変化の一日Ⅴ


 先週に加え、今週においても配送のアルバイトをする時に暗号を見つけては仕事を受注するようになっていることもあり、六〇二号室に住む彼女とは計三回会っていた。

 二回目以降特に問題があったわけではないため軽い雑談をドアの前で広げていた物だから、随分と人懐っこい性格をしているらしいことがわかった。初めのころの人見知りの雰囲気を感じさせないほどだ。


 ただの配達員としては行き過ぎていることもありながら少し彼女には罪悪感を感じる節があるため、どうしようか悩みの種でもある。

 どさくさに紛れて名前も知らないのに連絡先を交換する流れにもなってしまった物だから、彼女も少し人付き合いにはもうちょっと配慮した生活を送って欲しいものだ。

 親の身からしてみれば危なっかしいったらないだろう。


「今日もありがこうございます!配達員さん」


「はい、どうも。これからもご利用よろしくお願いします」


「はい!もちろんです!」


 彼女は少し吹き出すように笑いを堪えていた。


「何かおかしかったですか?」


「いえ、なんだか毎回同じやりとりをしているなって」


「仕事ですからね。まさか、同じ客人に三度も会うとは思ってもいませんでしたよ」


「そうですね」


 そう言うと彼女は小動物のように小さく微笑んだ。


「では今度こそ。さようなら」


「はい、今日もありがとうございました、シズクさん」



 俺が何食わぬ顔でエレベーターまで進んでやっと気づいたのだが、なぜ俺の名前がバレているのだろうか。

 一度も名乗った覚えはないはずなのに…。


 するとポケットから通知のバイブがなる。

 そこには「今日もありがとうございました」と書かれたメッセージがMeiという名前の人物から送られてきていた。

 数少ない連絡先にそんな人物はいなかった覚えなのだが、と思ったところで彼女と連絡先を交換していたのを思い出して納得した。


「そういえばシズクで登録しているんだったか」


 安易にSNSの名前は本名にしない方がいいのだろうかと思考する夜だった。




――――――




 そうしてこの一週間、町並みをぼんやりと眺めながら意味もなく散歩してみたり、顧客への配達をしたり、これまでのバイトに加え新たにジョギングやら、体づくりをする時間を取った。

 なにもしない期間の反動で、何かしなければいけないような強制力が働くことと同じようで、なんだか尺ではあるがなんとなく動いていたかったのだ。



 桜が綺麗に舞う四月に入ろうとしているこの時期に朝の早い時間、この河川敷に来るのもなかなか乙である。

 この朝早い時間に河川敷にいる人など数えるほどしかおらず、そのほとんどがジョギングをして通り過ぎていくため実質一人の時間を朝日とともに迎えることができる。


 最近では側転から始め、ロンダートを挟んでバク転までできるほどに体は戻ってきているが、やっぱり環境は整えてからやるべきだっただろうか。

 怪我をするほどではないが、転倒することもままあったため毎日、朝からついた泥を落とす作業を挟まなくてはいけなくなった。


 始めは公園でやっていたこともあり、準備体操をしているおじいさんに心配の目で見させてしまったので変えたのだが、その判断はまぁよかったのかもしれない。




 そういえばもともと体操なんて毛ほども興味がなかったことを思い出す。

 体を動かすスポーツにハマって毎度のこと怪我をして帰ってくるのになんの抵抗もなかった子供の頃。しかし、周囲からは危険なことをする子供にしか見えないのだから、次第に外に連れて行ってもらえないことが増えてしまう。

 それが嫌だった俺は怪我をしない身のこなしを覚えるようになった。

 別に覚えなさいと言われて覚えようと思ったわけではないため、試行錯誤の過程でその身のこなしを覚えていった。


 その時は転んで地面にぶつかると痛い、だから地面にぶつからなければ良い、という思考でバランス感覚を養い、何処かから落下して落ちると痛い、だからいかに落下しないかを考えてその術を養い、落ちても痛くない方法を考え抜いた。

 しかしそんな子供に怪我がなくなるわけもなく、その段階に入った頃にはより多くの怪我が体に現れるようになっていた。


 怪我をしないための術を覚えるために怪我をするという、本末転倒な考えだが、その頃の自分にはなにがおかしいのかもわからず、少ない時間でありったけの試行回数を重ねて習得していった。

 その頃にはもう、周囲からの目はよくわからない子を見る目で、自分が目的としていた周囲からの強制力をいつのまにか手段を重ねるうちに達してしまっていたのだ。


 それから身のこなしが習得できた頃、怪我をせずに体を動かすことができると歓喜した頃には、周囲には誰も残っていなかった。

 泥だらけになりながらサッカーを一緒にしたヤンチャな男の子も、木登りや虫取りを一緒にした活発な男の子も、おままごとや野球の真似事を一緒にした女の子もみんな。


 それでも俺は自由に外で動けるその喜びを噛みしめながら、それが自分の好きなことをできることへの原動力にいつのまにか変わっていって、たった一人で果てのないゴールへボールを蹴り続けていた。


 初めて失ったものはそんな周りの人だった。



 その副産物として残るのは、怪我をしない体。

 その身のこなしは経験として蓄積され、いつのまにかバク転ができるようになり、バク宙ができるようになっていた。

 数年としていなかったものだが、なかなかどうして経験は消えては無くならないようだ。

 バク宙はまだできないだろうが、バク転までは十分視界を捉えた状態で出来ている。

 体も高校時代に感じた鉛のような重みはなく、軽やかなステップを刻むことができていた。



 ただ、ふと朝日の出る空を見上げる時があると一体自分はなんなのだろうか、と自問してしまう。

 過去の経験を棚に上げて自分を作っていくその感覚が酷く気持ち悪くて、過去に頑張っていたお前は決して今のような俺を作り上げるためにその時間を犠牲にしていたわけではないのだと思ってしまうのだ。


 きっと将来もサッカーを続けてて、世界で一番の選手になることを疑いもしない、そんなひたむきな努力だった。

 そんな努力で積み重ねた経験を俺なんかが持っていることがひどく苦痛なんだ。



「そこのお兄さんや。少し一緒に走ってはくれませんか」

 


 河川敷の土手に背中を預けた俺の後ろから今では聴き慣れた耳障りの良い声が聞こえてくる。


「先、輩……?」


「そうだ、キミの、先輩だ。おはよう雫くん、良い朝だね」


 きらびやかな笑顔を見せる木下先輩。

 バイト先でもよくしてくれているが、最近は連絡先も交換してよく連絡も交わしている。

 とくに他愛もない話しかしていなかったが、俺がここにいることなど言ったことがあっただろうか。

 ――それなりに場所は遠いはずなんだが……。


「その顔、なぜこんなところに先輩がっ!?って顔だね。いいね、最近は雫くんの表情が手にとるようにわかるよ」


「そんなにわかりやすかったですかね?俺」


「……いいや?ほんっとにわかりにくいよ君は。これでも人の感情を読むのが得意だって昔の私は自負していたんだけどね。雫くんに出会ってからはなかなか自称できなくなってしまっていたよ」


「ならなんでわかったんですか……」


「そりゃあ、愛さっ!」


 彼女の運動用にまとめたのだろう美しい黒のポニーテールが左右に揺れて、綺麗な顔を笑顔で染め上げていつのまにかグッジョブと手を突き出していた。


「…………」


「ほ、ほんとだよ?愛なんて人の数だけあるものじゃないか?私の愛は友愛かもしれないし、慈愛なのかもしれない。でも決してこれが愛じゃないなんて認めたくないんだ」


「なに言ってるんですか、ほんとに」


「いや私の持つこの感情の話だよ」


「じゃあそれはきっと、情愛ですよ」


「む、君は少し意味を履き違えているようだけどね、情愛だって立派な慈しみ愛する気持ちなんだぞ」


「……覚えておきます」


「それならよし」


 満足げに彼女は頷くと、いまだ土手に座りっぱなしの俺の隣に腰を下ろした。

 座るときに地面を少し気にするあたり、やっぱり女の子なんだな、と思ってしまう。


「あっ、笑った」


 彼女がいつのまにか俺の視界に顔を覗かせていたかと思うと、そう言っていた。


「笑ってましたか?」


 俺は自分の頬を触って口角が上がっていた気配を感じていなかったものだから、自問する意味でも独り言ちる。


「目がね、笑ってたよ」


「目、ですか……」


「そう、目。人間って面白いくらいに思考を隠すのに長けててさ。そこらへんの動物なんかは欲求そのままのことを行動すること、多いでしょう?人間はその何倍もいろんなことを考えてて、それらをいつも隠すように生活してる。ま、人間ってルールが好きじゃない?それがないとこんなに増えることもなかったんだし、結果的に隠すことで生き延びてきたんだけどね」

 

 そして彼女は少し地面を気にしながら背中を預けた。


「人は基本的に成長するに連れ、感情を隠すいや隠してしまう術をいつのまにか当然のように得てしまってるの。これ私の持論ね」


 彼女の表情は窺えないが、なんとなくその表情は小悪魔的な笑みなように思える。


「かくいう雫くんもその一人。ホールに出てる時の雫くんと、厨房にいる時の雫くん、全く違うんだもん。それに拍車をかけて、配送のバイト。あの時も酷かった。私って気付いたら一瞬で私の知ってる雫くんに戻ってたけど、なんだか危うかった。ずばり言うなれば、感情を隠して社交性を得たってところかな?」


 ほら雫くんも、といって彼女は俺の肩を掴んで隣に寝転がさせた。


「前も言ったでしょう?心配だって。私って目がいいのよ、人の感情を読むのが得意って自負するくらいだもん。腹黒い人の考えとか、表裏の激しい人の本性とか何回か見ればわかる」


「それ、相手側からしたらたまったものじゃないですよ」


「そうかもね。ま、そういう人は私には近づこうとはしないだろうけど」


「先輩は思ったことをズケズケ言っちゃう人ですもんね。そんな人の隣には、先輩の言う感情を隠す人なんていられないでしょうね」


 彼女はそれを聞くとニコニコとした表情を曇らせたように思えた。


「そうね。普通はそうだもの。でも君は違った。私がそう言う性格だったってのもあるけど、もともと自発的に言ってるから人との付き合いが一時的だなんてことに不安はなかったの。でも、私と一緒にいることで不安になる人が出てくるなんて考えてもいなかったわ」


「俺、ですか?」


「えぇ、そう。初めてバイトに入ってきて私がホールの方の指導をしている時は、あぁこの子は感情を隠すのが上手い人なんだなぁって漠然と思ってた。私だって一応君より年を重ねてる分経験だって重ねてるわけだから、君のように隠すのが上手い人だって何人か見たことだってある。でも、ここまで感情を隠してる、いえ殺してる人は初めて見た。そのことに数日経って気づいて、それから数日経って危うさを感じた」


「危うさ……」


「だって君、チグハグなんだもん。まるでホールにいる時の自分と、厨房にいる時の自分、配達している時の自分が全員他人だと思っているような、そんな危うさ。普通人は自分は自分自身で、やることなすことが自分の功績だし、自分の成した成果だと思ってる。だってそうでしょう?自分でやったことなんだもん。でも君は違う。こう言う話はよく多重人格の人とかの経験で聞くことだけど、まるで自分を自分だと思ってない。この話のたちが悪いのはその記憶がないことで自分を自分だと、思えなくなってしまう症状なんだけど、君の場合もっと深刻だ。何せ自分の行動を自分の意思で行っているのにも関わらず、自分を自分だと思っていないんだから」


「――そんなこと……ないですよ」


 一息彼女が間をとると、彼女は寝転がった俺の視界にその端正な顔を覗かせた。


「その目だよ、危うさを感じるのは。君を見てるうちに気づいた。感情を殺していると言っても別に何も感じていないわけじゃない。痛みがあれば顔をしかめるし、悲しいことがあればきっと顔を歪ませる。でも日常生活を送る上での微細な変化じゃ君は全てのことを隠してしまえるんだ。包丁で手を切ってしまっても痛みがあることに変わりはないのだろうけど顔をしかめることはない。悲しいことがあってもどこか自分の中で折り合いをつけているんじゃないかい?そうして君はいつのまにか感情を殺してしまっている。ただ、その微細な変化が表れてくれるのが目だ」


 彼女はその覗かせる瞳で俺の目を凝視する。彼女の瞳に映る俺も、彼女のように目を見開いていた。


「君の瞳は真っ黒だし、とっても綺麗だ。でも瞳孔はちゃんと開くし、脳は情報を得ようと瞳を上下左右に動かす。その変化さえなかったら私じゃ君のことを推し測れなかったよ。ある意味、君がしっかり人間をしている証拠だ」


 その端正な顔の形を潜めて言う。


「これでもし君が人間じゃないって思えるくらい非情だったりしてくれたらよかったんだけどね。でも君は違う、あまりにも綺麗だ」


「…………」


 彼女はそこで言葉を止めると、完全に体重を預けて頭を楽にしていた。

 見上げる空はもう朝日が地平線から顔を出し切り、朝日の光がこの河川敷を照らしいてた。

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