三十六話 ノース山脈砦のさざめき
竜族の集落の中心地といえば竜の巣と呼ばれる大都市であったが、人族の居住地に最も近い集落であれば、ノース山脈となる。
といってもガーマミリア帝国のさらに北方にある山脈の全てが、竜族たちの住処ということではない。
峻厳であり、かつ巨人族への防壁でもあることから人族は一切進出していないために、ノース山脈の一部に防衛戦力として常駐する竜族がそこの住人として認識されている、という話だ。
「さて……」
山脈内に築かれた防衛砦内の自室で、旅支度を終えた竜族の若い女、そしてこの砦の副官を務める戦士でもあるティリアーズは一つ頷いた。
竜族は戦闘時や緊急事態以外では本気を出さない。強大すぎる力は消耗も膨大に過ぎるからだ。
故にこの砦も一部を除いては人族のそれと構造的に大した違いはなく、強いていえば装飾や遊びが極端に少ないということくらいだった。
戦闘ともなれば人族の多くが思い浮かべる翼生えた大トカゲといった外見で破壊をまき散らす勇猛なティリアーズも、今は人族でいえば十代後半から二十代前半くらいの見た目の可憐といえるほどの外見をした女だ。
女性的な曲線を描く肢体はその身ごなしもあって優雅であり、濃い茶色をした波打つ髪も落ち着きのある雰囲気だった。
だがその髪をかき分けて伸びる人化状態の竜族を象徴する二本の角が放つ力強さと、負けん気の強さをこれでもかと主張する両目が、全体の印象をいかにも勝ち気そうというものにしている。
「五十年くらい……か」
ふと、そんな年月が口から漏れた。
人族の約十倍の寿命を持つ竜族からしても、それはなかなかに長い時間といえる。しかしその口ぶりはそれよりも深い意図を感じさせた。
コンコンコン
「……と」
その時、厚い木の扉が軽く叩かれる音がして、ティリアーズは物思いから引き戻される。
そしてノックの仕方に心当たりがあったために、ティリアーズは誰かを確認するよりも前に扉を開けた。
「今更確認するようなこともないが、一応は見送りにな」
「ええ、ありがとうございます。今回も問題なく務めを果たしてきます」
訪れたのはこの砦におけるティリアーズの唯一の上官、かつての前線部隊竜将デイヅだった。
竜族として中年になる彼は、人化状態では黒髪をきっちりと整えた如何にも几帳面そうな細面をしている。
しかしその頭部にある片方が半ばで折れた角――かつての戦争で受けた傷跡――がデイヅこそが巨人族を相手に最も勇敢に戦った竜族であることを見る者に思い出させる。
「アンスロポスの代表者もそろそろ代替わりの頃か」
「そのようです。とはいえ今回の会談ではまだその話題は出ないと思われますが」
ふと、といった風に出たデイヅの言葉に、ティリアーズも事務的に淡々と答える。
会談とは人族側の代表者と竜族からの使者が情報交換を行う場である代表会談であり、ティリアーズは今から正にその使者として出発するところなのだった。
「――?」
普段であれば見送りに来たといえば本当に二言三言交わしただけで去っていく、良くも悪くも淡白なデイヅがまだそこに立っていることに、ティリアーズは小首を傾げて不思議がる。
その仕草から「まだ何か?」という意図を正確に読み取って、デイヅはようやく口を開いた。
「……いや、なに、例年と雰囲気が違うと思ってな。この役目をもっと嫌がっていたと記憶していたが」
「そ、そんなことは……」
とっさに否定しようとするティリアーズだったが、少なくとも面倒がっていることは隠しもしていなかったと思い出して言葉に詰まる。
「それに、なんだ、服装も……例年と違うような気もするな。ほらそれも、いつだったかにアンスロポスの街で買ってきたものだったか、着けているのは初めて見るが……」
「っ!?」
相手の隙を見逃さない戦士の勘、という訳ではないであろうが、デイヅがティリアーズの髪に添えられている落ち着いた意匠の小さな髪飾りを指すと、指摘された方は露骨に動揺を見せた。
「べ、べべべつに、いつもと一緒ではないということはないのではないでしょうか。ええ!」
「は?」
否定しているのか肯定しているのかすらよくわからない返答に、デイヅも思わず首を捻る。
しかしその“らしくない”動揺の仕方に、思い当たることのあったデイヅは合点がいったと頷きながら道を開ける。
「ああ、そうか、ヴァルの情報が上がってきていたのだったな。なるほど、なら引き留めるようなことをして無粋だったな」
「何がでしょうかっ!?」
思い切り声が裏返ったティリアーズだったが、行動は素直にいそいそと出発していくのだった。
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