変化の一日Ⅲ
メールを閉じてそういえばチャーハンのレシピを開くのだと思い出してお気に入り登録欄を開く。
自炊のおかげでコレクションのようにレシピが溜まり続けているこのお気に入り欄はこれから続けていくにつれ、主婦レベルになるのかもしれないという具合でさえある。
そして一通り作り終えた頃、余ったご飯を小さめのおにぎりとして夜食を準備する。
夜ご飯を早めに食べてしまうのもこれから配達のシフトを入れようと思っているからだ。自由にシフトを入れられるのだからこういう早めに飲食店のバイトが終わるとよくこっちのバイトを入れる。
案外この配達もいいもので、夜の街並みや自転車でのサイクリング的な時間も悪くないのだ。
高校に入って数キロは増えていた体重もここ最近の健康的な自炊生活と自由時間の一抹の運動、そしてバイトの運動量もあって体重もベストなところまで落ちている。
ただ、本格的に運動をしていたころやサッカー部に入っていた中学に比べれば筋肉量はもちろん落ちているわけで、まだあの頃との差異で不自由な点は多い。
しかし、あの頃のように何かに興味を持って熱心に取り組むものが今の俺にはない。
強いて言うならアルバイトなのかもしれないが、別に興味を持っているからやっているわけではない。何かしようと思った時に、それがアルバイトだった、ただそれだけだ。
一人暮らしをするための生活費だって稼がなくてはならないことに変わりはない。
そういう意味でもアルバイトに熱心に取り組んでいるとはいえないんだろう。
自転車の準備ができたところでヘルメットを被り、注文の料理を取りに行く。
自転車はロードバイクで、小学校のアニメにハマっていた時期に大きくなったら買ってもらうという約束でアニメキャラと同じロードバイクを買ってもらったものだ。
事実、小学校のころ買っていたら大人になった今乗り回すことができていなかったからその判断は良かった。
注文された料理は俺もよく配達の関係でお世話になっているところでもあるため、受け渡しの人に今日も頑張れ、と声をかけられるほどには通である。
そして、注文を届ける先はてんでバラバラ。
近年このサービスを利用する人が増えて行く一方で手軽にこのアルバイトができることもあって、需要も供給も満ち満ちている。基本仕事は先に受注したもの勝ちであるし、ある程度の信頼度があれば即決である。
まとまった暇な時間にこのシフトを入れてしまえばすぐに信頼度も上がるし、一種のゲームとも言えるのかもしれない。
そんなこんなで依頼主の住所をスマホのマップに表示させて移動する。
最初は家についてからインターホンを押すまでの間に逡巡していたが、一ヶ月も経てばその不安も無くなって行く。
今では特に間違っても謝ればいいか、というモチベーションのもと気楽にやれている。
そしてついたのは割と大きめのマンション。
今回はこのマンション六階の六〇二号室になるため、割とめんどくさい。
ちなみに一番すぐに済むのはアパートの一階で自転車を置いたらすぐに引き渡せるものなのだが、マンションとなると一度内部に入るために認証して貰わなければならないから一段階踏まなければいけない。
まぁ、オフィスビルなんかに比べるとどちらも簡単なのだが。
「こんばんは、UEです」
マンションのエントランスの扉前で部屋番号を入力して決まり文句を言う。
UEはこの配達サービスの頭文字を取ったもので、よく配達員はこの文言を口にする。
「どうぞ」
一言聞こえた後、ドアが開かれた。マンション内に入ってみれば正面のエレベーターが点検中の張り紙が貼られているのが見えた。
つまりは六階まで階段で行かなければならないのだが、荷物を持ったまま階段で急いでも仕方ない。地道に行ってやろうではないか。
「こんばんは、UEです」
部屋の前に着いてインターホンを鳴らす。このマンション案外きれいなもので、また扉と扉の間隔が広い。
つまりは一部屋一部屋がかなりのスペースを持った場所であり、これは家賃も高いだろうな、と思う場所でもあった。
「あ、はい、ありがとうございます」
扉から部屋着を着込んだ女性が顔を覗かせて扉を開いた。
「こちらが配達の金銀堂の海老フライポルペッティカレーです、間違いありませんか?」
「ぇ……?」
俺がいつもの配達員スマイルを浮かべると、少し戸惑ったかのような色が見えてくる。
「あ、はい。……ありがとうございます」
「もしかして……注文間違いですか?」
彼女が少し消え入るような声で話したものだから俺も連なるように小声で話しかけてしまう。
すると彼女は目をぱっちりと開け、俺の手にする料理を戸惑いながら見ていた。うるうるとする瞳がどこか小動物らしさを醸し出している。
そこまで動揺してしまうならあまりこう言うサービスは向いていないと思うが。
彼女自身多分はじめての利用か何かだったのだろう。
「もし初回なら問い合わせしてみるのがいいですよ。それとアプリ見せてもらっていいですか?」
「は、はい……」
手に持つスマホを反転させて見せてきてくれたが、そこには配達状況と注文内容が書かれており、注文内容が違うものだった。
「これは、多分表示バグですかね……。時々あるので気をつけようもないんですが、うちの方にはこの料理名で配達依頼がきてるので。とりあえずここのヘルプから問い合わせるのがいいと思いますよ。その依頼内容とこの料理の証明写真を撮っておけば返金できるので」
「は、はい。あ、りがとうございます」
「あ、その前に新たに注文しちゃいましょう、同じもの」
「え、でももう……」
「だってこの料理食べれないんでしょう?」
すると彼女は最初に浮かべたような困った表情を浮かべた。俺が海老と口にした時点で表情が曇っていたからもしかして、と思ったが。
「海老アレルギーで、せっかく持ってきていただいたのに食べれないんです……」
「なら早めに注文しちゃったほうがいいでしょう?私が配達するので幾分か早く持ってこれると思いますよ」
「え、でも……」
いいんですか。と続く彼女の言葉から察していいんですよ、とかえす。
「では私はちゃっちゃと運び直すのでその間に問い合わせしといてくださいね。初回はなにかと融通が効きますから」
少し片目を瞑って微笑んで見せると彼女は首から上をブンブンと振るようにして頷いてくれた。
今は高校生くらいだろうか。このくらいの年になるまで純粋でいられるとは、なかなか素晴らしいと思うものだ。
しばらくして同じマンションに帰り付いた。
同じ道を通ってきたから行きと帰りどっちが早いかタイムアタックをしようと思ったが、帰りは料理を運ぶことに料理を受け取ってから気づいたため、無論行きの方が早く着いたのはいうまでもない。
「こんばんは、UEです」
「あ、ありがとうございます!」
「」
「」
「――とりあえず開けてください……」
「あっ!」
エントランスの扉を開けるためのスイッチの前で腰でも折っていたのか、一向に開かないのを見かねて声をかけた。
案の定彼女は慌てたようにスイッチを押しマイクが閉じる。
「こんばんは、UEです」
一人の相手にここまで同じ文言を言うこともなかなかないため少し面白い。彼女の態度も相まって、今日はいい日だと、心の中で呟いた。
「こ、こんばんは。配達員さん、ありがとうございました。おかげで返金もできました」
「それはよかったです。では今回は金銀堂のイタリアンポルペッティカレーで間違いありませんか?」
「はい!ほんとにありがとうございます!」
きっともう一度なのであろう会釈を間近で見て、いえいえとこぼすと帰り支度を始める。
「では今後もUEのご利用をよろしくお願いします」
「あの、また、頼んでもいいですか……?」
「えぇもちろん。またご利用してください」
「そ、そうじゃなくて……あなたに」
少し俯き顔で彼女は答える。はじめての利用でトラブルがあったのだ、不信感を煽ってしまっても仕方ないか。
「すみません、配達員の指名はできないんですよ」
「そ、そうですか……」
明らかに困ってしまった表情を浮かべ、また困らせてしまったかと伺うような視線に流されながら小声で言った。
「では暗号を決めませんか?」
「暗、号?」
「最近新機能で、依頼者側からクレジットやらデビットカードが選べるなか、現金支払いが増えたんです。そして配達員は初期の設定だと、現金支払いでの決済を希望する配達依頼は紹介されないんです。なので、もし毎週この時間に利用することがあったらその暗号に気づくかもしれませんね」
彼女はその表情をパッと明るくすると、にこやかに笑ってくれた。
「あ、ありがとうございます!おにいさん」
「いいえ。私はUEの新機能を自慢しただけですから、感謝されることなんてありませんよ」
そういうと彼女は少し間を置いておっかしいの、といってこの場は収まった。
この子が常連客になるかは分からないが、この時間は空いてることが多い。きっと暗号にも気付くことができるだろう。
この巡りもまた一期一会になるのかもしれない、と思うと少し寂しいが互いに名前も知らない人同士、そう言う付き合いが一番多いことも確かなのだ。
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