第三話 眠れる悪は日常に


――――――2021年(令和3年) 秋 ――――――



崩れ落ちすがりつく彼女の手は、ほのかに暖かくその温もりを感じると同時に自身の手の冷たさを感じる。


このままではいけない。


その温もりを振り払い、一歩一歩と歩み始める。その歩先に何があるというのか、いや何もないから歩くのか次第に歩くスピードは加速し始める。何に追われているでもなくただ全力で走ろうとするが滑る地面に足を取られ、上手く走る事ができない。俺はついには倒れてしまい地面に這いつくばる。しかし前に進む事は決して辞めようとしない。必死に腕と肘を動かし重い体を引きずり前に進もうとする、とてつもない苦痛と不安感に襲われ、意識に澄み切った白が混ざり合いはじめる…


ピピピッ、ピピピッ・・・


暗闇の世界で自分が自分であると認識し、目覚まし時計の電子音で朝の訪れを理解する。まだ目を開けずにたった今見てきた夢の世界を思い返す、この暗闇の世界で。どこに向かって走っていたのか?後ろには誰かいるのか?何度自分の意識に問いかけても答えは解らない。しかし、最初にすがりついていたあの人は間違いなくあいつだ…


まただ。これで何度めだろうか、夢は形態を変化し何度も俺に見せるが根本的メッセージはいつも同じ、だめだこれ以上考えては。


目を開けいつも通りの明るい部屋を視界に入れる。さて、早く着替えて、朝食を済ませ仕事に行こう。まだ眠い体を起こして、洗面所に向かい顔を洗った。テレビを付け朝のニュース番組に目を向ける。番組のアナウンサーが活舌の良い言葉でニュースを伝えている。


「昨日、滝村市で自転車や、公園の木々が燃えているのが発見され、近所の住民の通報により消防が出動し、火はすぐに消火されました。最近、滝村市ではこういった不審火が相次いで報告されており、悪質な悪戯として警察も警戒を呼び掛けています。さて次のニュースです…」


滝村市と言えば俺の住んでいる隣の市だ。恐らくどこかの暇を持て余している奴が遊んでるのか、他にやる事はないのかね。そんな事を考えながらスーツのネクタイを結び、身なりを整え家の扉にカギをかけ目の前の階段を下って行く。階段を下ると一階は喫茶店だ。俺はこの喫茶店でよく朝食を済ませており今日もここから日常が始まる。入り口の前には黄色いチューリップの鉢植えが並べられており、木材を多く使用された店にマッチしている。


俺は扉を開け、朝の挨拶をする。


「おはようございます。今日もいつものお願いします」


「おはよう、いつものね」


俺は新聞を手に取りカウンター席に座る。マスターは手際よくトーストとコーヒ―を調理する。


「最近は雨が多かったけど、今日は久々に天気が良いね」


「そうですね、こんな天気の良い日でも仕事ですけどね」


病葉わくらばくん、そろそろこの街にも慣れてきたかい?」


「慣れて…きたんですかね?近所は散歩するんですが、なんせインドア派なもんで」


「あらそうかい、駅前には大きなショッピングモールもあるし、映画館もあるよ」


「そうなんですか、映画館なら次の休みにでも行ってみますよ」


「それは良い、やはり休みの日くらい外に出なくちゃ」


「高木さんは何か趣味とかあるんですか?」


「昔は良く風景画を書いてたんだけど、最近は店が忙しくて中々ねぇ」


「そんなに忙しいんですか?」


「平日は一人でも大丈夫なんだけど、土日が忙しくて大変なんだよ」


「繁盛するのは良い事なんだけどねぇ、アルバイトでも雇おうかと最近は考えたりしているよ」


「そうなんですか無理せず、お体大事にしてくださいね」


「ありがとう」


そんな世間話をしている間にトーストとコーヒーは出来上がり、俺は食べながらスマホに目を移した。


加奈子かなこからメッセージだ。


りょう、今日は帰り何時なる?お仕事頑張った後はいつものとこで飲もう!”


そう、こんな俺でも彼女がいる。最初はあまりタイプではなかったが彼女からの激しいアプローチを受けて付き合いが始まったのだが、今ではすっかり彼女が心の支えであり癒しになり深く愛するようになった。


“今日は定時で帰るから、良いよ”と返信しコーヒーを味わった。


もう時間だ。支払いを済ませ店を出る。歩いて十分ほどの駅に向かい、仕事先に向けて電車に乗る。つり革を持ち、何度も見た景色を目で追いながら電車に揺られる。俺は製造会社で働いている技術者のサラリーマンだ。業務は様々な製造メーカーの生産工場で使われる、業務用向け製造機器の整備とメンテナンスだ。つまり製品を作る機械を作っている会社だ。そのため自社の機器は日本中の製造メーカーで使われるため、いろいろな所に社員は出向しているが俺もその一人なのである。


そしてこの尼宮あまみや市に赴任してからもう一年近くになる。会社の業績は好調のようで、まだまだこの土地から離れる事はなさそうだ。そうこうしている内に勤め先の工場の最寄駅に着き、電車を降り改札を出て工場に向かう。


こうして俺の平凡な一日が始まる。


――――――――――――


―――――――


――――



「今日はぜんぜんトラブル無かったな。毎日こうなら良いのになー」


「そうですね、少し退屈ですけどね」

俺は先輩と会話しながら帰り支度をする。今日は特に設備トラブルもなく順調に生産ラインは稼働していた。


「じゃあお先に失礼します。お疲れさまでした。」


「おう、お疲れー」

俺は帰りの電車の中で加奈子にメッセージを送る。


“今帰ってる途中だけどそっちはどう?”


“私は早く終わったからもう先に店いるよ!”


“了解、すぐ向かうよ”っと。

駅に到着し、俺は改札を出て足早に店に向かう。加奈子と待ち合わせている店はちょうど自宅への帰り道の途中にある。この店の存在こそ俺にとっての唯一の安らげる場所であり加奈子とも知り合い常連同士の仲間ができたのだ。俺はそんな友達と楽しく過ごせる空間が大好きだ。


店に向かって歩いていると、前からニット帽を被り赤い服を着た妙に違和感を感じる男が歩いてきた。冬も終わったこの時期にニット帽、すれ違う瞬間に相手の顔に目をやった。表情は自信に満ち満ちているというか、妙にギラギラしている目つきをしていた。俺は何故かすれ違ってから数歩歩いた後に振り返った。しかしそこには男の姿は無くすでに曲がって去ったのであろう、俺は気にせず店に向かった。


到着し店の扉を開けるとお疲れさま!と加奈子が出迎えてくれた。そしてその奥にはいつもの面々がお疲れ、と声をかけてくれる。


「亮、なまで良いか?」

はい、と返事し店のマスターがビールをサーバーでついでくれる。俺はそのジョッキを手に常連仲間のテーブルで乾杯しビールを一口飲んだ。そして仲間達とバカ話をする。


俺にとってこの空間は心地良い。みんな優しく、楽しい話で盛り上がる。


そして何よりも、この店のマスターである、古田ふるたさんを信頼している。脱サラしてBARを経営しており仕事の愚痴なども親身になって聞いてくれるし、良い兄貴分といった感じなのである。そして唯一、俺の過去のトラウマを話した人物でありその時かけてもらっ言葉は自分では到底思いつかない新しい言葉だった。


さらに、俺の向かいに座っているあいさんはマスターと幼馴染であり、近くマスターと結婚する婚約者だ。俺はそんな温かい仲間と愛しい恋人とともに過ごせる時間が幸せでたまらなかった…


そんな幸せな時間は瞬く間に過ぎ帰る時間になった。俺と加奈子はみんなと別れの挨拶をして、加奈子を自宅まで送って帰るのが恒例だ。加奈子の自宅も、店から歩いて来れる所にあり俺は手を握り送り届けた。


そして自宅に帰り、蛇口の水をコップに注ぎ一気に飲み干す。今日はいつもより飲み過ぎたようだ。ひどく意識がぼやけ、耳鳴りがする。ベッドに倒れこむとそのまま、睡魔に意識をゆだねた。車が走る音、風が吹く音、そして遠くの方で消防車のサイレンがこだましている。そんな環境音を子守歌に、一日の終わりを向かえようとして微睡まどろみの世界へ吸い込まれてゆく。


暗い暗い、無の空間に俺は漂う。大の字になり大空を眺めていると、“君はもう一人だよ”、“君はもう世界に必要ないよ”と言われている気がする。この世で一番の恐怖は孤独なんだと俺は思い出す。




―――――――――――が、頭をさらに後ろに向けると




黒いマントをたなびかせ、一人の黒ずくめの男が立っている…


俺はその男に心の中で問いかけた。あなたはどうして、まともでいられるのですか?あなたは家族を殺され、大事な仲間を殺され、守る者にも裏切られ、ずっと一人なのに…


どうしてですか?と。


今にも途切れそうな意識の中で、男は目と鼻の先まで顔を近づけて囁ささやくように答えた。

「私は悪から偶然生まれただけなんだ。言わば事故だったんだ。生まれたからには誰にも止めることはできない。例え俺自身にも。君には起きないことを祈るよ」


こう男は言い放ち俺に背を向けたと思うと、無数の小さな蠢く鳥のような黒い塊に変化し、それらは甲高い鳴き声を上げ、バサバサと羽音を立てながら四方に飛び散って行った。そこで意識は途切れ俺は深い眠りについたのだった。



次回 【第四話 邂逅する正義】

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