第7話 再会、そして下僕になる -01-

 嫌な夢を見た。とても長い夢を、悪夢を見ていた気がした。いや、違う。あれは夢なんかじゃない。


 深い眠りから目を覚ました私に、少しずつ、少しずつ、あの日の記憶が蘇る。得体の知れない恐怖が、じりじりと私の身に襲いかかってきて。


 逃げようとしても、捥がこうとしても、身体に力が入らない。けれど、声も涙さえも出ない。まるで金縛りにでもあっているかのような感覚に襲われる。



「お目覚めになられましたか?」


 その言葉に、一気に全身の硬直が解けた気がした。


 誰?


 ふわりと優しい笑顔を向けて微笑んでくれるその姿に、天使に会ったのではないかと思った。


 ああ、ここは天国なんだ。


 そう思わずにはいられなかった。


 私は今、とても広い部屋の上品なベッドの上で横たわっていたから。


 ふかふかすぎて、どんどん身体が沈んでいってしまうのではないかと心配になるけれど、とても寝心地が良いベッドの上に。


 ずっとこのままでいたい気がしてしまったけれど、なんとか気力を振り絞って、身体をゆっくりと起こそうとした。


 けれど、やっぱりうまく力が入らない。


 すると、先ほどの天使のおねえさんが、私を起こすのを手伝ってくれて、背中側にクッションを挟んでくれた。


 そして、慣れた手つきで私の口元にスプーンを運んでくれる。スプーンで水を飲ませてくれようとしていることがすぐに分かった。


 差し出されるがままに、私はその水を口に含んだ。


「おいしい……」


 自然と言葉が漏れてしまった。同時に、今、自分は生きてるんだって実感してしまった。


 身体中に染み渡るその水が呼び水にでもなったのか、枯れ果てたと思っていた涙が、ぽたりぽたりと再び零れ始めた。


 泣いちゃだめ、と思っても、それは止まらなかった。


 おねえさんが見守る中、私はひとしきり泣いた。


 泣いて、泣いて、ようやく涙がおさまったころ、おねえさんはもう一度、優しくにこりと笑ってくれた。


 だから、聞いてしまった。


「夢、ですか?」


 それとも、やっぱり天国かな。


「ふふ、今すぐお医者様を呼んできますね」


 そう言って、おねえさんは部屋を出て行った。


 お医者さんの診察なんていつぶりだろうか。もしかしたら初めてかもしれない。それくらい私の身体は頑丈だったから。


 診察も終わり、栄養失調と診断された。だからなのか「栄養をつけなさい」とスープを持ってきてくれた。


 温かくてとてもいい匂いのするスープを、私の目の前に差し出してくれる。


「お腹、空いてない……」


 嘘。本当はとてもお腹が空いている。


 けれど、私にはそのスープの代金を払えるお金がない。だから嘘をついた。


 私の思いとは裏腹に、ぐうっとお腹が鳴ってしまった。恥ずかしすぎて、私の顔は真っ赤に染まる。


 ふふっと笑ったおねえさんは「どうぞ」とスープを食べさせてくれようとした。


「お金が、ないんです……」


 私は小さく呟いた。


 キョトンとした顔のおねえさんは、再び、ふふっと笑って、優しく私に告げる。


「お金はいりませんよ」

「え?」


 今、何て? 


 食べ物を食べるのにお金がいることくらい、いくら私が孤児院から出たことがなくても知っている。


 しかも、こんなにも美味しそうなスープの代金がいらないなんて……


 戸惑う私に、さらにおねえさんは優しく告げる。


「そのかわり、無理せず食べられるだけ全部食べてくださいね。そして、味の感想を聞かせてください。そうしていただければ、お金はいりませんよ」


 それは、おねえさんがわたしに気を遣わせないように言ってくれた言葉だった。その優しさにわたしは甘えてしまった。


 私はこくりと頷いて、ゆっくりとスープを口に運んだ。


「とても、おいしいです……」


 私の瞳から、また涙が零れた。


 

 おねえさんが名前を教えてくれた。アンジュさんというらしい。


 聞いた瞬間、やっぱり天使なんだなって思ったのは内緒。


 私は国によって保護された。孤児院襲撃事件の生き残り、目撃者として。


 アンジュさんは、私が王城で過ごすにあたって不自由がないようにと、お付きの侍女として選ばれたのだとか。


「光栄なことです」と言ってくれたけれど、恐れ多すぎて、申し訳なく思ってしまった。


 それから毎日、それも朝昼晩と三食きちんと食べさせてくれた。


 その度に私はお金がないことを伝えた。元気になってくれればそれでいいと、やっぱり言ってくれる。


「私は本当は死んでいて、やっぱりここは天国なのかな?」


 そう思ってしまうくらい、みんなが私に優しくしてくれた。


 


 王城で目が覚めてから五日が経ち、私は部屋の中を自由に歩き回れるほど回復した。


 そして、生まれて初めてお風呂にも入った。恥ずかしくて、擽ったくて、そしてとてもいい匂いがした。


 ふと、あの日のラベンダーの香りを思い出し、私の胸は、ぎゅっと締め付けられた。


 一体、どんな人が私に手を差し伸べてくれたのだろうか。私はまだ知らない。「ありがとう」もまだ言えていない。


 


 そしてとうとう、覚悟をしていた“その時”が来てしまった。


「孤児院で起きたことを、教えてほしい」


 その言葉に私は思わずごくりと息をのんだ。


 途端に、身体中の震えが止まらなくなり、ぽろぽろと涙が零れはじめ、涙を見られないように顔を俯かせた。


 覚悟はしていた。けれど、口にしようとしても、何も言葉が出なかった。


 何を言えばいいのかが分からない。何かを話そうと思えば思うほど、頭の中があの緋色で埋め尽くされる。


 自分の無力さを思い知った。


「また、落ち着いてからにしよう」


 その言葉に、私は自分に抗うように首を左右に振った。


 テオは? クロエ姉さんは? みんなは? 


 会いたい。みんなの無事を確かめたい。


「は、話します、みんなは……」


 私の言葉に、目の前のその人はゆっくりと首を左右に振った。


「残念だけど……」


 その一言に、私は涙も出なかった。


 絶望に似た感情、一気にあの時と同じ真っ暗な闇の中に突き落とされた。


 この惨劇の原因は、きっと私だ……


 私はそう思ってしまった。誰に言われたわけでもないのに、自分のせいだ、と。


 それからのことは、正直言って覚えていない。


 縋るような気持ちで、私は胸元のペンダントを手で握った。


 このペンダントだけが、クロエ姉さんが生きていた証となってしまった。他のみんなのものは、ない。




「私だけ、生きていちゃいけない……」


 部屋に戻った私は、ぽつりと呟いていた。


 この部屋には今、私とアンジュさんしかいない。


 初日からずっと私の側にいてくれていたアンジュさんにだけは、私は心を開き始めていたのだと思う。


「いいえ、生きなければいけないんです。ソフィア様だけですよ? みなさまのことを思い出してあげられるのは。それが、きっとみなさまが生きた証になるんです」


 アンジュさんが、私に優しく諭すように告げた言葉に、私は俯いていた顔をゆっくりと上げる。


「私、生きていてもいいんですか?」

「はい。でも、ただ生きるだけではいけませんよ」

「どうすれば……?」

「幸せになるんです。みなさまの分まで」


 みんなの分まで幸せになればいいと言ってくれるアンジュさんは、やはり天使の生まれ変わりだと思う。


 今いるこの場所も、アンジュさんのその言葉も、神様がくれた贈り物のように思えて、私は少しだけ許された気がしてしまった。


「私は、幸せになってもいい……」


 自分に確認するかのように呟くと、それにアンジュさんが優しく答えてくれる。


「もちろんです」


 天使が微笑むように。神様からの伝言を私に伝えてくれているかのように。


「私、幸せになりたい、です……」


 みんなの分まで。


 続くその言葉とともに、一筋の涙が頬を伝った。けれど、もう俯かない。


 幸せになりたい


 その言葉は、私が目覚めてから初めての「生きたい」という強い意思の表れだったのかもしれない。



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