15
オリヴィアが城で書類の決裁を手伝うようになって数日が過ぎた日のことだった。
「王妃様が呼んでる?」
仕事がひと段落付き、小休憩を取っていると、王妃の遣いである王妃付きの侍女が部屋へとやって来た。
王妃の侍女は例にもれず「オリヴィアは愚者」という城中に広がっている噂話を信じているようで、オリヴィアに向かって蔑んだような視線を向けてくる。テイラーが眉を跳ね上げて、いつ追い返してやろうかと構えているのに気づきながら、オリヴィアは苦笑を殺しながら訊ねた。
「どうしてわたしを?」
「それについてはわたくしは存じ上げません。王太子殿下と婚約破棄なさったあなたを憐れんでいらっしゃるのではないですか? 王妃様はお優しい方ですから」
「な――」
思わずと言った様子で口をはさみかけたテイラーをそっと手で制して、オリヴィアは鷹揚に頷いた。
「わかりました。いつお伺いすればよろしいでしょうか?」
「明日の昼に王妃様のお部屋で二人だけのお茶会をとおっしゃられています」
「なるほど。お受けいたしますとお伝えくださいますか?」
王妃の侍女は顎をしゃくるようにうなずくと、挨拶もそこそこに部屋から出ていく。
ばたんと部屋の扉が閉まると、テイラーがその扉に向かってクッションを投げつける。
「失礼にもほどがあります!」
「まあまあ。相手にするだけ疲れるだけよ? いつものことじゃないの」
「またそんな呑気なことを!」
テイラーは怒るが、オリヴィアにしてみればもう関係のないことだ。王太子の婚約者であったときは、ゆくゆく王妃になるのであれば、どこかで関係を正さないといけないだろうと思っていたが、もうオリヴィアが王妃になることはない。ならば、好きなように言わせておけばいいのだ。さほど実害はないし。
オリヴィアはテーブルの上のクッキーの入った皿に手を伸ばした。
「ほら、甘いものでも食べて少し落ち着いて。このクッキー、おいしいわよ?」
「クッキー? ああ、サイラス様が差し入れてくださったクッキーですね」
テイラーはオリヴィアの隣に腰を下ろすと、勧められるままにクッキーを一枚口に入れる。
オリヴィアもクッキーを一枚手に取った。砕いたアーモンドがふんだんに練りこまれている、さくっと軽い口当たりのクッキーだ。
「オリヴィア様はアーモンドのクッキーがお好きですからね。さすがです、殿下!」
テイラーのサイラスへの評価は高い。とにかく高い。さっさとくっついてしまえと無言の圧力を感じるほどに、高い。
オリヴィアも、サイラスが嫌いなわけではない。ただ突然のことに驚いたこともあり、まだ判断がつきかねているだけだ。貴族である以上、いつかは結婚しなくてはならない。王太子から婚約破棄された傷物であるオリヴィアにとって、サイラスは良縁すぎるほどの良縁だ。
だから、父か兄か――もしくはサイラス本人から、たった一言「命令」してくれさえすればオリヴィアだって迷わない。貴族の結婚は政略結婚。家のための結婚だ。オリヴィアにはその覚悟があるし、逆に言えばその覚悟しかない。だから、「口説く」という言葉を使ったサイラスに戸惑っている。口説くとはどういうことだろうか。口説かれるとは、どういう状況を差すのだろうか。選ぶとはどうすればいい。
ああいう言葉を使った以上、サイラスはオリヴィアが「家のため」の結婚を選んだ場合、納得してはくれない気がした。つまりオリヴィアが彼の言う通り「口説かれ」「選ば」なければ、この結婚はまとまらない。
その気にさせて見るとサイラスは言った。だが、オリヴィアは自分が「その気」になるときは来るのだろうかと不安に思う。オリヴィアは幼いころから、自分の結婚と感情を切り離して考えている。というか、恋愛が何かもわからない。公爵令嬢であるオリヴィアが自分で選んでつかみ取れるものは、非常に少ない。そのはずだ。
(どうしてお父様は何も言わないのかしら……?)
まるで、オリヴィアがサイラスの求婚を断るのであればそれでもいいとばかりに、父は沈黙を続けている。
難解な謎かけを解いているような気分だった。
オリヴィアは常に、その時に一番正しい答えを選ぶようにしている。ならば、この難問の「正しい」答えはなんだろう。
(だめね、わからないわ……)
オリヴィアはアーモンドクッキーを咀嚼しながら、久しぶりの「難問」をどう処理すべきなのだろうかと考えた。
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