第32話 終わりと始まり
「三尋木から、聞いたよ」
おずおずとこちらを見上げる広橋を、優しく撫でてやる。
「辛かったな。誰も信じられなかったんだな」
広橋の目に、涙が浮かぶ。
「広橋。今まで広橋が見てきた世界が、全てじゃない。俺は、唯一無二じゃない。身長がちょっと高いだけで、平凡で、ありふれた存在だ」
「違い、ます」
「違わない。じゃあ、大学入って俺以外の男子と話したかよ。広橋こそ、俺以外の男の中身見てんのかよ」
「だって、どうせ」
「広橋の中身をちゃんと見てくれて、広橋のことを信じてくれる男がいるかもしれないって、もう一度だけ信じてみようぜ」
「私、もう」
「諦め、悪いんだろ!」
はっとした顔で、俯きかけた広橋が俺に向き直る。
その頬には、涙が一筋伝っていた。
「俺のこと諦められないくせに、なんでそこは諦めるんだよ……!」
ぽつ、ぽつ。
広橋の頬に、2人目の涙が落ちる。
「いいか! そんなに俺に浮気させたいならな! 広橋が信じられる奴を死に物狂いで見つけて! 俺に『広橋にしとけばよかった』『逃した魚は大きかった』って思わせてみやがれ!」
「……嫌ですよ。そうなったら、私が浮気しないですもん」
広橋が、俺から離れて、涙を拭う。
彼女が、俺を落とすために、俺好みにしたであろうメイクごと。
そして、彼女が他人との間に作ってきたであろう見えない壁ごと。
「けれど、私を忘れないでいてもらうくらいは、いいですよね」
そう言うと、広橋は再び俺との距離を詰めて――俺の唇を、奪った。
触れ合った時間は1秒にも満たなかったかもしれない。けれど、俺の記憶に一生残り続けるには、十分だった。
「次は唇って、言いましたよね」
「……俺からしてもらうとか、言ってなかったか」
「都合の悪いことは忘れました」
広橋はこつんと俺の胸に弱々しい頭突きをして、俺から離れた位置に座り直す。
もう、この距離がこれ以上詰まることは、二度とないだろう。
「ちょっと、あんまり見ないでください。メイクボロボロになっちゃったんですから。ほら、さっさと帰ってください」
「お手洗い行って直してきなよ。広橋を家まで送るのが、フッた男の責任だろ」
「ほんっとに呆れるくらいバカ優しいですね。けど、そういう優しさが残酷な時だってあるんですよ。ほら、帰ってください」
「……わかった。そのグラス、飲み終わったら流し台の水に付けてから帰って。花音さんに殺されかねない」
「あはは、わかりました。……櫻木さん、おやすみなさい」
「……おやすみ」
広橋を残して、俺は『FOREST』を後にした。
なんとなく、誰のためにならないとわかっていても、今日は真奈美に会わずに帰ろうと思った。
化粧室でメイクを直した広橋は、流し台のボウルにホットミルクのグラスを沈める。
水が白く濁っていくのを眺めていると、また涙が溢れてきそうだった。
けれど、このまま『FOREST』を後にするのもなんとなく嫌だった。
広橋はバーカウンターに座り直すと、普段慎吾が働いている何もない空間を眺める。
――櫻木慎吾以外の男の中身。
先程櫻木に言われた言葉を、反芻する。
そんなものは、見たことがなかった。
見せてきた男も、いなかったかもしれない。
「――あ、ひとり、いたかも」
私が不相応に挑んで、無様に敗れた日。
あの日、私の頭を無理矢理冷やしてきた男が、ひとり。
そんな彼の姿を、頭に思い浮かべる。
「……あれ、広橋? なんでいんの?」
「……いずみ、くん?」
――その彼が、目の前に現れた。
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