混沌仙境・二ノ打チ要ラズ
瑞雨ねるね
歓迎光臨
生来の厳めしい面立ちを何倍にも
大陸最大の領土を有する国家――
その治安維持を務める警察組織『
罪を犯したならば償うべし。
贖いの叶わぬ罪業であれば、潔く死ぬべし。
不正に対し見て見ぬ振りをすることすら許し難い。それこそが浩然という男の人生観。魂の根幹にまで刻まれた信念である。
その浩然に言わせれば、目の前の魔窟は掃き溜めよりも醜悪な代物だった。
倫国最大の花街――
この地は倫にあって倫にあらず。
御上に多額の賄賂と阿片、そして女を献上することで治外法権を黙認された伏魔殿だ。
女衒に攫われた挙句、身売りを強要させる道徳的悪の巣窟である。ともすれば、街そのものが浩然にとっては不倶戴天の宿敵だった。本来ならば足を踏み入れることすら忌避する。それでも尚、彼がこの場に居合わせたのは偏に職責を果たす為であった。
倫国最大規模の犯罪組織――『
違法薬物である阿片の密売を始めとし、殺しに人身売買などのあらゆる悪行で以って財を成す秘密結社。倫の治安維持を志す『鉤爪』にとって、これほど分かり易い敵は存在しないと言えた。『鉤爪』と『大狼連合』は長きに渡って戦い続けている。
しかしその一方で、『大狼連合』の実態は漠然として知れぬままだった。傘下の組織ならば掃いて捨てるほど存在するし、当の浩然もその幾つかと実際に矛を交えている。捕らえた組員は両手の指では数えられない。だがそれでも尚、『大狼連合』はその頭目はおろか幹部の情報すら不透明なまま現存していた。
しかし、それも今日までだ。
『大狼連合』の不老不死伝説は、今日この日から切り崩されることになる。少なくとも浩然はそう信じていた。
浩然は正義感と野心が綯い交ぜになった眼光をより一層深くする。
独自の情報網を通じ、『大狼連合』の大幹部『
独断専行である。
しかし許される。正義の為ならば。
浩然は丹田に満ちる氣を眼球に集中させ、視覚を強化・鋭敏化させる。
崑崙の中でも中小規模の妓楼は、よくよく見てみれば阿片の臭気がこびり付いていた。そもそも崑崙全体が阿片に犯されているのだが、この建物は一等酷い。霞のように
ともすれば、崑崙――仙人の住む秘境の名をこの街が有していることにも納得がいく。
「―――総員、突入準備」
静かに、けれどよく通る声で浩然が告げた。
彼の背後には十五人の『鉤爪』。この日の為に浩然が直々に選抜した手勢だ。全員が鷲の羽を身に着け、その名が指す通りの長い鉤爪状の制圧武具を装備している。更に棍や旋棍、釵などを携えている者もいる。
阿片の煙対策として、全員が頭に厚手の覆面を巻き口と鼻を覆う。更に氣を練り上げ、肝機能を強化した。
氣──即ち、氣功術の技。
それは長きに渡る倫の歴史の中で武術と共に発展してきた技術だ。人間の身体に満ちる陽気──つまり生気や精力を特殊な呼吸法などで全身に巡らせ肉体の強化を図るのである。
いよいよだ。
『大狼連合』を狙うのは『鉤爪』だけではない。皇帝直属の部隊『
―――冗談ではない。
犯罪を糾すべきは『鉤爪』。悪行を罰すべきは己。それこそが天下の道理である。別けても浩然はそう信じていた。
『大狼連合』幹部の首級を上げるのは己だ。『鉤爪』が
「突入―――――ッ!」
雄叫びを上げ、浩然が駆けた。
一番槍。娼館の扉を乱暴に蹴破り、浩然は玄関を疾駆する。建物の中には当然、多数の妓女がいた。彼女達に誰何の暇を与えることなく手当たり次第に捕縛していく。次いで異変を察知した男衆が奥から出てくるが、それもまた制圧した。
十人の配下達も同様に建物内の人員を拘束している。
怖くなるほどにすんなりと事が進んでいた。
(―――なんと呆気ない。あまりにも歯応えがない。ここは本当に彼の渾沌の居城なのか?)
浩然の中で疑念が鎌首を
敵は『渾沌』。『大狼連合』が要する阿片の取引と栽培の七割を取り仕切る最大手の売人にして、花街・崑崙の運営者である。それがこの程度であろうものか───
しかしそれに対して、直ぐ様否やと
敵が弱く脆く感じるのは敵が弱いからだ。己が強いからだ。己の手勢が優秀だからだ。そう信仰して、浩然は建物の奥へと進んで行く。
一階は完全に制圧。
次いで二階もまた半ば程まで制圧完了。あと一息という所で――浩然は精悍な顔立ちを歪めた。
濃密な阿片の臭気。
これから踏み込まんとする部屋から漂うそれは、ある種の圧力を伴って『鉤爪』を
宮殿を思わせる、観音開きの豪奢な扉。その隙間から漂う阿片の甘ったるい臭いといえば、
「
浩然の端的な指示に、三人の『鉤爪』が「承知」と頷いた。
彼等は『鉤爪』の中でも下級の役人――
電撃的な侵攻であったとはいえ、突入捜査開始から幾許かの時が流れている。情報によれば相手は『大狼連合』が大幹部──『
―――恐れるに足らず。
鼻を鳴らし、浩然は部下達に合図を出した。
件の三人を扉の前に残し、それ以外の面々は両脇の死角にて隊列を組む。飛剣などによる迎撃による損害を極限まで減らす為だ。
当然、突入役を命じられた三人の『鉤爪』は命の危険に晒されるだろう。
しかしそんなことは織り込み済みだ。もし今回の作戦が成功し『渾沌』を捕らえることが叶えば、浩然は必ず出世するだろう。彼の覚えが目出度い者もまた同様だ。男児たる出世欲が生存本能を心地よく痺れさせていた。
『鉤爪』は氣の扱いに長けた戦闘集団でもある。一人一人が一騎当千の強者なのだ。彼等がその身に蓄えた
猛虎の如き雄叫びを上げ、三人の『鉤爪』が扉を破り部屋に突貫する。
間を置かず三つの打撃音。そして三人の人間が倒れる音。中で秘め事でも繰り広げられていたのか、絹を裂くような女の悲鳴が重なりそれらを掻き消す。
好機。
浩然ら十三人が先鋒の後を追って部屋に突撃する。
その瞬間、彼等は無様にも立ち尽くすことを余儀なくされた。
宮殿を思わせる紅い内装の部屋は、やはり阿片の紫煙で満ち満ちていた。
天蓋付きの寝台、洒落た円卓に一対の座椅子。上等な鯨油を使用した
至る所に設置された香炉から、もうもうと紫煙が溢れている。
汚穢な霞が立ち込める其処には――五人の人間がいた。
その内の三人は先程、先鋒として切った手札の『鉤爪』。倒れたままぴくりとも動かない。死んでいるのは明らかだ。
もう一人は娼婦と思しき小柄な少女。部屋の隅で野兎の如く縮こまっている。
歳は十代の前半だろうか。大きく太腿を露出した
そして――最後の一人。
それは暗黒のような男だった。
顔立ちそのものは端整だが、落ち窪んだ眼窩に削げ落ちた頬と、滲み出る陰気が台無しにしている。暗く
幽鬼の如き佇まい。ならば青瓢箪かといえばそうでもない。
まず印象深いのは優れた上背。そして簡素な黒衣の下に秘めた肉体は、一切の余分が削ぎ落された鋼であることが窺える。相当な手練れなのは間違いない。
その手には黒い長柄の凶器が一つ。長大な槍──六合大槍。穂先は黒い布が分厚く巻き付けられている。
誰もが一目見て確信した。
この男こそが標的――『大狼連合』が大幹部・『渾沌』に違いないと。
「フン――全部で十六人か。舐められたものだな」
陰鬱な声音が、阿片の煙の中に溶け消えた。
それを合図に戦いの火蓋が切って落とされる。大気を奔る咆哮。氣功術により
手甲から生える鉤爪や手にした武具に氣を纏わせ、総勢が一気に男――渾沌へ襲い掛かった。
吼える『鉤爪』に対して、『渾沌』は静かだった。
まず先触れの男が放った鉤爪の突きを、『渾沌』は左の逆手に持った槍の柄でいなし逸らす。それに連動して右手を柄に添えて穂先を相手の股に差し込むと、梃子の原理で跳ね上げて金的を打った。
痛烈な一撃は、睾丸を潰し大腿部の動脈を破裂させる。致命傷であった。
「───四」
次いで双方から襲い来る『鉤爪』は一方に対し突くと見せかけて眼前に穂先を突き付け出鼻を挫き、その隙に巧みな足捌きで体を反転。勢いに任せて上体を捻り、もう一方の『鉤爪』の首を柄で打ち据える。
頚椎が折れた。
間を置かず切り返し、『渾沌』は腕を引いて、体勢を立て直そうとしていた『鉤爪』の胸に石突を突き込んだ。
胸当ての上から胸郭を砕かれ、心臓が破裂する。
「───五、六」
淡々と数え、『渾沌』は更に槍を振るった。
『渾沌』の槍術はむしろ棍の扱いに近い。室内でありながら遠心力を十全に活用し、巧みに牽制と強撃を使い分け、返す刀で繰り出す渾身の一打で確実に敵の息の根を止める。
立ち回りも同様に巧み。三人以上の敵に囲まれることのないよう、絶えず足を動かし目紛しく立ち位置を変えている。
それどころか───
気が付けば、『鉤爪』は一つ処に集められていた。
数の利を活かすならば取り囲むことこそ兵法の初歩である。それを失念する『鉤爪』ではない。にも関わらずこのような事態を招いてしまったのは阿片の幻惑が原因か、あるいは───
「シッ───!」
気を吹き、『渾沌』が刺突を繰り出す。
更に槍を回転させ、隣にいた『鉤爪』の頭に打ち下ろした。喉を穿たれた死体と、頭が胴に減り込んだ死体が出来上がる。
連続して振われる大槍。
横薙ぎに払う一撃。梣製の堅い長柄が鞭のようにしなり、残る『鉤爪』を吹き飛ばす。四人の大男が宙を舞い、壁や床に叩きつけられて崩れ落ちた。
認めねばならなかった。この男は紛うことなき戦闘巧者。その武勇たるや、一騎当千の英雄譚と同等の域にある───
しかし、樟浩然もまた腕に覚えのある拳士だ。
驚愕こそあれど、怖れは微塵もない。
腰に佩いた倭刀を抜く。
倫において一般的な幅広の柳葉刀とは異なる、斬撃と刺突に特化した細身の頑丈な剣だ。浩然は左手を突き出した態勢で切先を斜に構える。
「
猿叫を上げ、敵手が薙いだ直後の隙を突く。
放たれた斬撃は――見事、六合大槍の柄を両断した。
「……ほう。業物だな」
続けざまの斬撃を躱しつつ、感心した風に『渾沌』が評する。
残る『鉤爪』は浩然を含め三人。対し、依然として敵は独り。もう得物もない。
「『渾沌』よ、大人しく縛につくならそれでよし。それでなくとも首を差し出すならば苦しまずに殺してやるが──返答や如何に!?」
再び倭刀を持ち上げ、浩然が通告する。
残る二人の『鉤爪』は油断なく左右に広がり、敵手を囲む。正しく絶好の機会。そして『渾沌』にとっての明らかな劣勢であった。
しかし、『渾沌』の厚顔な仏頂面に変化はない。
「断る」
言と共に最早用を成さぬ槍を放り捨て、拳闘の構えを取る。
片足を半歩下げて腰を落とす。緩く開いた左の掌を前に差し出し、矢弓を絞るように固く握り締めた拳を後方に引いている。全身を巡る氣は依然として強大で、一分の隙もなかった。
しかし如何に熟練の氣功術の使い手とて、生身で鉄器を防ぐことは能わない。
引かずの姿勢は恐らく『大狼連合』幹部としての意地。最期まで戦い続け、立ったまま果てることこそが彼の矜持なのだろう。ならばその願いを叶えてやるべく――三人は同時に『渾沌』へ襲い掛かる。
瞬間、有り得ぬ事態が起こった。
二度――たった二度の打撃。
武具を向けて襲い来る『鉤爪』に対して、それはあまりにも些細な反抗であった。ともすれば打撃個所を氣によって防護することで事足りる程に。少なくとも浩然にはそう見えた。
だが、死んでいる。
手練れである筈の、二人の『鉤爪』が死んでいる。ただの掌打によって。
あまりに奇怪。あまりに不可解。受け入れ難い現実。
それが――浩然にもまた降り注いだ。
倭刀の斬撃を避け、脇腹を狙って『渾沌』が右の掌打を繰り出す。対し、浩然は咄嗟に氣を練り上げ氣孔より噴出、腹部を防護した。冴えた氣功術。三星大鷲の称号は伊達ではない。
けれども―――
「―――ガ」
三人の男が諸共に倒れ、悶絶した。
喉の粘膜が青黒く火傷している。まるで落雷に撃たれたかのようだ。
これもまた氣功術の技法。
打撃に込められた、達人としての優れた勁力は勿論のこと。それだけでなく、自身の周囲に放出した氣で相手を呑むことで感覚を眩惑させ緊張状態となった神経に直接打撃を打ち込む技。これによって相手の氣は暴走し、生体電流を増幅させて身体の内側を焼く。
牽制の掌打であろうと必殺。その掌は正しく文字通りの凶手。
氣功術における絶招の境地。天が『渾沌』にのみ許した最強の武技。
故に知る者は謳う――
『渾沌』に二の打ち要らず、一撃で事足りる。
―――パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ
一転して静かになった部屋に、拍手が響いた。
『渾沌』は音の主に向き直り――拱手抱拳し恭しく一礼する。
「万事、滞りなく済みました。『渾沌』」
「ご苦労様。相変わらず君はボクの思った通りに動いてくれるね、実に助かるよ。
死に体。動かない肉体の――唯一自由である眼球を回して、目にした光景に浩然は瞠目する。
先程まで相対していた男が、娼婦に
そして先程、男が口にした台詞。
それはまるで、あの娼婦こそが『渾沌』であるかのような言い草だった。
「ん――生きている者が一人いるね。彼は殺さないのかい?」
「はい。今はまだ。今回の襲撃者の中で、この男が一番階級が上の様子でした。恐らくは指揮官でしょう。我々のことについてどれだけ知っているか、そもそも誰が情報を漏らしたのか、吐かせた方が宜しいかと」
一貫して
娼婦の女は鈴を転がすような笑みを零しつつ、横たわった浩然の下に歩み寄る。端整な美貌に猫を思わせる悪戯っぽい笑顔を張り付けた姿──それを見上げた瞬間、浩然の全身の肌が総毛だった。
己は一体今まで何を見ていたのか。
ただの娼婦だなどととんでもない。これは、もっと恐ろしい別の何かだ。
少女は旗袍に隠れた内腿から暗器を引き抜く。黒い鉄の扇。広げられた板に踊るは金箔をふんだんに使った豪奢な模様。頭にある筈の目・鼻・口・耳の七孔を欠き、六本の脚を持つ長毛の犬――渾沌だ。
艶やかな絶世の美少女。その貌は、怖気が走るほど美しい。
長い黒髪を布で纏め団子にした髪型。大きな目は切れ長で鋭く、嘲りに満ちた冷めた眼光を放っている。血の色が透けた赤い双眸は紅玉のようで、肌は陶器の如く白く澄んでいた。
凄まじい武勇を発揮した書狼を
書狼を戦の達人とするなら――彼女は魔性の毒婦だった。
「そうだね。大方の予想は付くけれど、愉しみは多い方がいい。君は本当に優れた右腕だよ、小狼」
「恐縮です」
再び、深々と頭を下げる書狼。その所作に満足気な笑みを向けて――一転して、黒衣の娼婦は凍った眼差しで浩然を見下ろす。
「困惑しているようだね。無理もないさ。ボクは女だ、倫――ましてや『大狼連合』の男尊女卑社会で上に立つことは出来ない。普通ならね」
囁くように優しく告げて、当代の『渾沌』――黒扇が膝を折り身を屈める。
彼女は浩然の顔に触れ、指先で目の下を押した。充血した粘膜が露わになる。
「―――冥土の土産に教えてあげようか? ボクの本当の名は
それこそが真実。
それが事実であると、書狼は黙して肯定する。
「さて――世間話はこのくらいで。君はボク達の訊きたいことに答えてくれるかなぁ?」
剽軽に呟き――黒扇は、眼窩の隙間に細く
始まる拷問。
激痛に苛まれる最中、浩然は愚考する。
この女も。
先の敗北も。
全て、阿片が見せた幻であったらよかったのに―――
斯くして。
この日この時、この瞬間。『鉤爪』・樟浩然の命運は尽きたのだった。
混沌仙境・二ノ打チ要ラズ 瑞雨ねるね @unknown996
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