30

 王太子アランは、何となくオリヴィアの顔が見たくなって訪れたアトワール公爵家で、彼女が旅行中であると聞かされて愕然とした。


 弟のサイラスも同じ時期に旅行に出かけたのである。これは、二人が一緒であると考えたほうが自然だった。


 アランは自分がどうしてこれほどまでにショックを受けているのかもわからないままに、苛立ちながら城へと戻った。


(サイラスは確かにオリヴィアに求婚したようだが、オリヴィアはそれを受けていないはずだ。どうして二人で旅行なんかに行くんだ)


 そもそも、サイラスがオリヴィアに求婚したことだって気に食わなかった。オリヴィアはアランの物だった女だ。それをどうして、アランと婚約破棄をした直後に求婚など。ふざけるにもほどがある。


 むかむかしながら城に戻ったアランは、私室の前にティアナが立っているのを見つけて足を止めた。どうやらアランに用事があったらしい。


「どうした? 中で待っていればよかっただろう」


 するとティアナは不貞腐れたような顔で、アランの部屋の前の衛兵に視線を投げた。


「だって、通してくださらなかったんですもの」


 なるほど。アランの部屋の中には重要書類もおいてある。主不在の時に、不用意に人を入れてはいけないと指示されている彼の行動もっともだ。


「そうか。お前たち、私が不在の時でもティアナは中に入れていい。ティアナ、おいで」


 アランが部屋をあけると、ティアナが嬉しそうについてくる。


「そう言えば、任せている書類仕事はどうだろうか。大変であれば……」


「ああ! あれですわね! 大丈夫ですわ! 全然問題ございません」


「そうなのか?」


「ええ!」


「なら、いいが……」


 アランは少々怪訝に思ったが、本人が言うのだからそうなのだろうと頷いた。


 ティアナはメイドが用意したケーキを食べながらお喋りをはじめる。だが、どうしてだろう。ティアナの話を聞くのが、アランには、以前ほど楽しいと思えなくなっていた。


 ティアナは満足するまでとりとめのない話を続けたあとで、教師が探していると知らせを受けて渋々自分の部屋へと戻って行く。


 アランはティアナが去ると、ぐったりとソファの背もたれに身を沈めた。


「……オリヴィアなら」


 ふと思う。


 オリヴィアはあまり口数が多くなく、心地いいトーンで、心地いいテンポで、静かに話すようなタイプだった。まだ一か月と少ししかたっていないのに、それがひどく懐かしい。


 もちろん、それをつまらなく思っていたのも事実だ。


 彼女は自分から話題を振るようなことはしなかったし、アランが何か話しかけても当たり障りのないことしか返してこなかった。


 アランが周囲にオリヴィアが馬鹿だと言っても怒りもせず、また、周囲に軽んじられても眉一つ動かさない。


 たまにオリヴィアは人間ではなく人形ではないかと疑いたくなるほどに、彼女は何を言われても、いつもただ静かだった。


「……馬鹿、か」


 口の中で呟いてみる。


 アランはずっとオリヴィアのことを愚者だと思っていた。学がないと思っていた。しかし、王妃教育の担当官であるワットール然り、アランの補佐官のバックス然り、オリヴィアのことを天才だという。


 最初は疑っていたアランだったが、先日のフィラルーシュ国のエドワール王太子とのやり取りで、もしかしたらそうなのではないかとも思いはじめていた。


 であれば、オリヴィアはどうして愚者のふりをしていたのだろう。


 考えるように目を閉じたアランは、突然ハッと目を見開くと立ち上がった。


 思い当たるふしが、一つだけある。


 そう――、オリヴィアと婚約して一年かそこら経ったときのことだろう。教育官にオリヴィアと比較されては貶されてむしゃくしゃしていたアランは、彼女にこう言ったことがある。


 ――お前が隣にいると私が馬鹿のように思われるから、お前はこれから馬鹿のふりをしろ、これ以上教育は受けるな!


 そう言えば、あれからだ。オリヴィアの様子がおかしくなったのは。


 むしゃくしやしていたアランはオリヴィアから王妃教育を担っていた教育官ワットールを遠ざけたが、それはただの嫌がらせにすぎなかった。アランが遠ざけようとしたところで、ワットールは勝手にオリヴィアに王妃教育を施すであろうし、そうであって当然だとも思っていた。


 それがどういうわけか、オリヴィアは本当に王妃教育を受けなくなり、アランもオリヴィアに何を言ったかをすっかり忘れて、ただ遊んでばかりの婚約者だと決めつけた。


「まさかオリヴィアは、あの時の私の言葉を今まで守っていたということか……」


 アランは両手で顔を覆った。


 愚者はオリヴィアではない。――自分だ。


 けれども、気がついたところで過去はやり直せない。アランは、ただ自分の愚かさを呪うしかなかった。

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