15
その夜、ティアナはいらいらしていた。
白薔薇宮の発掘現場にほど近いところに建てられた、囚人用の宿泊施設の中である。
囚人たちは一応それぞれ個室が割り当てられているが、小さなベッドがギリギリ入るくらいの狭い部屋だ。逃亡防止のため、窓は天井近くにつけられた小さな明り取りの窓しかない。まったくもって不愉快な環境である。トイレもお風呂も共同で、狭くて汚いし、掃除も自分たちで行わなくてはならない。もと伯爵令嬢であるティアナには耐えがたい屈辱だった。
ティアナは小さなオイルランプに火をともして、すっかり荒れてしまった自分の手を見つめて眉を寄せる。綺麗に整えていた爪は短く切られてぼろぼろになっている。手の甲も発掘作業のせいであちこち小傷ができていて、ガサガサだ。何より許せないのが日焼けである。陶器のように真っ白ですべらかだった肌が、すっかり日に焼けて浅黒くなってしまっているのだ。
(わたしがこんな目にあっているっていうのに……!)
それはほんの偶然だった。
今日の昼の休憩時間のことだ。ティアナが木陰で休んでいると、見知った女が遠くに見えた。それはよく見るとオリヴィアで、きれいなドレスを着て、相変わらず真っ白な肌をして、サイラスとアランとともに微笑んでいたのだ。
許せない。その場所は、本当ならばティアナのものだったのだ。それなのにオリヴィアのせいでティアナはこんな劣悪な環境に押し込められて、土堀りなんてさせられているのである。
(ぜえーったいに、許せないっ)
むかむかしたティアナはベッドから立ち上がると、オイルランプを持って部屋の外に出た。だが、すぐさま見張りの兵士に呼び止められる。
「二百十四番、どこに行く」
二百十四番と言われて、ティアナはぐっと奥歯を噛んだ。ここでは名前すら呼ばれない。みな、部屋の扉の所に書かれている囚人番号で呼ばれるのだ。
ティアナは屈辱をかみしめながら、ツンと顎をそらした。
「ちょっと散歩に行くだけですわ。別にいいでしょ、まだ就寝時間じゃないもの」
「早く戻れよ」
「わかっているわよ!」
ティアナは噛みつくように答えて、まだ何か言いたそうな兵士を無視して外に出る。
外は風があって少しだけ涼しかった。部屋の中は小さな明り取りの窓しかないので風が入らず暑いのだ。
ティアナは建物の裏手に回って、積み上げてある丸太の一番下のところに座った。夜空を見上げれば、きらきらと星が瞬いている。ここでの生活は大嫌いだが、この星だけは好きだった。王都よりも星が綺麗に見えるのだ。
ティアナがふう、と空を見上げたまま息をついたその時、がさがさと物音が聞こえてきた。すぐ近くにある森の当たりからである。どうせ見回りの巡回の兵士だろうと思って気に留めなかったティアナだったが、そこから現れた男に息を呑んだ。
「だ――」
「し!」
誰何しようとしたティアナとの距離を一瞬で詰めた男が、大きな手のひらでティアナの口をふさぐ。
ティアナは目を見開いて男の顔を見上げた。
月明かりに浮かぶ男の顔は二十代半ばほどに見えた。背が高く、がっちりしている。ティアナの口をふさぐ手の皮は厚くて硬かった。髪の色は黒く、瞳は青灰色。見ない顔だった。少なくとも、囚人を監視している兵士たちの中にはいなかったと思う。
「声を出さないと約束するならこの手を放す」
ティアナはこくこくと小刻みに頷いた。この男なら声を出して見回りの兵士を呼ぶより早く、ティアナの細首を折るくらいしそうだと思ったからだ。それに、もしこの男が人さらいで、ティアナをこの場から攫おうとしているのなら、それはそれでいいような気もした。ここで土堀りを続けさせられるより、どこかに売られた方がましなような気もする。ティアナは可愛いから、売られたとしてもきっといい暮らしができるに違いない。
ティアナはそう考えて、これはなかなかいい案だと思った。この際、お金持ちのおじさまでもいい。ここよりいい暮らしを約束してくれるなら、喜んで買われてやろう。もしかしたら素敵な紳士がティアナを見初めるかもしれない。
ティアナは男の手が離れると、にっこりと満面の笑みを浮かべて手を差し出した。
「よろしくってよ」
「……は?」
「だから、わたくしを連れて行ってもよろしくってよ」
男は怪訝そうに眉を寄せた。
ティアナは「わからないのかしら?」と首をひねって、言い直した。
「わたくしを連れていきたいのでしょう? わたくしは可愛いからきっと高く売れるもの。素敵な方を見つけて頂戴ね。きっと損はしないと思うわ」
「……何を言っているんだ?」
男は戸惑ったように瞬きを繰り返した。
ティアナはむっとした。
「何よ、ちょっとくらい融通利かせなさいよ!」
「だから、何を……」
「このわたくしが売られてあげると言っているのよ? 王妃になる予定だったこのわたくしが! いいからさっさとここから連れ出して、誰か素敵なお金持ちにわたくしを売り飛ばしなさい!」
男はとうとう、思考回路が凍り付いたような顔で固まった。
ティアナは腰に手を当てて仁王立ちになり、早くしろと男に詰め寄る。
男は沈黙し、考え込むように顎に手を当てた。
ティアナはイライラしてきた。のんびりしていたら巡回している兵士に見つかるかもしれないだろう。なんてとろい男だ。人さらい失格である。
そこでティアナはハッとした。もしかしたら、男はティアナの美しさに気がついていないのかもしれない。ティアナは今、よれよれの囚人服だ。髪の艶もなくなり、肌も日焼けして荒れている。もしかしたら貧乏な町娘だと思われているのではなかろうか。冗談ではない。屈辱だ。
「こんな汚れた格好をさせられているから気がつかないかもしれないけど、わたくしはレモーネ伯爵令嬢よ! 社交界では求婚者が後を絶たなかったの。王太子殿下だってわたくしを見初めてくれたのよ。身なりを整えたら、きっとあなたもわたくしに恋をするわ!」
「……君はここから出たいのか?」
やがて、男は疲れたような声で言った。
「当然でしょ! 誰が好き好んでこんなとこ」
「そうか」
男は一つ頷いて、それから周囲の音に耳を澄ませた。
「そろそろここにも人が来そうだな」
「だから早くしなさいって言ってるでしょう!」
「勘違いしているようだが、俺は人さらいではないし、君をここから連れ出すつもりはない」
「な――」
ティアナは絶句して、へなへなとその場にしゃがみこんだ。せっかくここから出られると思ったのに、ぬか喜びもいいところだ。いったい何をしに来たのだこの男は。役立たず。
男はティアナを見下ろして、小さく笑った。
「今ここで君を連れ出してやることはできないけれど、君が逃亡したいなら手伝ってあげることはできるよ」
「なんですって?」
ティアナはがばっと顔を上げた。
男は内緒話をするように唇に人差し指を押し当てると、言った。
「この遺跡には秘密があるんだ」
ごくり、とティアナは唾を飲み込んだ。
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