変化の一日Ⅵ


 とくに俺が”危うい”だなんて考えてこなかった。この瞬間まで。


 俺が俺なのは考えたり思ったりするより明らかだから、何も疑問だと思わなかった。 

 もし疑問に思ったとしても、俺が俺じゃないとはいったいどう言うことなのか。

 そう考えた時点で結果は見えている。


 こんなことを疑問に思うことすらおかしいのだから、わざわざそんな話をする必要もない。

 きっと彼女、木下水月が間違っているのだと。そう、思っていたかった。




 彼女は最初から先輩だった。周りから言われていることなんて気にせず自分を変えようとしない強い信念を感じていた。

 俺はそれをどこか羨ましいとさえ思っていたのかもしれない。

 彼女とはまだ一ヶ月とそこらの時間しか会っていないのに、いろいろなことに気にかけてくれたりしていた。


 仕事面ではとくに問題はなかったのだが、初めての給与の時のちょっとしたトラブルにも親身になってくれたし、配送のバイトをしていると知られてからは、生活面で何かと言われることも多くなった。


 彼女とは踏み入った話をしようと思えばすることができるくらいには仲が深まってはいたが、これまでそう言う話題は一切出てこなかった。



 もしかしたら、俺のためを思ってくれていたのだろうか。


 彼女は俺を危ういと言った。

 一度でも俺の琴線に触れてしまえばどうにかなってしまいそうな、そんな脆さを感じていたのかもしれない。


 彼女は心配だと言っていた。

 俺の危うさを俺自身が知らないことにより、余計な心配をかけさせてしまったのだろうか。


 ――わからない。



 ただ、そう自問すると何かが引っかかる。

 まるでこれまで悩んでいたことに関係しているかのような、そんな引っかかりを。





「なんか陰気臭くなっちゃったね。それより君は何か私に聞くことがあったんじゃなかったっけ?」


「…………?」


「なぜ君が忘れて私が覚えているんだ……。ほら、私がここにいるり、ゆ、う」


「……そういえばそうでしたね。なんでこんなところにさも当然かのように現れたんですか?」


「その言い方じゃまるでさも当然かのように現れたらいけないみたいじゃないか」


 俺が無言で答えると、彼女はまったく、と口を開いた。


「実は君のことを付けていたんだよ」


 スッと俺の手がポケットの携帯に伸びようとしていたがそれを彼女の手で遮られていた。


「待て待て、まだ判断するのは早計じゃないかな。これじゃあまるで私がストーカーの上に男を追いかける変態の扱いがされそうじゃないか」


 もしかするとそうなのでは、という意識が働くが、いや違うからね!?と間髪入れずに言われてしまっては何も言えない。


「君が私のことをどう思っているのか、よーくわかったよ。せっかく慣れないことをしてやったというのに可愛くない奴め」


 フンッと顔を逸らし頬を膨らませる顔を見てしまっては、その表情ゆえに許してしまいそうになる。


「とりあえず、私は君の住所を正当に店長からいただいたのだよ。君が体調を悪そうにしていたと言う嘘を重ねて君の住所を聞き当てたのさ」


 いや、そうでもないらしい。

 もう一度手をポケットに伸ばそうとしたが「待て待て」と彼女が言う。


「大丈夫さ。住所を聞いても不自然にならないように、ちゃんと雫くんの彼女と言っておいたからね!」


「おい、それはちゃうやろ」


「あぁ、ちゃんとみんな認めてくれたよ。お前なんかがよく片桐を捕まえたな、ってね」


「いやそれみんな疑ってるんですよ……。事実捕まえられてませんしね?」


「いやまたぁ……え、ほんとに?もしかして私、空回り?」


「感情を読むのが得意だったんじゃないんですか……先輩」


「いや得意だけど、だってカレーライスだと思っていることにわざわざ食事を考察することなんかしないだろう?」


「なんですかそれ。いや言わんとしてることはわかりますけど、その理論だと先輩が俺の彼女なのが前提みたいじゃないですか」


「俺の彼女……。ポッ」


 彼女は顔を赤く染めると腰から上をクネクネと捻らせて見せた。


「はぁ、それでどうしてこの場所が分かったんです?」


「付けていた、と言っただろう?大学もないし朝から張り付いていたのさ。さながらあんぱんを啄みながら操作する刑事のようにね」


「それで朝から出かける俺の姿が見えて、よく俺がここにくることがわかったと」


「そう言うわけさ。初めに公園でバク転をし始めた時は大丈夫かと思ったけど、この河川敷にきたと思ったらさながら体操選手ときたものだ。本当に見惚れてしまったよ」


 公園に行っていることがバレてると言うことはおよそ一週間も前から付けられる日は付けていたということか。


 一人で悦に浸っていたと言うのに見られていたというのはなんとも滑稽なことか。


「ただ、それ以上に危うさが目立った。君はこれまで特に朝をルーティンに組み込んでいなかっただろう?それがいきなり始まり、続いているんだ。何か環境に変化があったわけでもない。君は一人暮らしだと言うしね。だとするならアルバイト関係が濃厚だろう。特に交友関係も広いわけではないようだしね」


 以前に連絡先を交換した時に登録されている連絡先の数で励まされたことがあるが、そのことを言っているのだろう。



「もしかして、新しいバイトでも始める気かい?」


 しばし肯定とも取れる沈黙が流れた後、彼女は一度ため息をして言う。


「通りでね。表情や態度では表れないが、行動で表れてしまったかな?ずっと見ていたが、その美しさとは裏腹に危うかった。だからちょっと私も運動する準備もして声をかけたのさ」


 彼女がついていた腰を浮かせ「これは朝風呂かな」と呟き、お尻をはたきながら立ち上がる。


「私は君がどんなことをするかは知らないし、そこまでは踏み込まないつもりさ。何かこれまでのものより不安に思うことのあるモノなんだろう?だから私は、キミの、先輩として一言だけ言おう」 


 彼女は息を大きく吸って言う。



「キミの思うキミであれ」



「俺の思う……」


「そうさ。私から君に言えることなんて本当は何もないんだ。君が危うく見えてもそれは私がそう見えると思い込んでしまっているからかもしれない。ただその言葉に少しでも君が引っかかることがあると言うのなら、キミの思うキミであれ。これは決して君らしくあれ、と言うことではないのがミソなんだよ。私じゃ君のことを何か言うには、君のことを知らなすぎるからね。だから、キミの思うものを私は尊重するしかないのさ。これでも何も知らないなりに配慮して言ってやったんだぜ?感謝して欲しいものだね」


 まったく先輩は、わかってるくせに卑怯なものだ。


「先輩はすごいですよ。俺のことほんとに知らないくせによくそんなこと言えたもんです」


 彼女は少し苦虫を噛み潰したような顔をして、それを言うかい?と訴えるような瞳で微笑む。


「だから、ありがとうございます。なんとなく、漠然としたものですが、何をしたらいいか見えてきた気がするんです」


「――それならよかったよ。ほんとに……」


 一瞬辛気臭い雰囲気を醸し出したかと思うと、いつもの彼女のように天真爛漫な笑顔を見せた。





「よし。これで話終わり!」


 パンパンと両手を叩き、伸脚やらアキレス腱を伸ばし準備運動を始める先輩。


「雫くん、最初に私がなんていったか覚えているかい?」


 そういえば最初は先輩に誘われるように呼びかけられていたっけ。


「覚えていますよ。ちなみに俺結構ペース早いんでついてこれなくなったらちゃんといってくださいね」


「それならこっちのセリフだよ。体力有り余る心理学部の大学生の底力見せてあげようじゃないの」


「先輩、心理学部なんですか。初耳ですよ」


「そりゃあ言ってないからね!それじゃ、おいてくぞー」


 合図もなしに走り出す先輩。


 その女性にしては少し大きい背中を見つめながら俺もそれに続く。


「大きいなぁ」


 先を走る先輩の影はなぜか大きく感じた。

 これまでははっきりと断言することも出来なかっただろう関係だが、今ならはっきり言える。


 彼女はオレの紛れもない偉大な先輩だ。


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