エピローグ

 アランは結局、王太子の位を返上することになった。正式な手続きは時間がかかるためまだであるが、じきに発表がある予定だ。しばらくは王太子の席は空白にしておくらしい。いずれサイラスか、もう一度アランがその地位を得るまで。


 もちろん、アランが再び王太子になるには並々ならぬ努力が必要だろう。普通に考えれば無理だろうが、最近のアランはまるで人が変わったように真面目になって、仕事も、足りてなかった教育にも熱心だという。


 王妃によると、サイラスも少し変わったという。オリヴィアの目にはわからないが、サイラスは今まで興味を示さなかった国政にかかわる勉強を改めてはじめたそうだ。王妃は薄く笑って、「あの子はあの子なりに何かを考えているのかもしれないわね。あなたのおかげなのかしら?」と言っていた。


 ゆえに国王と王妃の賭けは続行中で、相変わらずどちらを王にするかで盛り上がっているそうだ。


 ティアナはアランとの婚約を解消され、レモーネ伯爵家は取りつぶしとなった。残された扱いの厄介なレモーネ伯爵領に、アトワール公爵の管理下におかれることになり、不正に搾取していた金の利益などについては、レモーネ伯爵家から押収した金品で足りない部分については国がいったん肩代わりするかたちで賠償責任を担い、元レモーネ伯爵以下その家族は過酷な重労働につくことが刑とされた。


 オリヴィアは――


「結局、またいただいてしまったけれど、いいのかしら?」


 一度は追い出された王太子の婚約者――もともとオリヴィアに与えられていた部屋である。


 オリヴィアが出て行ったあと、ティアナが利用していたこの部屋には、二日前まで彼女の私物が多数おかれていたが撤去されて、今はがらんとしていた。


 家具は国王が新しく入れてくれるというが、まだ届いていない。


 この部屋はこんなに広かったのかしらと、ほとんど何もない部屋の中をぐるりと見渡していると、カーテンを入れ替えていたテイラーが満足そうにうなずいた、


「当然です。ここはもともとオリヴィア様に用意された部屋なのですから」


 唯一ティアナの私物で残っていた派手なローズピンク色のカーテンが撤去されて、オリヴィアの希望でオリーブグリーンの落ち着いたカーテンが取り付けられる。これだけでも部屋の印象ががらりと変わって、オリヴィアはなんとなく自分の部屋だという実感が持ててきた。


 オリヴィアはサイラスと再び婚約することになるが、レモーネ伯爵の一件から、アランの廃太子の件など、あまりに大きな問題が重なったため、少し落ち着いてから発表することになっている。


 王妃と国王が話し合って、今まで王太子に回されていた仕事は、アランとサイラスで分割させることにしたらしい。そのため、おそらくだがまたオリヴィアの手元にもいくつかの仕事が回ってくるのだろうなと推測している。


「書類仕事のために、ライティングデスクは少し大きいものをおいてもらおうかしら」


「……オリヴィア様、頼まれる前から当たり前のように受け入れちゃうんですね」


「二人でやるより三人でやった方が早いでしょ?」


「そういう問題なんですか……」


 テイラーがあきれたように嘆息する。


 オリヴィアはテイラーがどうしてあきれ顔をするのかがわからなくて首をひねった。長年やって来たからか、オリヴィアにとって書類仕事はそれほど苦ではないし、こうして再び城に部屋を与えられたのだから、図書館にも行き放題。早く仕事を終わらせて余暇を作ればそれだけ自由な時間が増えるのだ。


「そう言えば、王妃教育も受けられるとお聞きしましたけど。……必要ないでしょうに」


「そんなことはないわよ。ワットール様から学ぶことはたくさんあると思うの」


 そう。オリヴィアが王妃になるかどうかは、サイラスが王位を継ぐかどうかにかかっているので、必ずしも決定事項ではない。だが、オリヴィアは彼女の意志で王妃教育を受けなおすことにしたのだ。もちろん学びたいという気持ちもあるが、これはサイラスと自分のためでもある。


 これまで王妃教育も受けていない愚者だと言われてきたオリヴィアだ。定着した印象というのはそう簡単には変わらない。そのため、目に見えて努力していることを示すために王妃教育を受けるのが一番手っ取り早かった。オリヴィアのせいでサイラスを笑いものにするわけにはいかないし、もし将来王妃になることになった時に、王妃が愚者だと侮られては国政にかかわる。


 アランの時は、彼がやることだから好きにすればいいだろう。困るのはアランだ――くらいに軽く考えていたが、よく考えればあの時の自分の「我関せず」という態度も悪かった。どこかでアランときちんと向き合っていたら、また違っていたかもしれない。


(……知らん顔を続けたわたしにも、責任があるわ)


 こうして思えるようになったのは、アランのおかげだろうか。


 レモーネ伯爵が捕縛されて少しして、アランが一人でオリヴィアに会いに来た。彼はオリヴィアを見るなり深く頭を下げて、改めてこれまでの彼女への態度などについて謝罪してくれたのだ。まさかオリヴィアはアランが自分に頭を下げる日が来るとは思いもせず、茫然としてしまったものだ。


 そして、どこか自嘲気味に笑って、こうも言った。


 ――見ていてくれ。私だって、今から変わることだってできるんだ。いつか君に、見直したと、そう言わせてみせるよ。


 オリヴィアは、その日はそう遠くないと思っている。


 アランはプライドが高く自分の我を押し通そうとするところがあるが、だからと言って手も付けられないようなどうしようもない愚かな王子というわけでもなかった。本当に国を滅ぼしかねないほどの愚か者ならば、あの国王がアランを王太子にしたはずがない。今からだって充分修正がきくだろうし、本人にやる気があるのであればなおのことだ。


「オリヴィア、ここにいたの?」


 何もない部屋で、ぼんやりとそんなことを考えていたオリヴィアは、背後からかけられた声にゆっくりと振り返った。


 先ほどまで教育官のもとで法律について学んでいたサイラスが笑顔で立っていた。彼の教育量は以前よりも格段に増えたが、その顔には疲労感はない。むしろどこか楽しそうだ。


「今から一時間ばかり余暇があるんだ。図書館に行かない?」


 サイラスはそう言って、禁書スペースの金色の鍵をちらつかせる。また国王から借りてきたらしい。


 オリヴィアはもちろん、二つ返事で頷いた。


 テイラーに一時間ほどで戻ると告げて、彼と手をつないで庭の図書館へと向かう。


 禁書スペースに入ると、オリヴィアはスキップをするような足取りで本棚へ近づいていく。


 何冊かの本を手に取って、サイラスとともに奥の読書スペースへと向かうと、窓からはきれいに整えられている薔薇園が見えた。


 サイラスが向かい側ではなくオリヴィアの隣に腰を下ろす。


 早速本を開こうとしたオリヴィアは、サイラスの手によって動作を遮られて、どうして邪魔をするのだと口をとがらせて上を向いた。


「――っ」


 その口に、ちゅっとかすめるような口づけが落ちて、目を見開く。


「君は読書に集中しはじめると、全然相手をしてくれなくなるから」


「だ、だからって……、不意打ちは、ひどいです」


 キスされたと自覚するとともに真っ赤に染まったオリヴィアの顔に、サイラスは満足そうに微笑む。


「不意打ちでないと、逃げるじゃないか」


「う……」


 オリヴィアはまだこう言ったふれあいには慣れておらず、サイラスにキスしたいと言われるだけで真っ赤になって逃げ越しになってしまう。


 それがわかっているからか、サイラスは突然、前触れもなく、彼女の隙を狙ってはこうして不意打ちのキスを落としてくる。


 心臓に悪いからやめてほしいと言ってもやめてくれず、オリヴィアはこれには慣れにしかないのだろうかと半ばあきらめていた。


(……こんなことされたら、本に集中できないっ)


 どきどきと心臓がうるさく鼓動を打ちはじめて、本を開いても中身が頭に入ってこない。


 恨めしそうにサイラスを見上げれば、彼はおかしそうに笑った。


「そうか。最初にキスすれば、君は本より僕のことを考えてくれるようになるんだね」


「か、からかわないでくださいっ」


「からかっているんじゃなくて喜んでいるんだけど」


 サイラスが楽しそうにつんつんとオリヴィアの頬をつつく。


 オリヴィアは「もう」と拗ねるふりをして赤くなった顔を隠すように窓の方を向いた。


 すると、窓の外で王妃と国王が仲良く庭を散歩しているのが見えて、オリヴィアが不思議そうな顔をすると、窓に映ったオリヴィアの表情に気がついたのかサイラスが苦笑する。


「あの二人、別に仲が悪いわけじゃないんだよ。むしろ仲はいい方だと思う」


「そうなんですか?」


 オリヴィアはてっきり、この国王夫妻の仲は険悪なのかと思っていた。でも、険悪でないなら、どうして妙な賭け事をしているのだろう。話し合えばいいのに。というか、そもそもその賭け事の勝者が得られるものはいったい何なのだろうか。何を賭けているのだろう。


「子供だよ」


「……え?」


 サイラスがオリヴィアの思考を読んだように告げた。


「あの二人は兄上と僕、どちらが王になるかで賭け事をしているけど、賭けの景品――というと少し違うけど、子供を賭けているんだ」


「子供?」


「簡単に言えば、父上はもう一人子供が欲しい。母上は子育ては疲れるからもうしたくない。結果、僕たちで賭けをして勝った方の言うことを聞くってことになったんだけど、兄上が王太子になって母上が勝利宣言したら父上がそれに待ったをかけて、結局今でもずるずるやってる。……さすがに、子供は父上ももうあきらめてるだろうけど。母上も、もう年だし」


 年というが、王妃はまだ四十だ。頑張れば産めない年でもない。サイラスはこういうが、あの国王は策略家というか、粘着質というか、とにかくあきらめが悪いので、おそらくまだ完全にはあきらめていないだろう。


 オリヴィアはどっと疲れたような気がした。大仰な賭け事をしているから、よほどの何かがあると思っていたのに、子供なんて。それこそ話し合いで解決してほしい。


「オリヴィア、君、今馬鹿馬鹿しいと思っているかもしれないけど、結果的に被害を被るのは、次は僕と君だと思うよ」


「どういうことですか?」


「だって、母上が子供を産んでくれないとわかったら、父上が今度言い出しそうなことと言えば……」


「ま、まさか……」


「孫。……父上、女の子が欲しいんだってさ」


 オリヴィアは頭を抱えたくなった。国王に「子供はまだか!」と追いかけまわされる未来はご免こうむりたい。


「ま、しばらくは賭け事の続きで盛り上がっているだろうから、大丈夫だとは思うけどね」


 大丈夫も何も、オリヴィアとサイラスは結婚前だ。婚約式だってこれからだ。この状況で「孫!」と言われても困る。こうなれば、できるだけこの賭け事を引き延ばして、そちらに興味を引き付けておかなくては。


 オリヴィアが頭の中で一番自分への被害を最小限に抑える方法を考えていると、サイラスが手を伸ばして彼女の頬に触れた。


「今度は考え事? どうせ考えるなら、僕のことを考えてほしいな」


 驚いて彼の方を見やれば、サイラスはどこか拗ねたような顔をしている。


 拗ねたサイラスがおかしくてオリヴィアが笑うと、彼はますます不貞腐れたような顔をして彼女の鼻をつまんだ。


「あんまり笑うと、またキスするから」


 サイラスがそう言えば、オリヴィアが顔を染めておろおろしはじめる。


 サイラスはオリヴィアが逃げる前に腕の中に閉じ込めて、その頬にちゅっとキスをすると、真っ赤な顔に満足そうにうなずいて彼女を膝の上に抱き上げた。


「君に触れていると癒されるから、休憩が終わるまでこうしていようかな」


 などとサイラスが言い出すから、オリヴィアはどうしたらいいのかわからなくなる。


 結局サイラスは、彼の休憩時間が終わるまでオリヴィアを抱きしめたまますごして、護衛官のコリンが呼びに来ると、顔の熱が引かないオリヴィアの手を引いて満足そうに図書館から出ていく。


 赤い顔をしたまま城の部屋に戻ったオリヴィアは、テイラーに「あらあらまあまあ」とにやにやされてしまった。


 その後もサイラスに手を引かれながら真っ赤な顔をしているオリヴィアの姿は、何度も城の人たちに目撃されて、いつしか秘かに「リンゴ姫」などとありがたくもないあだ名をつけられていたと知るのは、もう少し後のことになる。




 これより百数十年ののち、オリヴィアはその「リンゴ姫」のあだ名とともに、賢妃オリヴィアとしてブリオール国の歴史に名を残すこととなる。夫に手を引かれて、真っ赤な顔で歩く「リンゴ姫」の物語は、小さな子供たちの間でも語られる有名な物語となったのだった。

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