約束を守れなくてごめん、さようなら』って」


 それは、メルを私のもとへ放り投げる前、テオがメルを抱き上げた時に、テオから頼まれた伝言だったという。


「あとね、心の声もソフィアお姉ちゃんに……」

「ううん、それはメルだけにしまっておいて。もし心の声があるのなら、それはメルへの言葉だよ」



 ありがとう、俺の大切な聖女様



 メルは私の言葉を聞いて、さらに大声で泣き出した。そんなメルを私は抱きしめてあげることしかできなかった。


「約束、守ってくれたじゃん。メルを助けてくれたんだもの。とっても格好良い騎士様だったよ……」


 私とメルが見上げる空には、すでに燃えるような夕陽は姿を消して見えなくなっていた。


「“さようなら、またね”じゃないんだね……」


 だからせめて、星降る空に祈りを捧げながら、私たちは泣いた。


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