王妃との話が終わったあと、オリヴィアは裏庭の図書館へ向かっていた。

 書類仕事は午前中に終わっていて、もともと午後からは読書にあてるつもりだったのである。


 サイラスは午後から剣の稽古が入っているため、終わり次第合流するそうだ。アランと比べて、剣術はあまり得意ではないそうだが、少し前に馬車が襲われる事件があってから、サイラスは今まで以上に剣術の授業を真面目に受けているそうだ。アランの護衛艦のコリンの話では、もしものときにオリヴィアをかっこよく守るため、だそうである。オリヴィア的にはかっこよさはどうでもよくて、サイラスが怪我をしなければそれでいいのだがーーそう聞かされるとちょっと照れてしまう。


 オリヴィアは庭に出ると日傘をさした。日傘をささずに外を歩くとテイラーが「日焼けしたらどうするんですか!」とうるさいのである。

 今日は少し風がある日で、図書館が近くなると風に乗って薔薇園からいい香りが漂ってくる、香りに釣られるように薔薇園に視線を向けたオリヴィアは、そこにフロレンシア姫の姿を見つけて立ち止まった。


 フロレンシア姫は薔薇が好きなようだ。とても穏やかな表情で花を見つめていた。

 オリヴィアが挨拶すると、フロレンシア姫はゆっくりと振り返って小さく会釈する。


「ごきげんよう、オリヴィア様。オリヴィア様も薔薇を見に?」

「いえ、わたくしは図書館に……」


 フロレンシア姫は薔薇園から見える図書館に視線を移して、おっとりと微笑んだ。


「ふふ、そうでしたわ。オリヴィア様は本がお好きなんですよね。サイラス殿下と一緒に図書館で本を読まれているのを見かけたことがありますわ。お二人は近く婚約なさるのでしょう? 仲がよろしいんですわね」


 サイラスと仲がいいと言われて、オリヴィアの頬にうっすらと朱が指す。否定はしないが、肯定するのも恥ずかしい。どう返したものかと視線を彷徨わせていると、図書館をじっと見つめたフロレンシア姫が、ぽつりと言った。


「……うらやましいわ」


 オリヴィアはおや、と首をひねる。フロレンシア姫も本が好きなのだろうか。

 城の図書館の出入りには許可が必要なため、オリヴィアが誘うことはできないが、アランかサイラスに頼めば許可を出してくれるだろう。

 オリヴィアがそう言うと、フロレンシア姫は少し目を丸くして、困ったように笑った。


「そうですわね……、機会があれば」


 なんとも歯切れの悪い返事だった。

 フロレンシア姫はまだ薔薇園で花を見るというので、オリヴィアは姫に別れを告げて図書館へ向かう。


 サイラスから預かっていた禁書区域の鍵を使って禁書区域に入ると、読みかけの本を持って読書スペースへ向かった。

 読書スペースの窓からは、フロレンシア姫の姿が見える。


「本当に、薔薇が好きな方なのね」


 オリヴィアも別に嫌いではないが、ただ花だけを見つめて時間をつぶせるほど好きなわけではない。

 サイラスもそれをわかっているから、最初は立て続けに薔薇を贈ってくれていたけれど、最近めっきり花をくれることはなくなった。


「……べつに、特別ほしいわけじゃないけど、くれなくなると逆にたまにはほしくなるというか……、これって我儘なのかしら?」

「何が我儘だって?」


 フロレンシア姫を見つめながらぽつりとつぶやけば、すごく近くから声が聞こえてびくっと肩を震わせる。

 振り返るとサイラスが入ってきたところだった。思ったより、剣術の稽古は早く終わったらしい。

 オリヴィアは真っ赤になった。


「な、なんでもありませ……」

「くれなくなるとほしくなるって聞こえたけど、何が欲しいのかな?」


 サイラスがオリヴィアの隣に座って顔を覗き込んでくる。真っ赤になっているオリヴィアの頬をつついて、ちょっと意地悪そうに微笑んだ。


「薔薇園を見てたよね? 薔薇が欲しいの?」

「いえ、あの、その……」

「言ってくれればいつでも贈るのに」


 何を考えていたかすっかりばれてしまっている。これは誤魔化そうとしても無駄だろう。オリヴィアは恥ずかしくなってうつむいた。

 サイラスはテーブルの上にいけてあった白い薔薇を一輪引き抜くと、棘がないことを確認して、ハンカチで水を拭いてからオリヴィアの耳の横にさす。


「今日のところはこれで我慢してほしいな」


 もう、オリヴィアには何も言えなかった。顔から火が出そうだ。サイラスはオリヴィアが真っ赤になるのが面白いらしく、いつも追い詰めてくる。

 オリヴィアがとうとう両手で顔を覆ってうつむいてしまうと、サイラスが笑って抱きしめてきた。


「ごめんごめん。ちょっといじわるしすぎた」


 くすくすと笑いながら言うサイラスは、ちっとも反省している様子はない。

 オリヴィアは指の間からサイラスを睨んだ。

 サイラスはオリヴィアをなだめるように彼女の頭のてっぺんにキスを落とす。


「それで、どうして急に薔薇がほしくなったの?」

「べ、べつにほしくなったわけじゃ……、ただ、薔薇を見ていたら、前に殿下が薔薇の花束を贈ってくれたことを思い出して、それで……」

「ほしくなった?」

「だから、べつに……」

「でもほしいんでしょう?」


 サイラスは意地でもオリヴィアに「ほしい」と言わせたいらしい。観念したオリヴィアが、小さな声で「ほしいです……」と答えると、満足そうに笑う。


「今度真っ赤な薔薇の花束をーー」

「い、一輪で充分です! 充分ですから……!」

「そう?」


 オリヴィアは花より本が好きな自分が、フロレンシア姫のように女性らしい性格ではないとわかっている。ただ、薔薇の花を幸せそうに見つめるフロレンシア姫を見ていて、サイラスから花束を贈られたときのことを思い出しただけだ。それでちょっぴりサイラスに花を贈ってほしくなっただけである。花束がほしいわけじゃない。一輪で充分だ。だから、先ほどサイラスが髪に飾ってくれた一輪だけで、充分に満足なのだ。


「これで、充分です」


 オリヴィアが髪に手を伸ばしながら赤い顔のまま微笑めば、サイラスは彼女を抱きしめたままはあと息を吐き出した。


「ほしいものがあれば、なんだってあげるのに。オリヴィアは本当に欲がない」

「そんなことはないですよ……?」


 オリヴィアにだって欲はある。だけれど、一番欲しかった図書館に自由に出入りする権利をーー、それも、禁書区域にまで入れる権利をサイラスがくれたから、これ以上ないくらいに満足なだけだ。オリヴィアは今、とても満たされているのだ。

 サイラスはオリヴィアを抱きしめたまま、思い出したように顔を上げた。


「そう言えば、父上から伝言があったんだった」

「陛下から……?」

「そう。五日後からフロレンシア姫が視察で遺跡を見に南に行くんだけど、それに僕たちもついて行くようにだそうだよ。母上の命令で兄上が強制的に同行することになっているから、それを邪魔して来いって言ってた」

「陛下……」


 国王は、とことん、二人の仲を妨害したいらしい。そんなに必死にならなくても、あの二人は互いに興味がなさそうなのだが、徹底的に引き裂けということだろうか。


(それにしても、南ね……)


 南の遺跡と言うことは、ブリオール国とカルツォル国との国境付近のことだろう。地図を思い浮かべたオリヴィアの顔が曇る。ブリオール国とカルツォル国とは正直微妙な関係だ。十数年前に国境付近で小競り合いがあってから、両国の国境には高い壁が作られて、常に見張りの兵が立っている。一触即発というわけではないのだが、友好的な関係ではないため、フロレンシア姫の視察場所としてはいかがなものだろうか。

 サイラスにもオリヴィアの考えていることがわかったのだろう。小さく苦笑する。


「フロレンシア姫の希望らしいよ。旧王朝の跡地が見たいんだえって」

「なるほど……」


 ブリオールとレバノール、フィラルーシュの三国が一つの国だった旧王朝時代。その王宮はブリオールの南、カルツォル国との国境付近にある。もっとも、旧王朝時代は何度か王宮の場所が変えられているので、カルツォル国との国境付近の遺跡は、旧王朝時代中期のものだ。もう千年も前のもので、しかもその王宮は旧王朝滅亡のきっかけになった戦争で破壊されてしまっているので、元の状態では存在しない。遺跡の残骸のほとんども地中に埋まっているため、現在発掘作業中なのだ。その発掘作業はかなりの重労働で、発掘作業は大半が服役を言い渡された罪人が行っている。囚人が作業についているので監視も多いため、付近の町は治安が悪いわけではないのだが、フロレンシア姫が希望したとはいえ、よくそのような訳ありの場所へ視察の許可が出たものだ。


(でも、遺跡かぁ……)


 フロレンシア姫の心配をしつつも、オリヴィアはそわそわする心を落ち着けられなかった。旧王朝時代のことは本で勉強したからいろいろ知っているが、遺跡を見に行ったことはない。以前、行きたいと言ったときは、父である公爵に反対された。当時オリヴィアはアランの婚約者で、未来の王妃を危険があるかもしれな場所に連れていけないと言われたのだ。だが、今回の視察同行は国王の命令。父も反対できないだろう。


(遺跡から発掘された出土品が並ぶ博物館も併設されているって言うし、本に書いてなかった新しい発見とかあるかも……!)


 うずうずしてくる。発掘のため、研究者も集まっているだろう。話を聞くことはできるだろうか。研究をまとめた手記などはあるだろうか。見せてくれるだろうか。旧王朝中期といえば、紙が作られたころである。何か出土していたりしないだろうか。古代語は、多少なら読むことができる。


「オリヴィアは薔薇より遺跡の方が好きみたいだね」


 サイラスがオリヴィアの顔を間近から見下ろしてくる。目が輝いていると指摘されて、オリヴィアは頬を押さえた。


「その様子だと、視察に同行するのは嫌じゃなさそうだね。安心したよ」


 サイラスはオリヴィアの頭を撫でる。


「……ま、さすがに会うことはないだろうし、大丈夫かな」


 サイラスがぽつりとつぶやいたが、遺跡を見ることができると浮かれているオリヴィアの耳には入らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る