第33話 Tranquillo

和泉大輔は、森花音に呼ばれていた。


『こないだ、和泉くん女の子に話しかけられっぱなしだったから、フードの仕込み方教えられなくって。月曜の休みの日、10時から来れたりしない? 給料は多めに出すよ』


サークルの終わり時間を考慮した花音の提案を、金も出るとのことで和泉は快く了承する。


当日、制服で動き慣れた方がいいとのことで、本番同様に着替えと髪のセットをするため、15分前にバックヤードに到着する。


そこに、森花音の姿はなかった。


カウンターにいるのかもしれないと表に出ると、そこにはぼんやりと空中を眺めている広橋がいた。


「――あれ、広橋? なんでいんの?」

「……いずみ、くん?」


広橋の赤く腫れた目元と、流し台につけられた2つのグラス。

それらが、何があったかを物語っていた。


「……お客様、ご注文は何にいたしますか」

「何、急に」

「いいから。接客練習させてくれよ。花音さんが色々教えてくれるって言うのにまだ来てないから、ヒマなんだよ」

「……じゃあ、ホット……やっぱり、やめた。和泉くんの、おすすめがいい」

「かしこまりました。ノンアルコールだけど、そこは我慢して」


カシスシロップと炭酸水を混ぜて、レモンスライスを乗せる。

ノンアルコール版の、カシスソーダ。


「はい、カシスソーダ。レパートリー少ないから、これくらいしか出せなくてごめん」

「ううん、全然。ありがとう」


広橋はよく冷えたカシスソーダを口に含む。

柑橘類の爽やかな香りが鼻腔を通り、べたついた喉の奥を炭酸が洗い流す。


「ぷはっ。美味しいね、これ」

「よかった」


和泉は、広橋がカクテルを気に入ってくれたことに安堵し、2つのグラスを洗い始めた。

櫻木との過去が洗い流されるような不安感もあったが、和泉になら流されてもいいかもしれないという信頼感が少し芽生えていたのも事実だった。


「広橋」

「ん?」

「焦んなよ」

「……うん。でも、もういいの」

「何が」

「さっきね、櫻木さんにフラれちゃった。『西野さんと付き合うことになったから、広橋も次に進め』って」

「……そうか」

「ねえ、和泉くん」

「……なんだよ」

「私さ、和泉くんなら――」

「焦んなよ、つったろ」


広橋の言葉を遮って、和泉は流し終わったグラスを拭きはじめる。


「俺は、櫻木慎吾じゃない。和泉大輔だ」

「……そう、だね。うん、ごめん」


和泉がグラスを片付け始める。

この2人の時間の終わりが近づいていることを、なんとなくだが両者ともに感じていた。






「ごちそうさま」


バッグを開いた広橋を、和泉は2拍の手拍子で制する。


「奢り」

「悪いよ」

「いいんだよ」


和泉はグラスを回収すると、もう一度流し台に戻った。


「じゃあ、お言葉に甘えて。こないだの手当てのお返しもしてないのに、ごめんね」

「いいよ、別に。見返り求めてやってることじゃないから」

「なら、なおさらお返ししないとね。おやすみ、和泉くん」


ひとつウィンクをして、広橋は和泉に背を向ける。


「……おやすみ」


和泉の頬が赤いことに、広橋は気づいていなかった。









和泉はカシスソーダが入っていてグラスを拭き終わると、手に持って眺める。


「……伝わらないか、流石に」

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