百二十一話 憤懣たるや
クジョウにある仙丹会本部、商会長執務室、その中では商会長のダリル・ロクマが赤茶色の髪をしきりに撫で上げながら、秘書のケイコ・シダが淡々と告げる報告を聞いていた。
ダリルのこの仕草は焦りを感じている時の癖だったが、一応は平静を装っている上司に対して、ケイコは事務的な態度を維持したままで報告を終える。
「――以上が桔梗会への工作の顛末です」
「……は」
思わず、といった風にダリルの口からは短くため息が漏れた。
確実な成功を期待した陰謀ではなく、少しでも目の上のたんこぶである桔梗会の勢いが削げれば、という意図ではあったものの、ここまで完璧に失敗するともまた思ってはいなかったのが事実だ。
特にデッドたち冒険者パーティについては、報告を受けている今の時点で既に国外へと脱してしまっていると考えられ、他国へまで追っ手を差し向けるなどは割りに合わなかった。
いや、見せしめの制裁などどうでもよく、それよりも優秀な冒険者を囲い込む前に逃してしまったことが大きな損失といえる。
対面戦闘能力でいえばダリルの私兵団にも見当たらないほどの実力を備えるデッドたちは、そろそろ専属契約を持ちかけようと考えていたところだった。
「次代を見据えて手を打ったつもりが、とんだ徒労だったな」
今回のことを総括するような一言に、いつものように感情のこもらない「そうですね」を返そうとケイコが口を開きかけたところで、低い声音が割り込んでくる。
「徒労はこちらの言葉だ」
「「っ!?」」
この部屋にはダリルと秘書のケイコしかいないはずだった。
しかし、声がした方へと反射的に顔を向けた二人は、扉のすぐ横の壁に寄りかかって腕を組む老人の姿を目にする。
短く刈られた白髪に、整えられた白いひげ、年齢を感じさせない分厚い体躯の腰には見慣れぬ質感のロングソード。
ダリルが今聞いていた報告の中で、桔梗会へ協力する冒険者として活躍が嫌というほど聞かされたヴァルアス・オレアンドルだった。
ダリルの頬を冷や汗が伝う。
気配がしなかった……どころか、扉が開閉する音も全くしなかった。今声を掛けられるまで、この大柄な老英雄がすぐそばにいるなど疑いもしていなかった。
「――あ」
ゆっくりとした動作でヴァルアスが壁から背中を離すのを見て、ケイコがただ息を吐いただけのような音を口から発する。
あるいは何かを言おうとしたのかもしれないが、一瞬ヴァルアスから視線を向けられただけで、顔色を蒼白にして押し黙った。
何をされた訳でもない。しかし、歴戦の英雄が放つ明らかに敵対的な感情は、一般人が恐慌を起こしても不思議ではないほどの重圧。
そういう意味では、ただ黙っただけのケイコはやはり大商会の商会長秘書といえるだけの胆力であるし、さらに自分から口を開こうとするダリルも肩書きに見合った器といえた。
「この建物には……、部下が大勢いたはずだが……?」
出てきた声は、微かな震えを含んでいる。
桔梗会には及ばないとはいえ、大商会である仙丹会の本部であるここには、私兵の中でも特に腕の立つ者たちが常駐していた。
そして日々大量の業務をこなすために、大勢の従業員たちも。
いつの間にか静かになっている執務室の外へと必死で耳を傾けながら、ダリルは厳しい目つきで問いかけた。
だが、ゆっくりと執務机のダリルへと歩を進めるヴァルアスから返ってきた答えは、虐殺すら覚悟したダリルの想像を上回るものだった。
「安心していいぞ? 誰にも何もしていないからな」
「は? あぁ??」
一瞬理解ができなかったダリルが、状況も忘れて戸惑いに首を捻る。
犠牲者がいないのなら安心……などできるはずもなく、誰も傷付けず騒ぎも起こさずこの場所へ辿り着いたのであればそれこそ理解の範疇の外だった。
「誰かっ!」
閉じた扉へ向かってダリルはいきなり叫ぶ、が、何の反応も返ってはこず、歩み寄ってきたヴァルアスが執務机の天板に手をついて身を乗り出してきたことで、続く言葉は飲み込む。
「さっき声を掛ける前に、扉は外側で封じた。今頃は頑張って開けようとしていることだろうが……、まあしばらくは声も何も通らんと思え」
“封じた”の意味がまるでわからないダリルだったが、ヴァルアスがこれ見よがしに掴んでみせた鞘に収まったロングソードの柄から流れてくるように感じる異様な空気は、それが魔剣であることを目利きに長けたダリルに確信させた。
何かは理解できないが何かをされたのだろう、今重要なのは、これほどの危機にあって助けを期待できないという事実だ。
青白い顔色のまま立ち尽くすケイコも、この状況では当てにはできない。
「それで、なんのつもりだ?」
なけなしの精神力をかき集めて、目の前まで来たヴァルアスの顔から目を背けずにダリルは問うた。
「なんの……つもり、だと?」
その瞬間、これまで威圧感を発しつつも無表情であったヴァルアスの顔が、明確な憤怒を示す。
「……っ、……く、あ……ぐ」
まなじりが急激につり上がり、口端はぐいっと下がって、発露する感情を噛み殺そうとしたのか奥歯からはぎりと軋む音が聞こえた。
至近距離で静かな怒りが激しい憤りへと変遷する様を見せつけられたダリルは、かたかたと全身を震わせて肘掛けをぎゅっと握る。
「お前らとタキのババアの間にある確執なんぞ知らん。けどな、ワシに舐めたことをした上に、関係のない人々に被害が出かねんようなことをした報い……受ける覚悟はできているのだろうな」
一人の戦士として、そして冒険者としての迫力が、大きくはない声を部屋の隅まで響かせた。
「な、なにをしたとしても、私は生き馬の目を抜くこの国の商業界で仙丹会をのし上げてきたダリル・ロクマだぞ。平和ボケしたシャリア王国の元ギルド長ごときが、後でどうなるか……」
脅しの言葉の途中で机から手を離して顔を遠ざけたヴァルアスに、ダリルはやはりこの程度かと気持ちを少しだけ持ち直す。
長く安定した情勢であったシャリア王国は、事実平和であった。
そのために、国内でし烈な勢力争いも多いアカツキ諸国連合から馬鹿にされる風潮が実際にある。
しかしそれは、その平和を享受してきた側の人間へ言うことであって、剣一本で平和をもぎ取り、そして維持してきた英雄へ言うことではなかった。
「シャリア王国の冒険者が平和ボケだって本当に思っているのか? ……そんな訳があるものかよ。そう見えたのは、狡猾な連中をそれ以上の暴威で抑え込んでいたってだけの話だ」
身長の高いヴァルアスが、直立した姿勢から座ったままのダリルへ向ける視線は、自然と見下ろした角度になる。
再び表面上は落ち着いた表情へと戻った顔から向けられるその目は、今は怒りだけでなく憐れみすら含んでいた。
「ワシがここまで踏み込めている時点で警告としては十分なんだけどな……」
先ほどは後の報復を匂わせたダリルだったが、現に今も静かなままのこの執務室が、これ以上に老英雄を怒らせることは身の破滅にしか繋がらないと、鳴りやまない鼓動が警告している。
「これだけじゃあ、ワシの腹の虫がおさまらんから、殴って帰るぞ」
改めて机越しに身を寄せてから、今度は胸倉をぐいと掴んできたヴァルアスの行動に、その言葉は何かの例えではないと理解したダリルが悲鳴を上げて暴れ出した。
だが根っからの商人であるダリルがどう足掻いても、魔獣すら組み伏せるヴァルアスの太い腕から逃れられるはずもなく、しばらく前に立っている事すらできずに座り込んでいた秘書が止めに入れる訳もない。
かくして、親にも誰にも殴られることなく今の地位を築き上げてきたダリルは、満足したヴァルアスが窓から飛び出して逃走するまでの短い間に、単純な暴力による痛みというものを嫌というほど味わったのだった。
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