非通知

白身

非通知

 年明けに採用されたBさんは、まだ大学生のような若い女性だ。未経験と聞いて心配していたが色んな業務を熱心にこなしている。接客マナーもしっかりしていて、古株の職員には見習ってほしいくらいだった。

 ただ、彼女にも苦手な事があるらしい。


「電話を取るのが少し怖いんです」

 入社から一ヶ月後のフォロー面談で、Bさんはそう言った。しかし事務所にかかってくる電話は積極的に取ってくれている。ありがたいと思っていると伝えると、彼女はちょっと顔を曇らせた。

「登録されている電話はいいんですけど、非通知が…」

 事務所の電話には、電話番号や登録されている社名がちゃんと表示されている。非通知でかけてくる人は少ないが、いなくはない。そんな時はクレームのような電話も多いから、確かに自分も構えてしまう。

 ただ、青白くなったBさんに、何か嫌な経験があったのだろうかと尋ねてみた。隣室での電話の声が響く面談室で、Bさんは「実は」と語り始めた。


 Bさんは卒業後、ある会社の契約社員として働き始めた。本当は取った資格に関係する仕事を望んでいたらしいが、人手不足なのに未経験者を喜ばない業界だった。

 就職先の会社は役所の下請け業務をしていた。仕事内容は資格に少し絡んでいる。正社員登用の道もある。無理でもここで経験を積んで次には、という思いで、Bさんは働いた。

 仕事は大変だった。相談窓口のような事も委託されていたので、たまにクレーマーめいた人間もいれば、寂しさからひっきりなしに電話してくるような人間もいる。しかしそこは役所の下請けである。門前払いもできず時間を取られてしまう。

 幸いなのは周囲がBさんに優しい事だ。特に直属の上司はフォローが上手かった。


「色んな人がいますね。大変だったでしょう。でもBさんが初めに丁寧に対応してくれたから、僕が話した時は少し落ち着いてくれてましたよ。ありがとう」


 Bさんが対応しきれなかった相手に二時間近く拘束されても、笑顔でそう言うような上司だった。だから多忙の割には、職場の雰囲気は悪くなかったという。



 ある時、Bさんは電話を取った。上司は出張中、他の職員も外勤などで出払って、事務所には人が少ない時間帯だった。


「はい、○○でございま…」

「聞こえてんだろ!」


 年配の男の声だった。開口一番に怒鳴られるのは、Bさんもまだ慣れない。うろたえてはいけないと思いながら、「はい」とBさんは応じた。通話音量を下げても響く大声だった。


「お声は届いておりますが」

「うちの中でよぉ、転がってるんだよ」

「え?」

「だから、転がってるんだよ! 何とかしろよ!」


 滑舌は少し悪いが、酔っぱらっているような雰囲気ではない。困惑しながらBさんは確認していく事にした。


「恐れ入りますが、何が転がっているのでしょうか?」

「わかるだろ! あいつだよ! おい、聞こえてんだろ!」

「は、はい」


 はい、と繰り返しながら、Bさんは誰かが倒れているのではと思った。以前、「車椅子ごと転倒して起き上がれない」という電話が来た事もあった。そうであれば一大事だ。


「あいつとおっしゃるのは、ご家族様ですか?」

「何だっていいだろ! どうにかするのがお前らの仕事だろうが! とにかくよぉ、前みたいに持っていってくれよ、なあ」


 強気に怒鳴り散らしている割に、最後は泣き出しそうな気弱な声になっている。「前みたいに」という事は誰かが対応をした事があるのだろうか。先輩たちに聞いてみたいが、今はデスク列の端っこに、入社一年未満のD先輩がいるだけだ。

 アイコンタクトもなかなか通じない距離にBさんが悩んでいると、受話器の向こうからはまた大声が響いた。


「おい、聞こえてるな! 聞こえてんだろ!」

「は、はい!」


 Bさんが慌てて返答すると、ぶつん、と電話が切れた。

 D先輩にBさんは相談したが、仮に倒れていたにせよ、相手の電話番号も何もわからない。「たまにあるよ、変な電話」とD先輩もあまり深く考えないようだった。

 結局その日は非通知の電話が鳴る事もなく、別件に追われ忘れてしまった。


 再び非通知をBさんが取ったのは、一週間後の事だった。

 ディスプレイの「非通知」の文字を見た瞬間、嫌な予感がした。ただ、その日はずっと電話を取りっ放しで、体に癖が付いていたのだろう。手が勝手に受話器を取ってしまっていた。


「はい、○○でございます」

「聞こえてんだろ!」


 すぐ響いた怒鳴り声に、やっぱり、とBさんは思った。通話音量を下げながら「はい」と答えた。


「この前も言っただろうが! 何でまだ持っていかねえんだよ!」

「恐れ入りますが、持っていってほしいものとは…」

「転がってんだよ! あいつがずっと転がってんだよぉ!」

「すみません、あいつとはどなたの事か教えていただけますか?」

「何回同じ事言わせるんだ!」


 耳鳴りがするような声で男は怒鳴り続けている。Bさんは「申し訳ありません」と「恐れ入ります」と「はい」を繰り返した。それでも響く怒鳴り声に、相槌を打つのもつらくなってきた。

 つい黙ってしまったが、その内にBさんはある事に気付いた。


「大体よぉ、何度目だよこれで!」


 男の声の後に、何かノイズのようなものが聞こえる。男はどうも、そのノイズが聞こえ終わってから怒鳴っているらしい。まるで会話のようだ。

 いやもしかして、これは誰かが話しているのではないか? それこそ、転がって、倒れている誰かが、男に話しかけているのではないだろうか。

 Bさんは思い切って、下げていた通話音量を最大まで上げてみた。わあんと男の声が響いた。その直後に、ノイズのように聞こえていたものが、はっきりした声としてBさんの耳に届いた。


「何でうちに転がってんだよ!」

「シゲちゃんがあたしを殴ったせいじゃない」

「どうにかしろよ!」

「そうやってすぐ人に押し付けてさあ」

「俺にどうしろって言うんだよ!」

「ちょっとあたしが断っただけで、何度も何度も、動かなくなるまで蹴って踏んで、救急車も呼ばないで」

「だからって何で転がってるんだよ!」

「あたしをここに転がして、何日も、何日も、ずうぅっとそのままにして」

「頼むから前みたいに持っていってくれよ! わかるだろ! おい、聞こえてんだろ!」

「ねえ、聞こえてるんでしょ?」


 Bさんが「はい」と答えるより早く、受話器が奪われた。振り返ると、受話器を持った上司が、柔らかい声でこう言った。


「もしもし? すみません、お声が遠いようですので、一度切らせていただきますね」


 上司は電話を切った。呆然と見上げるBさんに向けた笑顔は、いつもと何も変わりがなかった。


「本当に、色んな人がいますよねえ」



 それからしばらく、Bさんは電話に出る事自体が駄目になってしまった。

 退職の意向を上司や同僚たちに伝えると、残念がりはしたが、強くは引き止められなかった。短期間で退職する者は珍しくない会社だった。

 だがそれは、多忙だから、というだけではないだろう。


「あの電話のひと、何度も『前みたいに持って行ってくれ』って言ってたんです。『前みたいに』って、どういう事だったんだろうって思ったら、ぞっとしちゃって」


 青白い顔でBさんは言った。非通知に限らず、電話には無理して出なくていいよ、と言うとほっとした様子だった。それでも彼女はちゃんと、登録されている電話には出てくれていた。

 その代わりと言ってはなんだが、私が非通知の電話に出る回数は増えた。どうせクレームには上司の私が出るのだから、手間が省けると思うようにしている。

 ただ、非通知の表示を見る度に、Bさんの話が頭をよぎる。そしてもうひとつ、「お化けには返事をしてはいけない」という話も。

 聞こえているのかと問われ、「はい」と何度も答えてしまったBさんを、あの電話は追いかけてはこないだろうか。

 非通知の電話に出る度に、私はいつも通話音量を下げるようにしている。声の向こうから、もうひとつの声が聞こえないように。

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